初代会長・牧口常三郎先生

《略歴》国家権力と対決した創価の厳父

初代会長・牧口常三郎先生

1871年(明治4年)6月6日(旧暦)、新潟生まれ。北海道尋常師範学校卒。同校の教諭兼舎監を経て、約20年間、東京・白金尋常小学校など6校の校長を歴任。「子どもの幸福」を目的とする慈愛の教育に徹しました。

1928年(昭和3年)、日蓮大聖人の仏法を知り、1930年(昭和5年)11月18日に「創価教育学会」(創価学会の前身)を創立。教育改革、仏法に基づく生活革新運動へと展開しました。

戦時下、宗教・思想の統制を図る軍部権力の手で1943年(昭和18年)に治安維持法違反ならびに不敬罪の容疑で検挙・投獄され、1944年(昭和19年)11月18日、獄中で逝去しました。主著に『人生地理学』『創価教育学体系』などがあります。

苦学の青春——教育者への道程

明治26年、小学校の訓導に(2列目の右から3人目)

牧口常三郎先生は1871年(明治4年)6月6日(旧暦)、現在の新潟県柏崎市荒浜に、父・渡辺長松と母・イネの長男として生まれます。父・長松の消息が途絶えたため、6歳で叔母の嫁ぎ先であった牧口善太夫の養子となりました。

13歳のころ、荒浜と交流の深かった北海道に渡ります。小樽警察署の給仕として働きながら時間さえあれば読書・勉強する姿に、署員たちは「勉強給仕」と呼び親しんだとも伝えられます。18歳で北海道尋常師範学校に入学するまでの苦学の体験は、教育の機会に恵まれない子どもや女性への目を向けさせ、その後の女性向けの通信教育(大日本高等女学会)や半日学校制度の提唱へと昇華されます。

師範学校の卒業後は、同校付属小学校の訓導をへて、28歳の若さで同師範学校教諭兼舎監に就任。多数の教育論文を執筆し、若くして北海道教育会の評議員に選出、同会幹事になるなど北海道の教育界において将来を嘱望される存在となっていきました。

『人生地理学』を発刊——人道的競争を主張

大正8年、郷土会の人々と。牧口先生は前列左端。

「教育」とともに牧口先生の心をとらえていたのが、「地理」の研究です。牧口先生は北海道では初めて文部省検定試験の地理科に合格していました。

30歳の春、牧口先生は意を決して教職を辞し、日頃書き溜めていた原稿を携えて上京。地理学者・志賀重昂のアドバイスを受け、1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。

同書で牧口先生は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「十五億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。

近年の研究で『人生地理学』は、発刊の3年後には中国人留学生の手によって中国語に翻訳され、中国で教科書としても使われていたことが明らかになっています。

牧口先生は地理研究者として、新渡戸稲造の「郷土会」にも参加、柳田国男らとも親交を深めました。

子どもの幸福こそ——初等教育の現場で

大正11年、白金尋常小学校の児童らと記念撮影

牧口先生は1913年(大正2年)、東京の東盛尋常小学校の校長に就任して初等教育の現場に戻りました。以後約20年間、6校の校長を歴任。上意下達、知識の詰め込み型の教育の風潮に抗して、「子どもの幸福」を目的とする教育理論を唱え、自ら実践しました。

不正や権力の横暴に対して断固とした態度をとった牧口先生。大正尋常小学校時代のこと、地元の有力者が訪ねてきて「自分の子どもを特別扱いしてほしい」と。牧口先生が拒否すると、それを恨みに思い、牧口先生を転任させた事件もありました。転任先の西町尋常小学校にもいやがらせは及びます。ここでは牧口先生の転任を惜しみ、教師たちは辞表を書き、父母は子どもを同盟休校させたほどでした。実直・公平な牧口先生の人柄は児童・父母、教師から慕われていたのです。

北海道時代、冬の日は湯をたくさん沸かし、あかぎれになった子どもたちの手を洗ってあげたり、雪道では手を引いたり背負って、児童の登下校を助けてあげたりした牧口先生。東京・三笠尋常小学校時代にも、弁当を持参できない貧しい児童のために、パンやみそ汁を用意しました。

約10年間校長を務めた白金尋常小学校時代、関東大震災が起こると(1923年=大正12年)、牧口先生は被災者救援のボランティアを組織し、呼びかけに集まった250人の子どもたちと活動しています。

創価教育学会の創立
——『創価教育学体系』の発刊

『創価教育学体系』。発行・印刷の責任者は戸田先生

「先生、私をぜひ採用してください。私は、どんな劣等生でも、かならず優等生にしてみせます!」——北海道から牧口校長を訪ねて来て、こう語った二十歳の青年がいました。後に創価学会の第2代会長となる戸田城聖先生です。牧口先生は戸田先生の熱意に打たれ、臨時代用教員として採用しました。

1928年(昭和3年)、牧口先生は日蓮大聖人の仏法に出あいます。それまで、自身の科学観、哲学観に照らして、信ずるに足る宗教を見いだせなかった牧口先生。「日常生活の基礎をなす科学、哲学の原理にして何等の矛盾がない」日蓮仏法との出あいは、「六十年の生活法を一新する」ものとなりました。愛弟子の戸田先生も、牧口先生のあとに続きます。

1930年11月18日、牧口先生は書きためてきた自身の教育理論を戸田先生の協力を得てまとめ、『創価教育学体系』として発刊しました。創価教育学とは「人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する方法の知識体系」を意味しました。同書は発刊されるや教育界はじめ各界に波紋を呼び、新渡戸稲造は「日本人が生んだ、日本人の教育学説であり、しかも現代人がその誕生を久しく待望せし名著である」と述べています。

「創価教育学会」の創立は、この『創価教育学体系』発刊の日を淵源としています。

宗教改革と国家権力の弾圧

昭和17年冬、自宅にて

日蓮仏法の探求を深めるにともなって、牧口先生は社会・生活の全般を改革する必要性を感じ、教育法の改革は、その一部であると考えるようになりました。創価教育学会は教育者以外の賛同者も増え、日蓮仏法の実践を主軸とする、宗教改革の団体となっていきます。

牧口先生は高齢にもかかわらず、自ら活動の先頭に立ち、北は北海道から、南は鹿児島まで足を運んで、一対一の対話を実践。会員は全国に4000人を数えるまでになりました。
しかし、第2次世界大戦への坂を転げ落ちる日本は、国家神道によって宗教・思想の統制を図ろうとします。創価教育学会の座談会なども、思想犯の摘発に当たった特高(特別高等警察)の刑事が厳しく監視するようになりました。

弾圧を恐れて国家神道を受け入れた日蓮正宗宗門を牧口先生は厳しく諌め、軍部権力と敢然と対峙していきます。1943年(昭和18年)7月6日朝、牧口先生は訪問先の伊豆で、治安維持法違反・不敬罪の容疑で検挙されました。同日朝、理事長だった戸田先生も東京で検挙。ともに逮捕・投獄され、会は壊滅状態となりました。牧口先生、戸田先生は、厳しい尋問にも屈せず、信念を貫く獄中闘争を続け、牧口先生は1944年11月18日、創価教育学会創立から14年後のその日、老衰と極度の栄養失調のため、拘置所内の病監で逝去しました。満73歳でした。

牧口先生の思想は、1945年に出獄した戸田先生によって受け継がれていきます。

世界に広がる牧口先生の思想

掲げられた「創価大学」の文字は牧口先生の筆によるもの

「小学校から大学まで、私の研究している創価教育学の学校ができるのだ」という牧口先生の構想は、弟子の戸田先生(創価学会第2代会長)をへて、第3代会長の池田大作先生の手によって、創価学園はじめ創価大学、アメリカ創価大学等という形で具現化されました。

牧口先生、戸田先生が手がけた通信教育も、日本一の在籍者(2万人超)を持ち、3600名を超える教員試験合格者を出している創価大学の通信教育部に受け継がれています。

牧口先生の『創価教育学体系』は今日、世界の人々から注目されるようになりました。既に英語、ポルトガル語、ベトナム語、フランス語、スペイン語、ヒンディー語など各国語版が出されています。なかでもブラジルでは全土200校以上で、のべ100万人の子どもが創価教育学に基づくプロジェクトで学んでいます。

また、イタリアやブラジルでは、牧口先生を「人間教育の偉人」として顕彰し、「牧口常三郎」の名前を冠した公園や通り、庭園も誕生しています。

万人が価値を創造し、幸福の人生を享受することを願った牧口先生の思想が、時代や国境を超えて評価されているのです。
創価学会とは