家族の絆


父、母、兄弟

画像:当時の大森の様子
当時の大森の様子
昭和3年(1928年)1月2日。池田大作先生は、東京・大森で海苔製造業を営む家の、8人きょうだいの5男として生まれた。

父・子之吉は、寡黙な人。一本気で頑固だが、お人よしで面倒見のよい一面もあった。周囲からは“強情さま”と呼ばれ、筋を通す父であった。

母・一(いち)は快活で明るく、働き者。父がリュウマチを発病し、家業が傾いたときにも「うちは貧乏の横綱だ」と明るく言うような、芯の強い女性だった。「人に迷惑をかけるな。ウソをつくな」と、口ぐせのように言う以外、子どもらの好きにさせ、叱るようなことはめったになかった。

戦争が始まると、4人の兄は次々に出兵。病に伏していた父に代わり、懸命に一家を支えた。

昭和20年(1945年)5月の空襲は、一家を直撃。弟と二人で必死に長持を一つ持ち出した。一家の唯一の財産となった長持を開けると、雛飾りとコウモリ傘が一本入っていただけだった。家族が落胆するなかで母は言った「このお雛様が飾れるような家にきっとまた住めるようになるよ」

剛毅な父と、明るく優しい母のもとで過ごした少年時代は、厳しい時代のなかにも、明るく、温かなものだった。

夫人への師の指針

画像:香峯子夫人が使用してきた家計簿
香峯子夫人が使用してきた家計簿
昭和26年(1951年)の初夏のこと。ある会合の帰り道、池田大作青年は白木という旧知の友人と偶然一緒になった。白木は、側の女性を「妹です」と紹介した。後の香峯子夫人である。

昭和27年5月3日、第二代会長戸田先生が見守るなか、二人は結婚式を挙げた。新郎24歳、新婦20歳であった。
「この日は、ちょうど一年前、戸田先生が会長に就任された意義ある日であった」(『私の履歴書』)

戸田先生は、香峯子夫人に妻の心構えとして、「家計簿をつけること」「どんなに不愉快なことがあろうと、朝晩、夫を笑顔で送り迎えすること」の2点をアドバイス。「私は二人をどこまでも守っていきます」と、慈愛に満ちたはなむけの言葉を述べた。

結婚後、恩師の言葉通りに、こまめに家計簿を記し、いつも笑顔で夫を送り出し、笑顔で迎えた香峯子夫人。

池田先生は、夫人への感謝の言葉を問われ、語った。
「妻に感謝状をあげるとしたら、『微笑み賞』でしょうか」

池田家の子育て

画像:池田先生が海外から子息に送った手紙
池田先生が海外から子息に送った手紙
池田大作先生は多忙ななかにあっても、三人の子息と過ごす時間の少なさを補う工夫をしながら、香峯子夫人と共に子育てに取り組んだ。

たとえ帰宅が深夜になっても、子どもたちの様子を、毎日必ず夫人から聞いた。出張先からは、三人の子どもたち一人ひとり別々に手紙を書いた。どこまでも、子どもを一人の人格として尊重したのだ。

常に心がけたのは「子どもとの約束は守る」ということ。急用で、どうしても約束が守れなくなるようなときは、夫人が子どもたちの気持ちをうまくフォローした。

「子育ての要諦は夫婦の巧みな連係プレーにあるといえよう」と、池田先生はつづっている。香峯子夫人と二人三脚で、多忙な中にも温かな家庭を築いた池田先生の、実感が込められた言葉である。

共に闘う同志

画像:池田大作先生夫妻
池田大作先生夫妻
昭和35年5月3日――。夫の第三代会長就任式で香峯子夫人は、ひとつの決意をした。「これは、主人の使命であり、主人でなければできない仕事なのだから、主人が精一杯、仕事ができるように、私は努力しよう」

池田大作先生の国内外への出張には、医師の強い要望を受け、夫人も同行するようになった。激務が続く夫の体調を見て、海外の宿泊先で米を炊き、粥などの食事をつくることもあった。

池田先生は語る。「妻は私にとって、人生の伴侶であり、ときには看護師であり、秘書であり、母のようでもあり、娘か妹でもあり、何より第一の戦友です」

要人・識者との会談など、池田先生の対外的な活動に同行する機会が増えると、夫人は“微笑みの外交官”として信頼を幾重にも重ねてきた。近年、その誠実な振る舞いを讃え、池田先生とともに夫人への顕彰が相次いでいる。

池田先生のたゆみなき行動——それは、同じ目的を目指し共に進む香峯子夫人と、家族の絆という確かな基盤に支えられているのだ。

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