【戦争証言】私の沖縄戦「命どぅ宝」――摩文仁の丘の記憶

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沖縄戦による日米両軍と民間人らを合わせた死者は20万人以上。軍人や住民も関係ない激しい戦いに、県民の4人に1人が亡くなりました。
沖縄戦の終結から75年、沖縄最後の激戦地・糸満市摩文仁の絶望の淵を生き延びた仲程シゲさん(90歳)が当時の体験を語ってくれました。

※本記事は、2020年7月19日に開催された創価学会青年部主催の「オンライン証言を聞く会(沖縄)」の映像内容を記事にしたものです。

兵隊にとられたわが家

太平洋戦争末期。アメリカは日本の本土攻略の拠点として、沖縄の占領を計画。その対抗措置として、日本各地から沖縄へ兵を派遣しました。しかし、これは時間稼ぎのための「捨て石」作戦にすぎなかったのです。

日本の本土攻略計画

──昭和19年(1944年)当時、私は16歳(数え年)で、高等科1年でした。2学期から沖縄に兵隊さんが来て、学校は全部、兵舎に取られました。
学校の教室は、各集落の公民館やガジュマルの木の下で、青空教室で、みんな勉強しました。

私たちは高等1年、高等2年で交代で、高等1年が午前中勉強をしたら、私たちは午前中、兵隊さんの、この炊事の水ですね。学校の大きい井戸の水も、もうなくなって、隣の集落から水をくみに行きました。「水くみ班」という腕章着けて、2人で棒で担いで、働きました。

昭和20年(1945年)の3月頃から空襲がひどくなりましてね。わが家も3月1日に沖縄出身の新兵さんが家に入ってきまして、上座は兵隊さんが入って、那覇からも糸満からも編入して、20名ぐらいいましてね。朝、うちの母が芋とお汁出して、この兵隊さんたちは教育隊。
わが家の畑の丘に、球18804部隊の重砲大隊の大きな壕を作ったんですよ。この壕を作るまでは、爆弾は弾を木箱に入れて。私の屋敷は広かったから、もう周囲に勝手に置きましてね。弾か分かりませんよ、あの頃は。納屋も全部、壕に取られてしまった。

戦争は人間の心まで奪う

1945年3月23日、米・英の連合軍は、沖縄県周辺に対する本格空襲を開始。4月1日には沖縄本島へ上陸。50万人もの勢力で沖縄に押しかけ、激しい地上戦が繰り広げられました。

──わが家にいた兵隊さんたちは、「第一線突入!」突撃して、わが家を出て行ったんですよ。その前に2人から遺言を頼まれましてね。「シゲちゃん 僕らは軍人だから生きる望みもない。死ぬ以外ないから、じいちゃん、ばあちゃんいるから、もし、あんたが生きて元気なって、僕の消息を告げてくれ。」で、わが家を出て行きましてね。

一般住民はガマと呼ばれる洞窟に身を潜めて、息を凝らしながらじっと耐えていました。その間、空からの攻撃に加え、陸からは銃や大砲、火炎放射器で襲われ、海からは艦砲射撃で狙われました。

<壕に隠れていた女性と二人の子供を見つけた米兵(沖縄県公文書館所蔵)>
壕に隠れていた女性と二人の子供を見つけた米兵(沖縄県公文書館所蔵)

──あれから防空壕生活が始まりましてね。食べ物も壕に入れて、炊事は壕の入り口に、木の枝で囲いを作って中には釜戸を作りましてね。もう命がけで芋を掘って、野菜を取って、昼は飛行機が飛ぶから、炊くのをね、夜炊いたんですよ。あれからどんどん飛行機が来て、兵隊たちは、「5月27日は日本の海軍記念日だから勝つ」と言っているんですよ。もう敵は目の前、本当にもう嘘ばっかり言われましてね。

この沖縄戦のアメリカの弾が、何千万発と落ちて、みんな溜池みたいに、ここの白いのが溜池になりました。

<雨水が溜まった弾痕(沖縄県公文書館所蔵)>
雨水が溜まった弾痕(沖縄県公文書館所蔵)

あれから私たちは、自分の壕を出ることになりまして。
わが家は、私と母と弟2人と親戚の15歳と5歳の(姉妹)。15歳の子は小児麻痺で歩けないんですよ。この2人置いてね、自分たちは出ていったんですよ。
出て、毎日死ぬ恐怖だから、あの2人のことをね、まったく忘れましたよ。
戦争は人間の心まで奪われます。人間じゃなくなります。

今でもシゲさんは、この姉妹を残していったことを後悔しています。 その後、いっそう激しくなる戦火を、玉城(たまぐすく)、具志頭(ぐしちゃん)、糸満と転々と避難する生活を強いられました。

──親子、私と母と弟で、食べ物もないから、芋くずですね。芋のデンプンと黒砂糖と、雨が降るから、この傘の雨汁でね、溜めて。これが命の水でした。

親戚で集団自決寸前

──もうどうしようもないから、糸満の真栄里という所に行きましてね。そこはちょっと安心だったんですよ。馬小屋があって。馬はいないから、馬小屋におって、この比嘉さんという方と、防空壕を堀りましてね。そこに大人6名、子供5名で、この壕の土の上に6月19日までいたんですよ。

シゲさんのいた壕の近くで6月18日、米軍(バックナー)司令官が戦死。その反撃でいっそう激しい戦闘が行われました。外の様子を見にいったシゲさん。

──そうしたら目の前に戦車が来ましてね。親戚のおじさんが、自決用の手りゅう弾持ってるんですよ。このおじさんが、「敵軍にね、殺られるなら、自分で死んだ方がましだから、今打つよ!」と言って手りゅう弾をね、こうして持ったんですよ。

<シゲさんの証言をもとに描かれた絵>
シゲさんの証言をもとに描かれた絵

そうしたら、うちの母が、「いくら何でもね、このかわいい子どもたちをね、どうして殺せるのか」と諭した。このおじさんが手りゅう弾を置いて、今があるんですよ。

この壕を出て、夜中(逃げていると)おばさんは倒れて、どこをけがしたか分からないんですよ。「ウーンウーン」ってもう言いたくても言えない。
うちの母が、「義姉さん戦争だから憎みもしないで、恨みもしないで、休んでいってくださいね。戦争が終わったら迎えに来るからね」と言ったら息を引き取ったんですよ。

おじさんは脚のね、この筋肉をえぐり取られて、「僕は母さんと2人でここにいるから、戦争が終わったら迎えに来てくれよ。早く逃げなさい。逃げなさい。」と言って、「水、水。」
水飲ませたら、即死するから水の入った一升瓶を置いて、「兵隊さんが来たら水を飲ませてもらってね」と生きたおじさんを、こうして後ろ髪を引かれる思いでそこを去った。

日本兵に斬首された沖縄出身の兵士

死への恐怖におびえながら、必死で逃げたシゲさんたち。6月20日の夜には現在、平和祈念公園のある摩文仁(まぶに)付近に到着。その後、近くでドーンという爆発が起きました。

──水くみに行こうとしたら、私の眉間に破片が入りましてね、血が流れたんですよ。痛くもなかった。でも、母は死んでると思ったから、「大丈夫よー」って。

それから私たちは、現在の平和祈念公園ですね、摩文仁の丘に着いたんですよ。
摩文仁の丘は、何百人という死体があったんですよ。内臓がね、こうして真っ黒なって、水牛みたいになってね。男女の区別も分からなくなってる。もう銀バエや、ウジ。だから皆さんにどんな話しても、もう・・・もう本当に・・・もう穴だらけで、何百人だから、このね、におい。大変だったんですよ。鼻に脱脂綿入れても治まらない。ヨモギの葉っぱ入れたけどね。

崖まで追い詰められたシゲさんたちが見たのは、逃げ場を失いおびえる人たち。すると突然1人の沖縄の青年が立ち上がり訴えました。

<シゲさんの証言をもとに描かれた絵>
シゲさんの証言をもとに描かれた絵

──沖縄の青年が、「沖縄の皆さん、ここで生きていかれませんから、女は荷物を置いて、男はふんどし一本になって、手を上げて捕虜になりましょう」と言ったんですよ。
そうしたら、日本兵が2人出てきましてね。
「こんな馬鹿がいるから沖縄の戦争は負ける。」って、この青年の首をね、こう(斬った)。
誰もが見ています、この目ん玉で。もう血が飛び散ってね。もう右往左往、殺されるから。あれから私たちも、どうしたら分からないから。

とっさに丘の横から崖を降り、必死で逃げたシゲさんたち。

<摩文仁の崖>
摩文仁の崖

──あそこは少し斜めなっているから、そこを降りる時、また左の足けがしましてね。向こうもサンゴ礁、針の山なんですよ。もう水たまりにね、赤ちゃんの死体・・・浮いていてね。

うちの母は、「どうしても自分の故郷に帰りたいから、おじさんにしても(残してきたから)。」私はもう歩けないから、「どうせ死ぬんでしょ。同じ死ぬんだったら このガマ(洞窟)で死ぬよ。」って。母は「生きても死んでも親子一緒さ。あんた置いてどうして生きるか。」って。引っ張られて、崖を上がって行ったらもう死体なんですよ。敗残兵がおって、「また弾が来るから危ないですよ」と言って、元のガマに戻って、そこで死ぬつもりだったんですよ。

そうしたらもうね、水があって生きられました。湧き水があって。そして今日はあのガマ明日あのガマと移動して。
マイクで、「沖縄の皆さん、皆さんを救いに来ましたから、戦争終わりましたから、早く海岸に手を上げて出てください」と言うんですよ。捕虜になったら女は強姦されて、(男は)戦車でひき殺される。これが洗脳されているもんだから、出なかったんですよ。

信じられない光景

──日本兵も良い人がいっぱいいました。6月24日か25日に ここに日本兵の将校らしい方がおりましてね。沖縄の婦人の着物を上から羽織って、うちの母に、「おばさん、米軍は住民を殺さないから、生きていかれないからね、捕虜になりましょう」と言って、この兵隊さんのおかげで生きられた。

私が叫んでいたら、「お姉ちゃん、日の丸の旗持ってる」って、びっくりしましてね。
見ても日本人の顔で日本語。服装も違うんですよ。
友軍の兵隊だと思っていたんだけど、「僕はねアメリカの兵隊だよ」って言うんですよ。
びっくりしましてね。もう青い目ん玉の初めて見るから怖いんですよね。

<水陸両用の戦車(沖縄県公文書館所蔵)>
水陸両用の戦車(沖縄県公文書館所蔵)

そして、海岸で水陸両用の戦車に乗せられ、浦添出身の小学4年生ぐらいの男の子がいましてね。お尻ね、こんな大きな穴が開いてね。もう歩けないんですよ。這って、この子も水陸両用車に乗せたら、海の真ん中に捨てられると思ってるんですよ。ワーワー泣いて。米兵が、この少年の傷のウジ虫を取って、きれいに消毒してガーゼ付けたんですよ。私はもう怖くなって足のけがを母の後ろに隠しましてね。みんなホロホロ泣いたんですよ。

シゲさんは「捕虜になったら暴行される」と教育されていたため、子どもを助ける米兵を間近で見ても信じることができませんでした。その洗脳が解かれたのは収容所に着いてからでした。

──海岸も回って着いた所が、港側の砂浜に着いたんですよ。そうしたら、人間がおって、自分たちも行けると思ったら、「避難民だね」と言って、そこに降ろされて、玉城村の収容所に入れられましてね、そこで初めて親戚の方と会って「シゲちゃん生きてて良かったね。それ生きてて良かったね」と言って、初めて炊いたものを食べました。

地形も変わるほど激しい攻防戦を展開した結果、20万人以上の犠牲者を出した沖縄戦。 中でも沖縄県民は12万2千人以上、県民の実に4人に1人が犠牲となったことが、沖縄戦の最大の悲劇でした。

声なき声を、届ける使命

──私は今、あの恐ろしい残酷な沖縄戦のことをですね、北海道から各県、戦争体験語り部として活動しております。戦争は本当に残酷。「命どぅ宝」(=命こそ宝)。生命尊厳です。敵味方なく、命ほど大事なものはありません。ぜひ沖縄にいらして、沖縄の現実を見てください。あの摩文仁の「平和の礎」を、世界に一つしかありません。

<摩文仁の「平和の礎」>
摩文仁の「平和の礎」
<国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名が刻まれている>
国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名が刻まれている

「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない」と、あの小説『人間革命』の冒頭にあるように、この言葉を言った人は一人もいません。池田先生だけです。池田先生お一人です。先生の、大聖人様の本当に素晴らしい世界一の思想を、私たちは毎日、聖教新聞で、192ヵ国・地域の同志の方々と一緒に、大聖人様の教えを勉強し、本当に生きてて良かったと、信じて良かったと毎日感謝でいっぱいです。

私は亡くなった方、20万までの声なき声を、私は使命があって、全国の皆さんに戦争体験をこうして語っている。同級生も恩師も皆亡くなりました。
皆さん、どうか私の体験を全国の皆さんに次の方に ぜひ伝えてください。

沖縄戦の語り部

仲程シゲ(なかほど・しげ)
1929年、沖縄県生まれ。44年3月、大里村第2国民学校高等科1年時(14歳)に、自宅が第32軍独立重砲兵第100大隊の本部として接収される。翌45年6月、戦況の悪化に伴い沖縄本島南部の摩文仁に避難。母親のおかげで沖縄戦を生き延びる。戦後は、南風原町赤十字奉仕団団長、沖縄県傷痍軍人相談員、沖縄戦の語り部として活動。これまでに全国各地での講演だけでなく、海外メディアからの取材にも応じてきた。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。