ユーディー・
メニューイン氏


「池田会長との出会いを待ちこがれていました。
今日という日の喜びは、ひとしおです」

「池田会長との出会いを待ちこがれていました。 今日という日の喜びは、ひとしおです」
画像:少年時代のメニューイン氏
少年時代のメニューイン氏

20世紀最高峰のバイオリニスト

20世紀最高峰のバイオリニストと称されるメニューイン氏。1924年、8歳でプロデビューし、18歳の時には、72都市で110回のコンサートを行った。10代にして、その世界的名声は不動となる。

氏が11歳の時、その妙技に心打たれた物理学者アルベルト・アインシュタインは、感動のあまり舞台に駆け寄り、メニューイン少年を抱き締めて、こう語ったという。

「きょう、君は証明してくれた。天上に神が存在することを」と——。
画像:バイオリンを手にするメニューイン氏
バイオリンを手にするメニューイン氏

音楽は“励ましの言葉”

第二次大戦後、メニューイン氏は高齢者や生活に困窮する人々のために慈善演奏活動を展開。また、音楽祭の開催や「ユーディー・メニューイン・スクール」の設立など、後進の育成にも従事した。

氏は、1951年に初来日。公演では、戦争で荒廃していた聴衆の心に、勇気と希望をおくった。文芸評論家の小林秀雄氏は、その感動をこう記している。「私はふるえたり涙が出たりした」「あゝ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」(1951年9月19日付朝日新聞)

メニューイン氏は綴った。「音楽はどんなにたいへんな時代でも、なんとか私たちを力づけようと、繰り返し繰り返し励ましの言葉をかけてくれる。深い根底から発した音楽であればなおさらである」(別宮貞徳監訳『人間と音楽』日本放送出版協会刊)
画像:会見の席上(1992年4月5日、東京)
会見の席上(1992年4月5日、東京)

文化を庶民の手に

1992年4月、メニューイン氏と池田大作先生は会見。「出会いを待ちこがれていました。今日という日の喜びは、ひとしおです」。開口一番、氏は満面の笑みで池田先生に語りかけた。

メニューイン氏は、芸術と大衆、芸術と日常の一体化を志向していた。「昼間、町を掃除する人々が、夜には四重奏を演奏する。それが私たちの目指す世界です」——と。

池田先生もまた「庶民が“下駄履き”で行ける音楽会をつくりたい」と願い、民主音楽協会を創立していた。

「音楽には『競争』や『争い』がない。芸術家と聴衆を一体にします」と述べるメニューイン氏に、「仏法は人間と人間を結び、『分断』と『対立』から『調和』と『統合』を志向します」と語る池田先生。「音楽」と「仏法」——深く「人間」を尊敬する信念が共鳴した。
画像:ユーディー・メニューイン

ユーディー・メニューイン(1916年~1999年)

バイオリニスト 指揮者

アメリカ・ニューヨーク生まれ。バイオリニストとして8歳でプロデビューし、18歳の時には、72都市で110回のコンサートを行った。1958年、イギリスにメニューイン室内管弦楽団を結成。62年には、イギリスに「ユーディー・メニューイン・スクール」を、77年には、スイスに「国際メニューイン音楽アカデミー」を設立。音楽の普及と後進の育成のほか、人権・平和運動にも尽力した。

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