周恩来氏


「よくいらっしゃいました。池田先生とは、
どうしてもお会いしたいと思っておりました」

「よくいらっしゃいました。池田先生とは、
どうしてもお会いしたいと思っておりました」
画像:約30分にわたって行われた会見。翌6日付「人民日報」には“池田会長夫妻と、親密で友好的な話し合い”と 写真入りで報道された(1974年12月5日、北京)
約30分にわたって行われた会見。翌6日付「人民日報」には“池田会長夫妻と、親密で友好的な話し合い”と 写真入りで報道された(1974年12月5日、北京)

闘病中の身を押して

「50年前、桜の咲く頃に私は日本を発ちました」——19歳で留学した日本の思い出を、周恩来総理は懐かしそうに振り返った。

「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と語る池田大作先生に周総理は言った。「願望はありますが、無理でしょう」——周総理は癌におかされ、闘病中の身であったのだ。

1974年12月5日の夜。総理からの会見の要望は、2度目の訪中で北京に滞在していた池田先生に、突然伝えられた。総理の病状を心配した池田先生は、会見を固辞。しかし、総理の「強い希望」であるとの説得に促され、会見場となった入院先の三〇五病院に向かった。総理は玄関で立って待っていた。

「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」
画像:会見の前の記念撮影。この後、総理の体調を気遣い、池田先生と香峯子夫人だけが、会見の部屋に入った(1974年12月5日、北京)
会見の前の記念撮影。この後、総理の体調を
気遣い、池田先生と香峯子夫人だけが、
会見の部屋に入った
(1974年12月5日、北京)

託された「日中友好の未来」

1960年代初めから、「創価学会は、民衆のなかから立ち上がった団体である」ということに着目していた周総理。

1968年に池田先生が発表した「日中国交正常化提言」も高く評価していた。

「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」——周総理は、日中の友好、アジアの平和、さらには世界の平和と安定について、万感を込めて語る。

「中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であることを何度も提唱されている。そのことが私にはとてもうれしいのです」「あなたが若いからこそ大事につきあいたいのです」この時、周総理76歳、池田先生は46歳だった。

池田先生に日中の未来を託したい——病状を心配する側近の制止のメモを振り切って、切々と総理は語り続けた。医師団から「会見すれば、命の保証はできません」と、反対されても「池田会長とは、どんなことがあっても会わねばならない」と譲らず、実現させた会見だった。
画像:年ごとに花咲く創価大学の「周桜」。碑は、会見が行われた北京の方角に向かって建てられている(東京)
年ごとに花咲く創価大学の「周桜」。碑は、会見が行われた北京の方角に向かって建てられている(東京)

友好の心を次代へ

会見の翌春、新中国からの初の国費留学生6人を日本で唯一受け入れたのは、池田大作先生が創立した創価大学であった。

周総理が日本に留学した時、大学で学ぶ機会を得られず、苦労したことに報いたいとの池田先生の真情だった。留学生の身元の保証から日常生活にいたるまで、池田先生はこまやかに心を砕いた。

そして同大学構内に、桜の木の植樹を提案。日中友好と平和への願いが込められた桜は「周桜」と命名され、今も青年の成長を見守っている。
画像:周恩来

周恩来(1898年~1976年)

中華人民共和国元国務院総理

中国・江蘇省生まれ。1917年、日本留学。帰国後、五・四運動のリーダーとして活躍。長征を経て、1949年の中華人民共和国成立とともに政務院(後の国務院)総理兼外相に就任し、内政・外交を担当した。インドのネルー首相との平和5原則、バンドン会議など平和外交を推進。72年の日中国交正常化に尽力した。

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