【被爆証言】「原爆を許さない!」――最後の被爆地・長崎から平和の声を届ける

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1945年8月9日、アメリカ軍は長崎に第2の原爆を投下しました。街は一瞬で廃虚と化し、およそ7万人もの多くの命を奪い去りました。10歳の時に被爆した梅林二也さん(85歳)は、原爆症と闘いながら、その悲惨さを今日まで訴え続けてきました。

※本記事は、2020年8月9日に開催された創価学会青年部主催の「オンライン証言を聞く会(長崎)」の映像内容を記事にしたものです。

広島から疎開し、祖母のすすめで長崎へ

──長崎の三菱造船に勤めていた父の転勤で、昭和19年(1944年)、広島に家族と引っ越しました。私は当時10歳、広島市観音国民学校の4年生でした。広島市の爆心地から数キロの観音新町に、8歳と7歳の妹、4歳の弟、生後数カ月の妹と暮らしていました。空襲が激しくなると、学童疎開が始まりました。

広島に身寄りのなかった私は、両親と離れて、岡山県の田舎にあるお寺に、担任の先生と一緒に疎開をしました。初めての集団疎開は寂しく、戦時中は食料不足でいつも空腹でした。主な食事は山で採ってきたフキやワラビ、ゼンマイなどの山菜が入った雑炊。それでもおなかがすくので、よく山に生えていたイタドリの皮をむいて、酸っぱい茎をかじっていました。

時折、両親に手紙を出すことが許されました。しかし、引率の先生の検閲があり、両親が心配するから「寂しい」とか、不満は書いてはいけないと言われました。両親から慰問の品が届く度に、頭に浮かぶ両親の顔。「もう少しの辛抱」「戦争が終われば日常に戻れる」と自分自身に言い聞かせていました。そうした時、長崎にいた祖母が、「寂しいから誰か孫一人をよこすように」と手紙を書いてきました。そこで、私が長崎に行くことになりました。

8月9日、あの日はよく晴れていた

<原子爆弾さく裂15分後に撮影したもの 地上から写したものでは最も早い写真(長崎原爆資料館所蔵)>
原子爆弾さく裂15分後に撮影したもの 地上から写したものでは最も早い写真(長崎原爆資料館所蔵)

──昭和20年8月9日、あの日はよく晴れていたと記憶しています。朝方、空襲警報が鳴ったので、外に出られず我慢していましたが、10時半ごろ、解除になりました。私は友人を誘い合って近くの「ひょうたん川」に向かいました。夢中で遊んでいると突然、稲妻のような閃光(せんこう)がピカッと光りました。何が起こったのか分かりませんでしたが、身の危険があればすぐに防空壕へ避難するように教えられていたので、私は急いで近くの防空壕に駆け込みました。その直後、「ドカーン」というごう音が響き渡りました。すさまじい衝撃波で、天井の土砂が崩れ落ちて、体は埋もれ、呼吸ができなくなるほどの、砂ぼこりにまみれました。

1945年8月9日、11時2分。アメリカ軍は長崎に第2の原爆を投下。広島への投下から、わずか3日後でした。上空500メートル付近で爆発した原爆は、広島の1.3倍ものすさまじい破壊力でした。

──恐怖心と土砂で動けず、そのまましばらくじっとしていると、一緒に遊んでいた子の母親たちが探しに来て、私たちを土砂から掘り出してくれました。その時、初めて外を見ました。防空壕に埋まってから1時間ぐらいたっていたでしょうか。あれだけ明るかった夏の空が、夜と間違えるほど真っ暗になり、紅蓮のような炎が、至る所で燃え盛っていました。

祖母の家に帰る途中、周りには屋根瓦が崩れ落ち、吹き飛ばされたガラスや家具が路上に散乱していました。私が住んでいた日の出町は爆心地から4・5キロ。自宅が山の陰にあったことが幸いし、家屋の崩壊は免れました。この山がなければ、川で遊んでいた私たちは爆風でひとたまりもなかったと思います。

<長崎・被害の概況 日の出町が梅林さんの自宅>
長崎・被害の概況 日の出町が梅林さんの自宅

同じ爆弾が広島にも投下されたことを後で知り、広島の両親や弟妹たちが無事かどうか心配でたまりませんでした。「広島は全滅したらしい」と噂が入ると不安と焦りでじっとしていられず、私と祖母は長崎駅まで行くことにしました。もし生きていれば、長崎に戻ってくるはずだと思ったからです。

焦土と化した長崎

──市街地に向かうに従って目に飛び込んでくるのは、焦土と化した長崎の街並みでした。建物は吹き飛ばされて原形をとどめておらず、瓦礫(がれき)は道をふさいでいて、どこが道路かも分かりません。

馬を引いていた馬車は横倒しになり、馬が焼け死んでいました。死体は至る所に転がっていたのです。長崎駅とおぼしき場所に来て、愕然(がくぜん)としました。駅周辺はほとんど焼け落ち、建物の鉄骨がアメのように曲がっているだけでした。

<破壊された路面電車(長崎原爆資料館所蔵)>
破壊された路面電車(長崎原爆資料館所蔵)

原爆による熱線と爆風、そして放射線は、あらゆる建物を破壊し尽くし、たくさんの市民の命を一瞬にして奪い去りました。その数はおよそ7万人。当時の長崎市の推定人口24万人の3分の1近くの人が犠牲になったのです。

──翌日も家でただ待っていても気がもめるだけなので長崎駅から2つ先の「道の尾」駅に行ってみました。電車は焼けた状態で停まっています。血に染まったシャツのまま、放心した姿で歩く人。子どもをおぶって家族の安否を尋ねる人、田舎から親類縁者の家を訪ねてきたのか、倒壊した建物の前で立ち尽くす人など、町は殺伐とした雰囲気でした。

「救護」の腕章を付けた人が死体を運び、消防団の人が廃材で遺体を焼いていました。その周りも、散々泣き尽くして、いまさら泣く涙も出ないといった様子で、肉親の遺体が焼かれる炎を眺めている人たちがいました。

<原爆投下後、道路に沿って移動する生存者(米国国立公文書館所蔵)>
原爆投下後、道路に沿って移動する生存者(米国国立公文書館所蔵)

家族との再会、団らんのひととき

──14日の午後に両親が、弟と3人の妹を連れて、着の身着のままの姿で広島から帰ってきました。8月11日に広島の宮島を出発したが、広島も被爆しているので列車はスムーズに動かず、4日間かけて長崎にたどり着いたそうです。

私はうれしいというより、驚きの方が大きかったです。目の前に突然、両親や妹たちが帰ってきたのですから。祖母は、取っておいた配給米を炊き、じゃが芋を煮てくれました。今でも、肉じゃがを食べると、あの日ことが思い出されます。普段は祖母と2人だけのひっそりとした食卓でしたが、この時はにぎやかな雰囲気で、父も母も祖母も互いの無事を喜び合いました。

広島では当初、全員が家の下敷きになったそうですが、幸い父が出勤前で家にいたので、崩れた家の中から一人一人を助け出したといいます。妹たちは皆、かすり傷で済みましたが、弟だけは背中に家の梁(はり)が落ちてきて大けがをしました。

被爆の後遺症とは

原爆投下から2週間後、父は、広島の造船所へ。二也さんと3人の妹は父の郷里の南島原市布津町に疎開することになりました。

──道中の列車の車窓からは田畑で農作業をしていた人たちの焼死体が放置されたままになっているのが見えました。黒焦げの死体の口の辺りから、白い泡のようなものが垂れ下がっているのが気になりましたが、後に「あれはウジ虫だったのではないか」と思うことがあります。

列車内も異常でした。夏の暑い時期です。手足のやけどの傷口が腐り、そこにハエが飛んできます。見ると、傷口には白いウジ虫がうごめいていて、母親らしき人が箸でつまんで取っていました。「傷口のウジ虫が動くと痛い」とその人が語っていました。

しきりに洗面器に血を吐いている人、頭の毛が焼けてしまい男女の区別がつかない人。その臭気で、私は気持ちが悪くなりました。それらに混じって死体の臭い。死体の臭いは独特で、何とも言えない臭いです。あの年は、そんな死体の臭いが至る所に漂っていました。

布津町にいる頃、被爆の後遺症からか、だるくて起きていられず、すぐに横になることが多くありました。歯茎からは流血し、高血圧でもあり、薬が手放せなくなりました。

被爆者は熱線や爆風だけでなく、大量に放射線を浴びたことにより、下痢や、発熱、脱毛、出血、意識障害などに襲われ、突然死に至ることもありました。さらに、いつ死ぬのか、病気になるのか分からない原爆症への恐怖、後遺症による心のトラウマ(心的外傷)も、多くの被爆者を苦しめていました。

核兵器は絶対悪

──終戦から12年がたった1957年、当時、小学校の教員1年目でした。その年の9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」(第4回東日本体育大会)に長崎から参加し、戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表の場に居合わせたのです。

<創価学会青年部「若人の祭典」(横浜・三ツ沢競技場)>
創価学会青年部「若人の祭典」(横浜・三ツ沢競技場)

大会の席上、戸田第2代会長は、全国から集った青年に呼び掛けました。
「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」

<宣言の草稿メモ>
宣言の草稿メモ

──長崎で被爆した私にとって、戸田先生の師子吼は肺腑(はいふ)をえぐるようなものでした。

宣言には、強烈な表現で、「核兵器を絶対に許さない!」との恩師の熱願と、原水爆を保有し、使用しようとする人間の生命に巣くう魔性を打ち砕く烈々たる叫びに武者震いしました。

核兵器は絶対悪と断じた宣言は、被爆の後遺症に苦しめられ、いわれない差別を受けた被爆者とその家族にとって、希望の光源となりました。

長崎に戻るとすぐに、宣言の全文をガリ版で刷り、ボロボロになるまで同志と読み深めました。平和への誓いを何度も何度も確認しました。

「原爆に支配されてなるものか」 宿命を使命に

翌1958年11月15日、若き日の池田名誉会長(当時:総務)は、長崎を初訪問。会合の席上、力強く呼び掛けました。

──「被爆の宿命を嘆くのではなく、生命尊厳の哲学を広げゆく使命に」と、ひときわ語気を強められました。この言葉を聞いて、どれほど多くの同志が決意したことでしょう。

長崎の人々は、たった1発の原爆で、大切な人を奪われ、家を奪われ、仕事も健康も狂わされました。しかし、戸田先生と池田先生が私たちに、「使命」を与えてくださいました。

真っ白なこれからの自分史まで、原爆に支配されてなるものかと、あの友、この友に、平和と正義を訴え続けてきました。

後に池田先生は長編詩につづってくださいました。

 「もっとも不幸に 泣いた人こそ 

 もっとも幸福になりゆく 権利がある

 被爆の苦汁をなめた 長崎の友は

 平和の尊さを誰よりも知る

 平和は 決して 与えられるものではない

 自らの意志で 自らの手で 額に汗し 語り 動き

 岩盤を こぶしで砕くが思いで

 戦い 勝ち取るものだ」

今も苦しむ被爆者の声に、耳を傾けてもらいたい

──自身も家族も原爆を体験した身として、できれば思い出したくないのは事実です。

しかし、戸田先生、池田先生がそうであったように、「原爆を許さない」「他の誰にも同じ苦しみを味わわせない」との思いが、私の原動力です。仏法を実践する中で、その思いを行動に昇華できました。

核攻撃がもたらす悲惨さを明確に語り残せるのは、被爆者しかいない。だからこそ、私は自らの体験を語ってきました。

皆さんには、今なお後遺症に苦しめられ、また発症におびえる被爆者の声に耳を傾けてもらいたい。そして、そのメッセージを、世界中に発信してもらいたいと思います。

今後の皆さんのご活躍を心から祈っております。

ご静聴ありがとうございました。

長崎・被爆体験の語り部

梅林二也(うめばやし・つぎや)
1934年12月、長崎県長崎市生まれ。10歳の時、自分と祖母は長崎で、両親ときょうだいは広島で被爆。体のだるさや歯茎の出血、高血圧などの症状にみまわれる。 長崎創価学会の草創のリーダーとして平和社会の建設に尽力。これまでに語り部としての活動、被爆証言集『ピース・フロムナガサキ(戦争を知らない世代へ3 長崎編)』(1974年)に自身の被爆体験を執筆。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7 2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。