①原爆死没者慰霊碑
原爆投下から7年後の1952年8月6日に建てられたワニー。
ここは原爆で犠牲になったすべての人の慰霊をするための場所で、原爆によって亡くなった方の名簿が石棺に納められとるんよ。
慰霊碑の中の石碑には、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という碑文が彫られとる。これはすべての人々が世界平和の実現を誓う言葉なんじゃ。
屋根の部分は、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたいという気持ちで、はにわの家型になっとるんよ。
被爆30年の節目を迎えた1975年11月には、池田SGI会長が訪れ、この慰霊碑に献花し、平和への深い祈りを捧げたんよ。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年
②SGI世界平和の樹
1975年と76年、広島創価学会の高等部員たちが2冊の被爆証言集を出版したんじゃ。その原稿料の寄付を広島市に相談する中で、植樹の話が持ち上がり、ヒマラヤ杉を購入。平和記念公園への植樹が実現したんよ。その後、残念じゃが、そのヒマラヤ杉は枯れてしまったワニー。
1995年(被爆50年)、広島で「世界青年平和文化祭」が行われることが決まり、当時の高等部員たちが、再び市と掛け合って、今度は巨樹にも成長するクスノキを選んだんよ。
世界55カ国・地域のSGIメンバーが見守るなか、核兵器廃絶と平和への祈りを込めて、クスノキを植樹したワニー。
③原爆の子の像
この像は、1958年5月5日(こどもの日)に建てられたワニー。
佐々木禎子(さだこ)さんは2歳の時、爆心地から1.6kmの楠木町で被爆したんじゃが、幸いけがもなく、元気で活発に成長。
ところが、小学6年生の時に突然白血病と診断された。8か月間の闘病生活中、「生きたい」という願いを込めて、折り鶴を折ったんじゃ。そして1955年10月25日、中学1年生(12歳)という若さで尊い生涯を終えたんよ。
禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちは、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけ、子どもたちによる募金活動が始まり、この像が完成したんじゃ。
病気を乗り越え、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は広く語り継がれ、今では世界中から年間約1,000万羽もの折り鶴が寄せられているワニー。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年
④韓国人原爆犠牲者慰霊碑
日本が朝鮮半島を植民地化していた第二次世界大戦当時、職を求めて来た人たちや、強制連行や徴用された人々など、日本には多くの朝鮮半島の人々が生活しとったんじゃ。
広島市内では約5万人の朝鮮半島の人々が被爆し、そのうち約3万人が亡くなったと言われとる。
この碑は1970年4月10日に、再び原爆を繰り返さないことを願って建てられたワニー。
「死者の霊は亀の背に乗って天に昇る」という朝鮮半島の言い伝えにちなんで、亀をかたちどった台座の上に碑柱を建て、その上の冠には2匹の竜が刻んである。
亀は祖国を向いているワニー。死者の霊だけでも祖国へ帰られるようにとの願いが込められているんじゃ。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年
⑤原爆供養塔
この塔は1955年、被爆10年を期して広島市が建立したワニー。
塚の下にある納骨堂には約7万柱の遺骨が納められとるんよ。
かつて大きな寺があったこの場所は、被爆後には臨時火葬場となって、男女の区別もつかない無数の遺体が集められて焼かれたんよ。
その後も、各所に散在していた身元不明の遺骨がここに集められてきた。
名前が分かった遺骨は毎年一般公開しているワニー。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年
⑥平和の鐘
この鐘は、平和共存の世界を達成するという、ヒロシマの悲願のシンボルとして1964年に建てられたワニー。
鐘の表面には、国境のない世界地図が浮き彫りにされ、「世界は一つ」という願いが込められているんじゃ。
ドーム型の屋根は宇宙を表現していて、撞木の当たる部分は、原水爆禁止の思いをこめて、原子力のマークになっとるんよ。
その反対側には鐘をつく人の心を映し出す鏡があり、この鐘は誰でも自由につくことができるんよ。
被爆当時、ハスの葉で傷をおおって火傷の痛みをしのいだ被爆者がたくさんおったそうじゃ。現在、周囲の池にはハスが植えられ、毎年8月6日の平和記念日には美しい花を咲かせるワニー。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年
⑦原爆ドーム
原爆ドームは、1915年に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、美術展覧会などが催されていたワニー。当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれておったんじゃ。
建物は原爆の爆風と熱線で破壊され、 天井から火を吹いて全焼。館内にいた人はすべて即死したんじゃ。
戦後、その姿から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになって、今では、ノーモア・ヒロシマの象徴として、核兵器の廃絶と平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになったんじゃ。
1996年、宮島の厳島神社とともに世界文化遺産へ登録されたワニー。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年
⑧被爆アオギリ
爆心地から1.3 kmの広島逓信局の中庭(現日本郵政グループ広島ビル付近)で被爆したワニ-。
爆心地側の幹の半分は焼けて、枝葉は全てなくなったんよ。枯れ木同然だったのが、翌年の春には芽吹き、心身ともに傷ついた被爆者に生きる勇気を与えたんじゃ。
このアオギリの種は広島市内の多くの小学校に贈られ、校庭には寄贈されたアオギリ2世が植えられとるよ。
そして日本国内のみならず世界中にも贈られ、平和の大切さを伝えとる。
広島の街には、被爆し傷つきながらも、半世紀を越えて生き続ける樹木が多く残っているワニー。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年
⑨原爆死没者追悼平和祈念館
国として原爆死没者を心から追悼し、永遠の平和を祈念するために、2002年に開館したワニー。同じ被爆地の長崎にもあるんじゃ。
1945年8月6日の原爆投下後、その年末までの死没者数は14万人と言われておる。亡くなられた人と同じ数の「14万個」のタイルで被爆の街並みを表現した「平和祈念・死没者追悼空間」や、約10万点の被爆体験記と原爆死没者の遺影を公開した体験記閲覧室などは、是非直接見てほしい。
証言ビデオや被爆当時の写真・映像も自由に見ることができるんじゃ。
インターネットを通して視聴できる被爆体験は、なんと27言語にものぼるワニー。
入場無料じゃ。
参考:小倉桂子. HIPの平和公園ガイド.
平和のためのヒロシマ通訳者グループ,2005年