【震災証言】希望を灯す「誓い」の共有へ――東日本大震災から10年

公開日:

東日本大震災から10年。震災の教訓を風化させることなく後世に伝えていくため、宮城県石巻市在住の丹野信一さんが、被災体験を語ってくれました。 2011年3月11日、丹野さんは、自宅にいた時に親族と共に被災。その後、地域の学会のリーダーとして復興に尽力してきました。

※本記事は、2020年11月15日に開催された創価学会東北青年部主催のオンライン証言会の映像内容を記事にしたものです。

引き留めて置けば―今でも悔恨の念が残っている

あの3・11からまもなく10年。私たちは、日本中、世界中の人たちから温かいご支援を頂き、そして何より、片時も忘れることなく寄り添い続けていただいている池田先生の励ましで、一歩ずつ歩みを進めてくることができました。本当にありがとうございました。

私は、3月11日自宅で被災しました。家には私と母そして隣町の女川に嫁いだ妹が来ていました。未だ経験したことのない激しい揺れが収まると、妹は「家族がいるので帰る」と言って自宅のある女川へ、その時交わした言葉は「気を付けて帰れよ!」「うん 分かった」これが妹と交わした最後の言葉になってしまいました。

あの時、なぜ津波に気付けなかったのか、「ここにいろ!」となぜ言わなかったのか、引き留めておけば、と今でも悔恨の念が残っています。妹の遺体は、その後見つかりましたが、夫と姑は今も行方不明です。

「学会の会館は大丈夫か?」半身まひの母を近くの避難所へ頼み、私は「石巻平和会館」に急いで向かいました。会館に着くと婦人部の方や、近所の人たちが着の身着のままで避難してきました。鳴り響くサイレン、雪が降り、恐怖と不安の中で、あの津波到達時刻を迎えることになりました。館内は混乱し、せっかく避難してきたのに家に帰ると言い出す人が出たり、考えられないことがたくさんありました。

会館は海から200mほどと、いつ津波にのまれてもおかしくない状況でしたが、特殊な地形が幸いし、奇跡的に津波は会館の目の前で止まり、そのまま避難所となりました。

避難所とはいっても、携帯電話は通じず。停電。断水。全てのライフラインが寸断され完全に孤立していました。

食料が尽きた3日目の朝、男7人で食料調達隊を結成。「どんなことしても今日は必ず食料確保してくるぞ」と決意し、期待する婦人部や皆に見送られた時は、狩りに出かける縄文時代の男たちもこうだったんだろうかと思いました。

そして執念で避難者の命をつなぐ食料をゲット、意気揚々と会館に帰った時、皆に大歓喜で迎えられた光景を今でも誇らしく思っています。

あまりにも過酷で悲惨な現実

災害対策本部といっても、どことも連絡が取れません。安否確認は、電話もメールも使えない、車も自由に走れず、ただひたすら果てしなく続くがれきを乗り越え、一人一人に会いに行き、会った人に知っている情報を聞きながらメモしていくしかありませんでした。

会って顔を見て安否を確認する。

当時の安否確認に使用したメモ帳があります。最初は生存を確認できた人がほとんどでしたが、次第に行方不明の記載が多くなり、死亡確認の報告も増えていきました。

そしてある方の欄に「仮土葬」というメモを見た時、あまりにも過酷で悲惨な現実を突き付けられました。日がたつにつれ、被害の甚大さ、深刻さに押しつぶされそうになり、絶望の淵にいる目の前の人に何て声を掛けたらよいのか分からず、言葉もなくしていきました。

希望の灯がともった瞬間

発災から3日後の3月14日、当時の髙田県婦人部長ご夫妻ががれきをかき分け、石巻に唯一届いた1部の聖教新聞を届けてくれました。そして、そこには池田先生の渾身(こんしん)の励ましがありました。

この言葉を一刻も早く、多くの同志のもとに届けたいと、避難しているメンバーで書き写しました。夜は懐中電灯や、サラダ油とティッシュペーパーのこよりで作った明かりで「一枚でも多く」との思いで書きました。そして、手分けして避難所や自宅避難の同志のもとへ走りました。

実はこの時、どこの新聞社も配達は再開されておらず、この手書きによる聖教新聞の配達は震災後初のことでした。

さらに 希望の光がともったのは3月16日。まとまった部数の新聞が会館に届いた時でした。

「心の財(たから)は絶対に壊されない」

との池田先生のメッセージが掲載されていました。

皆、涙して何度も何度も読みました。勇気の太陽が昇りました。先生が見ていてくださっている。この新聞を一人でも多くの友に届けよう。皆で配達体制を組み、各避難所の友のもとへ歩きに歩きました。皆 肩を震わせて泣いていました。

ある小学校の避難所に届けた時のこと、会員でない方が「私たちにも下さい」と言うのです。未だ一般紙の配達は再開できていませんでした。「創価学会の新聞ですよ」と言うと「ぜひ下さい」と言うのです。聖教新聞のもとに人だかりができ食い入るように読む人々の輪があちらこちらにできました。

3・16広宣流布記念の日に聖教新聞が、そして 池田先生のメッセージが、被災地に一筋の光をともした瞬間でした。その姿を見た時、この被災地から必ず太陽は昇ると確信しました。

心の中で泣き、それでも目の前の一人のために

東北文化会館から食料や支援物資が届いたのは3月14日。その日から会館は支援センターにもなりました。

そして同じ日には、壊滅的な被害のあった女川支部の阿部純也支部長と壮年の大壁さん、国本さんの3人が石巻平和会館に飛び込んできました。お互い肩を抱き合い、届いたばかりの支援物資を分け合いました。

この日から3人は、毎日会館に届く救援物資を壊滅的な被害のあった女川町内の16箇所の避難所に創価学会救援物資として運び続けました。

ほどなくこの活動は町より認められ、運搬車両は町の災害緊急車両となり、ガソリンが不足している中、優先的に無料でガソリンが提供されました。運搬活動の内容もすべて町から支部長に一任されるなど、学会が全面的に信頼される活動となりました。

率先して物資を運んでくれた国本さん自身、4人のお子さんを津波で亡くされています。心の中で泣き、人の見ていない所で泣きながら、悲嘆に暮れる人のために立ち上がり、希望の光を一つ一つともしていきました。

4月3日には被災の少なかった内陸部の壮年・男子による「かたし隊」が結成され、がれきの除去、泥のかき出し清掃活動がスタートしました。

この「かたし隊」、命名の由来は「片付ける」と被災地を「勝たしてあげたい」との二つを合わせ、「かたし隊」と命名されたのですが、石巻平和会館での語らいから生まれたものです。その後、各地の被災地にこの「かたし隊」が結成され、近年多発する台風や豪雨災害でも結成されております。

「決して一人きりで苦しむ人を出してはならない」「誰も置き去りにしない」

続いて「復興支援に尽くしてくれた同志から学んだこと」を二つ紹介します。

一つは、全国から応援に駆け付けてくれた青年部職員の奮闘です。支援の輪の広がりの中で、一人一人の生活再建を本格的にサポートするため、5月1日には、復興支援センターが石巻文化会館に開設され、全国から主に青年部の職員が入れ替わり任務に就いてくれました。

「決して一人きりで苦しむ人を出してはならない」「誰も置き去りにしない」

との先生の心に、心を合わせ、人の心の見える復興支援の拠点を立上げたいとの強い思いがそこにありました。

復興センターへの依頼は本当にさまざまで、中には「この依頼はどう考えても無理だろう」「もっともっと大変な人がいっぱいいるのに」と思ってしまうことも多くありましたが、こうした依頼に対しても、復興センターは決して断ることなく誠心誠意 対応してくれました。

「なぜここまで?」と思うこともありましたが、目の前の一人を励ますその姿からハッと気付きました。こちらの都合で無理だと断った瞬間に、励ましではなくなる。一つの落胆が絶望になってしまうと。

体当たりで力を尽くす復興支援センターの青年部の姿勢が、被災地と真の信頼を結び福光の灯台になっていきました。その姿勢に私も学ばせていただきました。石巻の私たちは復興支援センターの青年の皆さんに言葉に尽くせないぐらい感謝しています。本当にありがとうございました。

会場の外の「声なき声」に寄り添う

そして、もう一つは、ある関西のリーダーとの出会いです。4月29日に行われた「復興祈念勤行会」でのこと。震災で亡くなった尊き同志、最愛の家族、大切な友人の追善法要でした。

私は会館内で運営にあたっていましたが、一切終了した後、復興支援センターを開設するため石巻に常駐していた関西の幹部の方が、「丹野さん、今日のような集まりの時は、必ず、会場に入りたくても入れないでいる方、入ろうかどうか迷っている方が外にいることがあります。今日も外を回ったら、やはりおりました」と言われ、話を聞かれたそうです。

外にいた方は、震災で家を流され、今は知り合いの倉庫の片隅を間借りして避難生活をしているとのこと。ここに来れば何か支給品があるのではないか、援助してくれるのではないかと思い来られたとのこと。その関西の幹部は寄り添うようにその方のお話を聞き、激励して、会館にある食料や支援品をお渡ししたそうです。

目には見えない会場の外の方の「声なき声」を聞こうとするその心と行動に、私は衝撃を受けました。目に見える「目の前の一人を励ます」そして、見えない「声なき声」に寄り添うことを学ばせていただきました。

希望の絆を結ぶ 復興への取り組み

最後に「復興支援から広がるエピソード」を紹介します。

この10年間、創価学会の震災復興の取り組みが、社会へ大きな波動を起こしてきました。

音楽隊による「希望の絆コンサート」は、石巻躍進県内では12回開催され、延べ1800人が参加。行政の首長等も参加し、「仮設暮らしが長く、私自身も正直、心が折れそうになる時があります。しかし、今日の希望の絆コンサートに参加し、本当に励まされました。希望を感じました。明日からの活力を頂き、皆さんとともども、石巻復興へがんばりたいと思います」との声も寄せられています。

また、「この看板を見て誰かが少しでも元気になればいい」当時県男子部長だった黒沢さんが建てた「がんばろう!石巻」の看板は、東日本大震災で亡くなられた方を悼む場となり、そこに咲いた「ど根性ひまわり」は復興のシンボルとして、これまで国内外から多くの方が来られています。

「ど根性ひまわり」は、同志の手から手へと渡り、夏になると北海道から四国・中国地方など、聖教新聞の地方版で開花の記事が紹介されています。さらに、インドの創価菩提樹園にも。不屈の心で前進する東北の私たちの奮闘が、海外の同志に伝わり、世界広布に連なっていることに感動が込み上げてきます。

「憂いの共有から誓いの共有へ」希望の灯をともしていく

最後になりますが、10年を迎えようとしている今でも、復興の歩みは、人それぞれに違います。

一昨年、7年間行方不明だった婦人の身元が分かり、家族のもとに戻ってこられました。ご遺族はつらい日々、忍耐の日々であったことをよく知っていたことから、法要の導師を務めさせていただきました。遺族の娘さんは「やっと報われた思いがします」と声を震わせていました。

池田先生は、震災の翌年に発表された「SGI(創価学会インタナショナル)の日」記念提言で、「法華経」で説かれる〝全ての人間に等しく備わる無限の可能性〟を信じ抜くことの大切さを確認され、「憂いの共有から誓いの共有へ」と呼び掛けられました。

さらに、「どんなに絶望の闇が深くても『自分が小さなろうそくの灯になることを恐れてはいけない』」「『けっしてあきらめてはいけない。人が生きているかぎり、灰の下のどこかにわずかな残り火が隠れている(中略)なすべきことはただ息を吹きかけることなんだ』」と語られました。

気付けば、あの震災で、最愛の子どもを亡くし、妻を亡くし、家族を亡くし、家をなくし、「残り火」すら見えなくなっていた同志が今、家庭や地域そして組織の希望になっています。

多くの被災者のもとに聖教新聞を配達していた阿部さんは、友人から「聖教新聞によく載っている『心の財(たから)』って何なんだ?」と聞かれ、いつもこう答えたそうです「何があっても負けない心だよ。あなたにだってあるんだよ!」。

励ましが必要な人はたくさんいます。私たちもこれから こうして一人一人の「心の財(たから)」に光をともしていきたいと思っています。

青年部の皆さんが復興の希望です。今はコロナ禍で悩んでいる方も多いと思いますが、互いに励ましを送りながら乗り越えていきましょう。

本日は大変にありがとうございました。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。

●目標11. 住み続けられるまちづくりを
都市と人間の居住地を包摂的、安全、強靭かつ持続可能にする

●ターゲット11.5
2030年までに、貧困層及び脆弱な立場にある人々の保護に焦点をあてながら、水関連災害などの災害による死者や被災者数を大幅に削減し、世界の国内総生産比で直接的経済損失を大幅に減らす。