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“私の沖縄戦” 渡嘉敷島「強制集団死」を生き延びて

公開日:

太平洋戦争で凄惨な地上戦の舞台となった沖縄。
1945年3月、慶良間諸島の島々にアメリカ軍が上陸し、追い詰められた人々の間で強制集団死が起きました。 慶良間諸島最大の島である渡嘉敷島では、300人以上の尊い命が失われたとされています。

大宜見郁子(おおぎみ・いくこ)さん(91歳=収録時点)は、母と妹2人と共に渡嘉敷島の集団死の場にいましたが、手榴弾が破裂せず生き延びました。
二度と戦争のない世界を祈りながら、大宜見さんは当時の悲惨な体験を語り続けています。

※本作品は戦争の記憶や教訓を伝えるために貴重な証言をありのまま収録しています。

(以下は動画より掲載)

80年間 心に秘めていた歴史を語る

  

  

ケラマブルーと呼ばれる透明度の高い海と、豊富なサンゴ礁が生息し、国立公園に指定されている美しい島、「渡嘉敷島(とかしきじま)」。
かつて、ここで多くの島民が亡くなる出来事が起きました。


玉砕場(ぎょくさいば)のあの模様とか、ずっと頭(記憶)にあります。
こんなにたくさんの人が亡くなってるんですよ。あんなに小さい島でね。

  

当時11歳だった少女が目にした惨劇とはーー。
80年間、心に秘めてきた歴史を語ります。

渡嘉敷島の美しさと迫りくる戦争の足音

  

沖縄県浦添(うらそえ)市に住む、大宜見郁子さん、91歳。
郁子さんが生まれ育ったのは、那覇市から西におよそ30キロメートル離れた渡嘉敷島。慶良間(けらま)諸島最大の島です。

  


海がきれいで、山に登ったら、クジラがよく見えるんですよ。

  

渡嘉敷に戦争の足音が聞こえ始めたのは1944年9月頃でした。


兵隊がいっぱい来たんですよ。特攻隊。若い人たちなんですよね。島の働ける人は、みんな(日本軍の)作業に行ってましたけどね。
校舎にも兵隊が入るようになって、私たちはお宮の庭(神社の境内)とかで勉強をするようなこともありました。

  

その年の10月10日。大規模な空襲に見舞われた沖縄。
その被害は沖縄全土に及び、多くの民間人が犠牲になりました。
さらに周辺の島々、渡嘉敷島も攻撃を受けたのです。


飛行機がいっぱい飛んできて。爆弾が落ちて、そしてみんな壕に避難したりしたんですけどね。なんかね、戦争のこと思い出すと胸が痛くなる。

激化する攻撃と島民の恐怖

  

5ヶ月後の1945年3月23日。突然始まったアメリカ軍からの襲撃で渡嘉敷島全土が、火の海に包まれました。
その攻撃は日に日に強くなっていったのです。


その時からもうすごい艦砲射撃と、飛行機から。ちょうど高い山があって、あっちから飛行機が降りてきますから。

  


部落に向かって降りてきますから。見ていたら弾が落ちてくるのが見えるんですよ。本当にあっという間にね。壕の中にいる時も本当に怖くて。音で地面が揺れるような感じがしてました。

雨が降るほどの弾が落ちてくるもんですからね。怖くて外なんか出られないですよ。だから親子4名で防空壕に、小さい防空壕ですけど、そこに入って、布団をかぶってずっと我慢していましたね。

  

そして、3月27日アメリカ軍はついに島へ上陸。
村を制圧していきました。

  

命がけの避難行、そして「玉砕場」へ

親戚の壕が3つぐらい並んでいて。みんないなくなっているけど(私たちは)気付かなくて、逃げるのが遅かったんです。

うちの母が「みんな、にし山(北山)に行ったみたいだから、自分なんかも行かないといけない」って。

すごく雨が降っていて。この四角い叺(かます:わらで編んだ袋)を三角にして、かぶって、そして山裾からずっと上がっていって、みんなが通った後ですので、坂道なんかすべって登れないんですよ。本当につかまえて登るような感じで。

あの山なんてあんまり行ったことないんですよ。あんなに小さい島だけど、初めて行きました。

  

郁子さんは母と2人の妹の4人で、島で一番高い山、「にし山(北山)」を目指しました。

  


上がっていったら、男の人が「夜が明けたら、艦砲射撃がくるから、ここから早く逃げなさい」と言う人、男の人がいて、薄暗いから顔は見えなかったんですけど。

そうこうしている間に、もう艦砲射撃がくるんですよね。ヒューって音がするもんだから、うちの母がみんな子どもたち(を集めて)、この土手の方に付いていったら、(爆弾が)近くに落ちたんでしょうね。

ボンっといって、本当にこの下から上げられるような感じでした。その時にうちの妹は耳が聞こえなくなったんです。お母さんがおんぶしている一番下の子。

うちの母も何かおかしくなって、私と次女を置いて急いで逃げて、うちなんか(妹の)手を引っ張って、お母さんを追いかけていったんですけどね。

行った所が玉砕場でした。

悲劇の「集団自決」――恐怖と覚悟の瞬間

  

現在、国立沖縄青少年交流の家の北側に、集団自決跡地があります。
ここから北側に下った所に、島民が集まっていました。

  


もう明るくなっていましたね。人がいっぱいいて。みんな、親戚同士で固まっているんですよ。そこに防衛隊の方がみんなに渡していったみたいです。手りゅう弾を。

捕虜になるよりも、自分たちで死なないといけないっていう。普段からみんなそう教えられてますからね。

怖くないです。何も怖くない。“もうこれで死ぬんだ、これで死ねるんだね”って思って。

私はね、防空頭巾といって。あるんですよ、綿入れで。これをかぶってたんだけどね、これをかぶっていたら死ねないし、取ったらどうしようと思っている時に、うちのおばあさんが上から降りてきて、「あんたはうちの子どもだから、自分たちと一緒に死になさい」と言って、うちのおばあさんが私を連れて行くんですよ。うちの父の親が。

そしたらうちの母は、「これは自分の子どもだ」って言って、また連れてきて、「自分たちと一緒に死ぬんだ」と言って、そして親戚みんなこうして輪になってね。

そして下は川があって、大きい木もあったんですね。そしたら子どもをおぶってるひも帯を取ってこうした「死んで川に落ちたらいけないから」と言って、こうして(木に帯で体を巻いて)いたんですけどね。

  


その後からも、あちこちで、「天皇陛下万歳!」をみんなでやって、そしたらあちこちでみんな破裂して、すぐ近くでも破裂しているんですよ。うちのおばあさんのところも破裂して。

地獄絵図の中で見たもの

うちなんかのところはみんな女性ばかりですからね。一人のお姉さんが、やったんですけど、信管(しんかん)抜いて。破裂しないんですよ。それから「もう大変」と言って。

あっちこっちで、みんな破裂。死人がいっぱいで、首切れてる人とか、うめき声からいっぱい本当にもうね、地獄ってこんなもんかねえと思うんですけどね。

  

これは体験者が集団死の様子を描いた絵です。
大量の遺体で覆い尽くされた中をかき分け、郁子さん親子は、死を求めてさまよい続けたのです。

  


殺し合いしてる所を通ってるから、チラッと見るだけですね。

でもみんな「助けて」と言う人は、いませんでしたね。「殺して」って。死ぬのが当たり前みたいな教えを受けているもんですから。

立って、川の所にまで行ったら、そこに防衛隊の親戚のお兄さんが来て、短剣を出して、「これでも死ねるよ」と言って、(やり取りを)してるところに巡査が来て、「軍の機関銃でね、殺してあげるから」と言ってみんな付いていったんですよ。

付いていったんだけど、そしたらもう敵の機関銃とかの弾もいっぱい飛んでくるんですよね。その中を、逃げていって、道もない所ですから、みんなとバラバラになって。

そこから兵隊が一人ぐらいかね。来たんですね。うちの母が「機関銃で殺してください」って言ったら、この兵隊が「早まったことしないでね、逃げれる時に逃げなさい」と言われて、「でも死なないと。殺してください」ってうちの母が言っていたから。

「早まったことをするな」って言って。この人が、かばんから、乾パンを出して、私に渡したんですよ。

「これ食べなさい」と言って渡して、そしたら「ありがとう」と言って私ももらって。そしたらこれ(乾パン)の中にコンペイトーが入ってるんですね。この味は今も(記憶に)ありますね。これをもらってみんなで分けて食べて。

  

生き残った者たちの試練

  

死ぬことを踏みとどまった、郁子さん親子。
すでに日が暮れていたため、朝までそこにとどまることにしました。


夜が明けて、ちょうど谷間になってる所があるんですね。私なんかここにいるから、そこで見たら、木に人の死体が。死体で。人間ではないですね。(手足が)切れ切れになって、木に引っかかってるんですよ。

大きいシイの木があって、これに引っかかってるんですよ。そして下を見たら、穴が開いていて、たぶん、ここに艦砲射撃が落ちて、これで飛ばされた、と今は思うんですけどね。

  

その時見た光景と同じ場面を描いた絵。
母親がわが子を手にかける様子も描かれています。

  


みんな死人から何から、もう人がいっぱいいて、そして。死んだ人も踏んで歩くぐらい。

後から聞いたら、「あっちはこのお母さんが皆、お父さんも子どもも、みんな殺したよ。」「あっちは鉈(なた)で殴り合いして死んじゃったよ」って言って、話を聞いたことあるんですよね。

  

この強制的な集団死により、300人以上の島民の命が失われたといわれています。
その後しばらく、山中の山小屋に身を潜めて暮らしていた郁子さん一家。

日本軍への恐怖と米軍への投降

しばらくしたら、飛行機からビラが落ちてきて、マイクで「もう戦争が終わったからみんな降り(投降)なさい」と言って。

私がこのビラを拾おうとしたら、うちの母が「これ触ったら兵隊に殺されるから触るな」と言って、「部落に帰るのを見られたら、兵隊に殺されるから」って。

日本軍に殺された人はいっぱいいますよ。渡嘉敷島は。部落に降りて、家族を連れに来たり、親戚を連れに来たり、これで見つかって殺された人がいっぱいいますからね。

これが怖いんです。その頃からは。アメリカ軍よりも日本軍が怖い。

  

ある日、郁子さんが山の上から見た光景に
家族は命を賭けて村に戻ることを決めました。

  


山に上がってみたらね、渡嘉敷島と座間味島があるんですよ。そこに、アメリカの軍艦がいっぱい並んでいて、本当に海が見えないほど。

これを見た時に、「もうどこにも逃げることできないんだね」って子どもながらに思って。

そしてみんな降りたっていうから、うちの母が「降りよう」と言って、行って着いた所がね、ちょうど川、小さい川があって。

そしたらアメリカの兵隊がいっぱいいて、とても怖いから、お母さんにしがみつきながら、山から降りたんですけどね。

  

アメリカ軍の捕虜になり、そこで終戦を知った郁子さん。

語り継ぐ記憶と平和への願い

戦争が終わっても戦争の話をする人はいないです。口から出したくない。

思い出すのはいっぱいありますけど、いつでもあの光景がもうこっち(頭)にこびりついてるんですよ。見てるように。その場面があるんです、今も。

今あの場面を思い出して、あんなことがあって、こんなことがあったって、思い出してやるんですけどね。その場面では、その当時を感情も何もないですね。

人が死んでるのを見ても。踏んで通っても。本当に戦争っていうのは人間が人間じゃなくなるんですね。残酷で、悲惨で、戦争は絶対ダメ。

  

  

できれば思い出したくない記憶。それでも、戦争のない世界を願って、郁子さんは、強制集団死の体験を語り続けています。


戦争のない世の中をね、絶対に平和な日本、平和な世界を、ずっと築いていってほしいって思ってます。だから孫たちにも、このことを、ひ孫にも伝えていきたいと思ってます。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4.質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正の質の高い教育を確保し、生涯学習の機会を促進する。