2024.10.04
信心即生活
日蓮大聖人の仏法は、現実の人生の中で「崩れざる幸福境涯」を築いていくための信仰です。そのためには日々の生活の中で信心の実践を積み重ねていくことが重要な意味をもってきます。信心は自らの生命の鍛錬にほかならないからです。
また、大聖人の仏法は「人間としての勝利」を教えた宗教です。そのために、仏法で開いた智慧と生命力で人々の信頼を勝ちとっていく振る舞いが重要になってきます。
ここでは、日蓮大聖人の仏法の実践において大切な柱となる「功徳と罰」「諸天善神」「異体同心」「信心即生活」「人の振る舞い」について学びます。
また、大聖人の仏法は「人間としての勝利」を教えた宗教です。そのために、仏法で開いた智慧と生命力で人々の信頼を勝ちとっていく振る舞いが重要になってきます。
ここでは、日蓮大聖人の仏法の実践において大切な柱となる「功徳と罰」「諸天善神」「異体同心」「信心即生活」「人の振る舞い」について学びます。
功徳と罰
私たちは、南無妙法蓮華経という最高の法を正しく信じ持てば、妙法にそなわる限りない功徳を受け切っていくことができます。
妙法の根本であり究極の功徳は、成仏、すなわち、揺るぎない幸福境涯を確立することです。
妙法を信じて実践を始めることは、成仏という絶対的な幸福境涯への軌道に入るということです。妙法を根本に生きることで、おのずと正しい生き方となり、幸福を築いていけます。
御書には、「悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり」(御書新版1062㌻・御書全集762㌻)とあります。信心の実践に励み、私たちの生命を覆う煩悩や苦悩などの悪を消滅させ、智慧や安楽などの善を生み出すことが功徳です。
また、「『功徳』とは、即身成仏なり。また『六根清浄』なり。法華経の説文のごとく修行するを、『六根清浄』と意得べきなり」(同)とあります。
六根清浄とは、私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意。六つの知覚器官)、すなわち生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮することです。これによって、私たちは、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い仏界の大境涯をわが身に開き顕していくことができます。
このように、私たちが自身の仏性を顕現する実践によって、現実の人生と生活のうえに厳然たる功徳の実証が現れ、必ず福徳に満ちた生活を送れるようになります。大聖人は、次のように仰せです。
「この曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいわいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし。いかなる処にて遊びたわぶるとも、つつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし」(御書新版1633㌻・御書全集1124㌻)
すなわち、私たちは題目の力によって、諸天善神のはたらきにも守られ、人生のさまざまな困難を乗り越えて、福徳に包まれ、どのような場所にあっても師子王のような恐れを知らない境涯でいられるのです。
また「法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし」(御書新版2037㌻・御書全集1492㌻)と仰せのように、妙法を受持する人は、幸福をあらゆるところから招きよせるのです。
さらに、「さいわいは心よりいでて我をかざる」「せんだんにこうばしさのそなえたるがごとし」(同)と教えられています。
栴檀という香木に芳香がそなわっているように、妙法を受持する人は、福徳が内から薫り出て、人々から愛され信頼され、生活も人生も守られていくのです。
反対に、仏法を誹謗し、因果の理法に反すれば、生命に悪因を刻むとともに、生活のうえに罰の現証があらわれます。
罰の現証は、不幸の道へと陥ることを知らせる兆しであり、警鐘ともいえます。自身の誤りに気付き、信仰の姿勢や生き方を見つめ直すことで、あらためて妙法を深く実践する決意が生まれるのです。
見方を変えれば、罰もまた、人々を正しく導く妙法のすぐれた性質の一つなのであって、功徳と捉え返すことができるのです。
このように、妙法を信受する功徳と、妙法を誹謗する罰が厳然とあると説くのが日蓮大聖人の仏法です。
妙法の根本であり究極の功徳は、成仏、すなわち、揺るぎない幸福境涯を確立することです。
妙法を信じて実践を始めることは、成仏という絶対的な幸福境涯への軌道に入るということです。妙法を根本に生きることで、おのずと正しい生き方となり、幸福を築いていけます。
御書には、「悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり」(御書新版1062㌻・御書全集762㌻)とあります。信心の実践に励み、私たちの生命を覆う煩悩や苦悩などの悪を消滅させ、智慧や安楽などの善を生み出すことが功徳です。
また、「『功徳』とは、即身成仏なり。また『六根清浄』なり。法華経の説文のごとく修行するを、『六根清浄』と意得べきなり」(同)とあります。
六根清浄とは、私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意。六つの知覚器官)、すなわち生命の全体が浄化され、本来もっているはたらきを十分に発揮することです。これによって、私たちは、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い仏界の大境涯をわが身に開き顕していくことができます。
このように、私たちが自身の仏性を顕現する実践によって、現実の人生と生活のうえに厳然たる功徳の実証が現れ、必ず福徳に満ちた生活を送れるようになります。大聖人は、次のように仰せです。
「この曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいわいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし。いかなる処にて遊びたわぶるとも、つつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし」(御書新版1633㌻・御書全集1124㌻)
すなわち、私たちは題目の力によって、諸天善神のはたらきにも守られ、人生のさまざまな困難を乗り越えて、福徳に包まれ、どのような場所にあっても師子王のような恐れを知らない境涯でいられるのです。
また「法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし」(御書新版2037㌻・御書全集1492㌻)と仰せのように、妙法を受持する人は、幸福をあらゆるところから招きよせるのです。
さらに、「さいわいは心よりいでて我をかざる」「せんだんにこうばしさのそなえたるがごとし」(同)と教えられています。
栴檀という香木に芳香がそなわっているように、妙法を受持する人は、福徳が内から薫り出て、人々から愛され信頼され、生活も人生も守られていくのです。
反対に、仏法を誹謗し、因果の理法に反すれば、生命に悪因を刻むとともに、生活のうえに罰の現証があらわれます。
罰の現証は、不幸の道へと陥ることを知らせる兆しであり、警鐘ともいえます。自身の誤りに気付き、信仰の姿勢や生き方を見つめ直すことで、あらためて妙法を深く実践する決意が生まれるのです。
見方を変えれば、罰もまた、人々を正しく導く妙法のすぐれた性質の一つなのであって、功徳と捉え返すことができるのです。
このように、妙法を信受する功徳と、妙法を誹謗する罰が厳然とあると説くのが日蓮大聖人の仏法です。
諸天善神(しょてんぜんじん)
「諸天善神」とは、正法を受持する人とその国土を守護する一切の神々をいいます。
「諸天」とは天界の衆生をいい、「善神」は人々を支え守るものをいいます。
諸天善神は、一定の実体を持つ存在ではなく、正法を実践する人を守護する種々のはたらきをいいます。
「諸天」とは天界の衆生をいい、「善神」は人々を支え守るものをいいます。
諸天善神は、一定の実体を持つ存在ではなく、正法を実践する人を守護する種々のはたらきをいいます。
強き信心の人を諸天が守る
私たちが正法を実践して、善の生き方をしていけば、それに応じて、周囲の人々や環境にそなわる善のはたらきが呼び起こされ、諸天善神として、私たちを支え守ります。
正法が、諸天善神の力を増す源泉です。正法は、諸天善神のいわば栄養とみなされ、法味と呼ばれます。
「神の護ると申すも、人の心つよきによるとみえて候」(御書新版1608㌻・御書全集1186㌻)と仰せのように、私たちの正法を護り持つ信心の強弱によって、諸天の守護が、強くも弱くもなるのです。
正法が、諸天善神の力を増す源泉です。正法は、諸天善神のいわば栄養とみなされ、法味と呼ばれます。
「神の護ると申すも、人の心つよきによるとみえて候」(御書新版1608㌻・御書全集1186㌻)と仰せのように、私たちの正法を護り持つ信心の強弱によって、諸天の守護が、強くも弱くもなるのです。
異体同心(いたいどうしん)
「異体同心」とは、広宣流布を進めるにあたって、私たちが信心で団結をしていく時に、最重要とすべき指針です。
「異体」とは、それぞれの見かけ、個性、特質、立場などが異なることです。「同心」とは、志、目的を同じくすることです。各人が同じ心に立って、力を合わせていくことをいいます。
仏法の実践においては、万人成仏を実現するために妙法を説き広めていく「広宣流布」こそが、仏の大願であり、根本の目的です。「同心」の「心」とは、「信心」のことであり、「広宣流布」という大願に心を合わせていくことです。
すなわち、各人の個性や特質を生かし、一人ひとりの可能性を最大限に発揮しながら、広宣流布を目指していくことが、異体同心です。
これに対して、見かけは同じような姿であっても、それぞれの志や目的が違い、ばらばらになっている状態を「同体異心」といいます。
大聖人は、こう仰せです。
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなし」「日蓮が一類は、異体同心なれば、人々すくなく候えども、大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚え候」(御書新版2054㌻・御書全集1463㌻)
信心の団結によって、さまざまな難を乗り越えながら前進すれば、仏法が必ず広まっていくことは間違いないと、大聖人は教えられています。
池田大作先生は、次のように指導しています。
「異体同心というのは、現代で言えば『組織』ということです。『異体』というのは、人それぞれ、姿も立場も、状況も使命も違う。しかし『心』は──信心は『同心』でいきなさいというのです。
『異体異心』では、バラバラです。『同体同心』というのは無理やり、形も姿も心まで統一しようというのです。ファシズムであり、自由はない。だれもついてこられず、格好だけ合わせている。結局、『同体異心』になってしまう」
「『異体』とは個性を生かすということです。『同心』とは、信心を根本に、心を一つにしていくことです。本当の団結です」
私たちは、この異体同心の指針のままに、一人ひとりが存分に力を発揮しながら、大聖人の御遺命である広宣流布の実現に向かって前進していきましょう。
「異体」とは、それぞれの見かけ、個性、特質、立場などが異なることです。「同心」とは、志、目的を同じくすることです。各人が同じ心に立って、力を合わせていくことをいいます。
仏法の実践においては、万人成仏を実現するために妙法を説き広めていく「広宣流布」こそが、仏の大願であり、根本の目的です。「同心」の「心」とは、「信心」のことであり、「広宣流布」という大願に心を合わせていくことです。
すなわち、各人の個性や特質を生かし、一人ひとりの可能性を最大限に発揮しながら、広宣流布を目指していくことが、異体同心です。
これに対して、見かけは同じような姿であっても、それぞれの志や目的が違い、ばらばらになっている状態を「同体異心」といいます。
大聖人は、こう仰せです。
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなし」「日蓮が一類は、異体同心なれば、人々すくなく候えども、大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚え候」(御書新版2054㌻・御書全集1463㌻)
信心の団結によって、さまざまな難を乗り越えながら前進すれば、仏法が必ず広まっていくことは間違いないと、大聖人は教えられています。
池田大作先生は、次のように指導しています。
「異体同心というのは、現代で言えば『組織』ということです。『異体』というのは、人それぞれ、姿も立場も、状況も使命も違う。しかし『心』は──信心は『同心』でいきなさいというのです。
『異体異心』では、バラバラです。『同体同心』というのは無理やり、形も姿も心まで統一しようというのです。ファシズムであり、自由はない。だれもついてこられず、格好だけ合わせている。結局、『同体異心』になってしまう」
「『異体』とは個性を生かすということです。『同心』とは、信心を根本に、心を一つにしていくことです。本当の団結です」
私たちは、この異体同心の指針のままに、一人ひとりが存分に力を発揮しながら、大聖人の御遺命である広宣流布の実現に向かって前進していきましょう。
信心即生活
一般に、信仰とは日常の生活から離れた特別な世界の事柄であると考えたり、日常生活の中でも信仰の時間と生活の時間とは別なものであるとする見方があります。
しかし、日蓮大聖人の仏法においては、信仰と生活とは、そのように切り離して捉えるものではありません。
御書には、「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(御書新版1719㌻・御書全集1295㌻)とあります。この「御みやづかい」とは、主君などに仕えることですが、今日の私たちの立場にあてはめれば、なすべきこと、果たすべき役割であり、職業・仕事・生活にあたります。
したがって、この御文は、日々の生活が、そのまま仏道修行の場であり、信心を根本とした自身の生き方を示す場であることを教えられているのです。
生活は、私たちの生命活動そのものにほかなりません。そして、信心は、私たちの生命を変革し、充実させていく力となります。
生活の場で直面するさまざまな課題に対して、御本尊への唱題を根本に真剣な努力を重ねていった時に、その現実との戦いそのものが、私たちの仏界の生命を涌現させる機縁となり、自身の生命変革の舞台ともなるのです。
また、信心で開拓した生命力、豊かな境涯を土台にして、生活の場に勇んで出ていった時、生活そのものも、おのずから変革されていくのです。
信心を草木の根に譬えれば、生活は、豊かな果実を実らせる幹や枝に譬えることができます。信心を根本に置かない生活は、環境に流されてしまう根無し草になりがちです。信心の根が深ければ深いほど、盤石な生活を築いていけると説くのが日蓮大聖人の仏法です。
以上のように、大聖人の仏法においては、信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会の指導には、「信心即生活」といって、生活はその人の信心の表れであるととらえて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきことを教えています。
しかし、日蓮大聖人の仏法においては、信仰と生活とは、そのように切り離して捉えるものではありません。
御書には、「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(御書新版1719㌻・御書全集1295㌻)とあります。この「御みやづかい」とは、主君などに仕えることですが、今日の私たちの立場にあてはめれば、なすべきこと、果たすべき役割であり、職業・仕事・生活にあたります。
したがって、この御文は、日々の生活が、そのまま仏道修行の場であり、信心を根本とした自身の生き方を示す場であることを教えられているのです。
生活は、私たちの生命活動そのものにほかなりません。そして、信心は、私たちの生命を変革し、充実させていく力となります。
生活の場で直面するさまざまな課題に対して、御本尊への唱題を根本に真剣な努力を重ねていった時に、その現実との戦いそのものが、私たちの仏界の生命を涌現させる機縁となり、自身の生命変革の舞台ともなるのです。
また、信心で開拓した生命力、豊かな境涯を土台にして、生活の場に勇んで出ていった時、生活そのものも、おのずから変革されていくのです。
信心を草木の根に譬えれば、生活は、豊かな果実を実らせる幹や枝に譬えることができます。信心を根本に置かない生活は、環境に流されてしまう根無し草になりがちです。信心の根が深ければ深いほど、盤石な生活を築いていけると説くのが日蓮大聖人の仏法です。
以上のように、大聖人の仏法においては、信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会の指導には、「信心即生活」といって、生活はその人の信心の表れであるととらえて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきことを教えています。
人の振る舞い
仏法は、「人間としての勝利」を教えた宗教です。
日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(御書新版1597㌻・御書全集1174㌻)と仰せです。
釈尊がこの世に生まれて仏法を説いた、その根本の目的(出世の本懐)は、特別なことではなく、人間として、どう生きるべきかを示すことにあったとの仰せです。
すなわち、人間社会にあって良識ある振る舞いを貫き、人格の輝きをもって、職場・地域などの身近な人々から信頼され、尊敬される存在となっていくことが、信心の証です。
最高の「人の振る舞い」とは、「人を敬う」行動です。
すなわち、万人の生命の中に仏の生命があると捉えて、その仏の生命を尊重し、万人を敬っていく行動です。根本は、万人を仏にしていこうとする誓願の生き方です。具体的には、目の前の「一人」を大切にしていく実践となって表れます。
法華経では、万人の中に秘められている仏の生命を敬い、あらゆる人を礼拝していく不軽菩薩の実践が説かれます。
自分の仏界をまだ自覚していない人でも仏の生命を具えており、これを開きあらわす可能性をもっています。したがって、万人を「仏子(仏の子)」として尊重していく生命尊厳、万人平等こそが、仏法の精神です。この精神があれば、他人を踏みにじる一切の暴力は生まれないでしょう。このように、万人尊重の原理から、対話をもって社会の変革を実現していこうとするのが日蓮大聖人の仏法です。
悪世末法は、人々の迷いの生命が強くなり、他者を踏みにじり、人間を差別し、道具化する思想が充満する時代です。そうした濁った社会の風潮を変え、人間自身の境涯を高めていくには、生命尊厳、人間尊敬の「人の振る舞い」の実践を広げていくしかありません。
また、社会を変革するためには、人々の迷いを助長し、人間を蔑視する思想と強く戦っていかなければなりません。したがって、善を広げ、悪を責める振る舞いこそが、仏法において求められる肝要の実践であり、仏法者、そして人間としての勝利の人生の証となっていくのです。
日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(御書新版1597㌻・御書全集1174㌻)と仰せです。
釈尊がこの世に生まれて仏法を説いた、その根本の目的(出世の本懐)は、特別なことではなく、人間として、どう生きるべきかを示すことにあったとの仰せです。
すなわち、人間社会にあって良識ある振る舞いを貫き、人格の輝きをもって、職場・地域などの身近な人々から信頼され、尊敬される存在となっていくことが、信心の証です。
最高の「人の振る舞い」とは、「人を敬う」行動です。
すなわち、万人の生命の中に仏の生命があると捉えて、その仏の生命を尊重し、万人を敬っていく行動です。根本は、万人を仏にしていこうとする誓願の生き方です。具体的には、目の前の「一人」を大切にしていく実践となって表れます。
法華経では、万人の中に秘められている仏の生命を敬い、あらゆる人を礼拝していく不軽菩薩の実践が説かれます。
自分の仏界をまだ自覚していない人でも仏の生命を具えており、これを開きあらわす可能性をもっています。したがって、万人を「仏子(仏の子)」として尊重していく生命尊厳、万人平等こそが、仏法の精神です。この精神があれば、他人を踏みにじる一切の暴力は生まれないでしょう。このように、万人尊重の原理から、対話をもって社会の変革を実現していこうとするのが日蓮大聖人の仏法です。
悪世末法は、人々の迷いの生命が強くなり、他者を踏みにじり、人間を差別し、道具化する思想が充満する時代です。そうした濁った社会の風潮を変え、人間自身の境涯を高めていくには、生命尊厳、人間尊敬の「人の振る舞い」の実践を広げていくしかありません。
また、社会を変革するためには、人々の迷いを助長し、人間を蔑視する思想と強く戦っていかなければなりません。したがって、善を広げ、悪を責める振る舞いこそが、仏法において求められる肝要の実践であり、仏法者、そして人間としての勝利の人生の証となっていくのです。