文明間対話の軌跡


民間外交の始まり

画像:ベルリンの壁の視察
ベルリンの壁の視察
昭和36年(1961年)10月。池田大作先生(当時会長)はベルリンの壁の前に立っていた。その年の8月に突如現れたこの壁によって、東西をつなぐすべての道が封鎖され、人の往来ができなくなった。機関銃の弾痕が生々しい壁もあった。まさに東西分断の象徴だった。

「30年後には、このベルリンの壁は取りはらわれているだろう」
それは、単なる予測や願望ではなく、池田先生の誓いだった。

「戦おう。この壁をなくすために。平和のために。戦いとは触発だ。
人間性を呼び覚ます対話だ。そこに、わが生涯をかけよう」

欧州分断の象徴の前で、対話の道を歩むことを誓った池田先生の文明間対話のはじまりは、奇しくも「欧州統合の父」との語らいであった。現在のEU(欧州連合)の提唱者として知られるクーデンホーフ・カレルギー伯爵。昭和42年(1967年)に来日した際、池田先生との会見を希望した。創価学会との接触に反対する関係者もいたが、カレルギー氏は、そのような雑音に耳を貸さなかった。

両者の対談は、対談集『文明・西と東』に結実。この対話を皮切りに、文化・宗教の違いを超えた世界の知性との語らいが、縦横無尽に繰り広げられていくこととなる。

トインビー対談

画像:アーノルド・トインビー博士との対談
アーノルド・トインビー博士との対談
昭和44年(1969年)9月23日。世界的な歴史学者として知られていたアーノルド・J・トインビー博士から、池田大作先生(当時会長)に一通のエアメールが届いた。「人類の直面する基本的な問題について対談をしたい——」

昭和47年(1972年)から翌年にかけて、ロンドンのトインビー博士の自宅で行われた対談はのべ10日間、40時間に及んだ。

核問題、環境問題、人口爆発、世界宗教の役割——。現代社会の抱える諸問題から、地球文明の未来像にいたるまで、幅広いテーマを網羅した対話は、対談集『二十一世紀への対話』にまとめられた。同書はこれまでに、31言語に翻訳。出版から30年を経た今でも広く読まれており、この対談集を通じて池田先生を知る世界の識者も少なくない。

トインビー博士は、対談中、「あなたは私以上に、世界中から名誉博士号を受けることでしょう」と語った。事実、池田先生は、世界の大学から300を超える名誉学術称号を受章している。

対談の最後に博士は、自分の友人たちの名前を列記した紙を渡して、池田会長に言った。「あなたが、世界に対話の旋風を巻き起こしていくことを、私は、強く念願しています」

宗教間対話の挑戦

画像:戸田記念国際平和研究所の所長・<br>マジット・テヘラニアン博士と
戸田記念国際平和研究所の所長・
マジット・テヘラニアン博士と
昭和37年(1962年)1月、池田大作先生(当時会長)は、中近東を訪問した。イランのテヘランでのこと。同行の青年が、池田先生に尋ねた。

「イスラム教との対話は、難しいのではないか——」
池田会長は、答える。「同じ人間として、語り合えばいい」

同じ人間として——。全人類的な普遍の価値は、宗教の違いを超えて共有することができるとの思い。その根底には、「宗教のための人間ではなく、人間のための宗教でなければならない」という池田先生の信念がある。

その信念は、ユダヤの人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」、M・L・キング牧師の母校であるアメリカのモアハウス大学キング国際チャペルとの交流、世界的な法学者ナンダ博士との対談(『インドの精神—仏教とヒンズー教』)などに結実している。

後年、戸田記念国際平和研究所の所長に、イラン出身の平和学者テヘラニアン博士を迎えた。池田先生と博士の語らいの中で決まった研究所のモットーは、「地球市民のための文明間の対話」であった。

冷戦の終結へ

画像:来日したゴルバチョフ氏と再会
来日したゴルバチョフ氏と再会
「今日は大統領と“ケンカ”をしに来ました!“火花を散らしながら”何でも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために」

「池田会長の活動は、よく存じ上げておりますが、こんなに“情熱的”な方だとは知りませんでした。私も率直な対話が好きです」

平成2年(1990年)7月27日、池田大作先生はゴルバチョフ・ソ連大統領(当時)と会見。当時、“ペレストロイカ(改革)の旗手”として、その一挙手一投足が世界中の耳目を集めていたゴルバチョフ氏は、この会談の席で翌年春の訪日を明言。当時の日本のメディアは、トップニュースとして報じた。

その後、大統領の座を去ったゴルバチョフ氏だが、池田先生と氏の友情は変わらず、語らいは幾度にもわたった。

平成8年(1996年)には対談集『二十世紀の精神の教訓』を上梓。同書の中でゴルバチョフ氏は、池田先生にこう語りかける。「あなたはご自身の平和旅によって、鉄のカーテンのもとでも、平和や対話や民間外交が可能であることを証明しました」

東西冷戦終結の立役者のひとりが、冷戦下での池田先生の地道な対話の足跡に、深く共感した真情を吐露した言葉であった。

世界に広がる対話

画像:南アフリカの詩人・ムチャーリ氏と。人権闘争をリードする言葉の力をめぐり語らいがはずんだ
南アフリカの詩人・ムチャーリ氏と。人権闘争をリードする言葉の力をめぐり語らいがはずんだ
池田大作先生の対話の広がりは、いまや世界の全域に及んでいる。

ヨーロッパやアメリカ、アジアはもとより、中南米やアフリカ諸国、中央アジアの国々にも、池田先生は対話の足跡を留めている。

これまでに池田先生は、世界中の各界を代表する識者との対話を続けてきた。そして80点を数える対談集が上梓され、各国語に翻訳されている。その止むことのない積み重ねこそが、池田先生の対話への確たる意志の証左といえよう。

池田先生がベルリンの壁の前で、対話の道を歩むことを誓ってから28年後の平成元年(1989年)、壁は崩れ去った。

池田先生は言う。
「一人ひとりに、平和の種、幸福の種、信頼の種、人間らしい人間の種を植えていくことです。それが21世紀の運動だと思うんです。もう、道遠くてもそれしかない」(1999年のインタビュー)

深い決心とたゆまぬ行動が、大きな道を開く。池田先生の半世紀に及ぶ対話の軌跡は、そのことを雄弁に物語ってやまない。
画像:世界交友録01
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