2024.11.29
【震災証言】“心の財”は壊せない――東日本大震災から10年
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東日本大震災から10年。震災の教訓を風化させることなく後世に伝えていくため、岩手県釜石市在住の藤元裕一さん、福子さんが、被災体験を語ってくれました。
当時、地域の学会のリーダーとして同志の安否確認や、困窮する地域の支援に走り続けた藤元さん夫妻。
街の復興が進む中で、心の復興はぞれぞれであり、最後の一人が立ち上がるまで寄り添い、励ましを広げていく決意を述懐されています。
※本記事は、2021年1月24日に開催された創価学会東北青年部主催のオンライン証言会の映像内容を記事にしたものです。
午後2時46分、人生で経験したことがないほどの激しい揺れが
(以下証言:福子さん)
未曽有の大震災からまもなく10年。あの日から今日まで流した涙は数えきれません。
私たち夫婦は釜石市の浜町という場所に住んでいます。すぐそばにある釜石港には世界最大級の防波堤がありました。大津波はそれすらも越えて街を壊滅させました。
あの日、私は当時85歳になる母と、二人で自宅にいました。翌日から仙台に行くことになっており、目が見えない母のために、外出の支度をしていました。
午後2時46分、今までの人生で経験したことがないほどの激しい揺れに襲われました。
揺れが収まるとすぐに携帯電話を取り、仕事に行っていた夫に電話をしました。
「お父さん大丈夫?」
短い会話でお互いの無事を確認した後、電話がつながらなくなりました。
“津波が来るかもしれない”
母を連れて自宅の2階に上がり、窓から海の方を見ました。すると、遠くから「バリバリ、バリバリ」と轟音が聞こえてきました。
そして何と海側の家という家が流され、こっちに向かってくるのです。わが家は少し坂の上にあるのですが、この勢いでは、のみ込まれてしまうと覚悟しました。
すると、流されてきた車や家が防波堤の代わりになり、濁流を食い止めたのです。
わが家はすんでのところで事なきを得ましたが、津波は自宅の数メートル手前まで押し寄せました。
市街地への道は がれきでふさがれ、人も車も通れる道がありませんでした。
家族や同志に必死で電話をかけても一向につながりません。心の中で題目を唱え気持ちを落ち着かせ外に出ると、わが家の隣の料亭に300人もの人が避難してきました。
わが家にも家が浸水した近所の家族と同志のご夫婦に泊まっていただきました。
その日は本当に寒い日で、皆、身を寄せ合って寒さに耐えました。
夫は仕事で内陸の遠野市に行っていたため無事でしたが、道路が寸断され、その日は帰ってくることができませんでした。
一番心配だったのは海沿いのアパートに暮らしていた長女でした。
震災の2カ月前に生まれた初孫と共に、アパートの最上階まで上がり、3階まで到達した津波を逃れられたと知ったのは、翌日のことでした。
“無事故ノート”と共に、避難所を回る日々
夫は車を乗り捨てがれきをかき分け、山道を抜けて翌日の昼に、ようやく自宅に戻りました。
再会するや同志の皆さんに会いにいこうと、すぐさま行動を開始しました。
通れる道路がなかったため、自宅裏の山道を抜けることにしました。
岩がごつごつし、木々が生い茂る獣(けもの)道で、足を滑らせながら歩き沿岸に住む同志を探し回りました。
なんと偶然に、がれきの中で再会できた支部婦人部長さんは、アパートの2階まで流れ込んだ濁流の中、自らは空調設備につかまり、乳児を抱えて流されかける男性を背中で壁に押し付け、片手でもう一人の隣人の襟元をつかみ、「腕が引きちぎれても離すものか」と必死で生き延びた壮絶な体験をされていました。
もう泣きながら、抱き合うしかありませんでした。その後は毎日、獣(けもの)道を抜けて、1日に5時間も6時間も歩いて避難所を回りました。
その際、“無事故ノート”を持ち歩きました。ノートには沿岸の同志の名前を書き出し、生存が確認できたら、名前の横に赤丸を付けました。一人 また一人と会っていき、初日は21人 2日目は37人。安否確認を進める中、同志の訃報に接することも少なくありませんでした。
時には遺体安置所までご遺族と一緒に、ご遺体の確認に行くこともありました。
“みんな無事でいてほしい”と真剣に祈りながら、“とにかく早く会いにいこう”と必死でした。
自宅の電気は1カ月以上も止まり、水もガスも通りません。沢からくんできたわずかな水を、支援物資のガスコンロで沸かし、タオルを絞って孫の顔を拭いてやりました。当たり前のことなんて一つもありませんでした。
そんな中、生きて再会できた友とは強く抱き合い、互いの無事を泣いて喜びました。
命を削るようにして生きる日々、心に希望をともした二つのこと
震災で多くの尊い命が、犠牲になりました。
1週間前に一緒に活動に歩いた同志も亡くなりました。夫婦で慕っていた大先輩でした。
友の訃報に触れるたびに、胸が張り裂けそうでした。何度も何度も泣きました。肉親を亡くした方もいました。家族が行方不明のまま、見つからない人も。そんな時、何と声を掛けてよいのか、分かりませんでした。
ただただ話に耳を傾け、一緒に泣きました。
自分たちは家族も家も無事だった。申し訳ないという葛藤もありました。そばにいて、一緒に泣き、肩を寄せ合っていることが精いっぱいでした。
毎日 命を削るようにして生きる日々の中、心に希望をともしてくれたことが二つあります。
一つは、池田先生からの励ましです。3月16日の聖教新聞1面に掲載されたメッセージに、
“心の財だけは絶対に壊されません”
との力強い激励の言葉がありました。この言葉に何度励まされたことか。
“先生の思いを伝えなくては”と思うと、体の疲れも忘れて、同志の元へと突き動かされるように走ることができました。
希望をもらったことの二つ目は、全国・全世界の同志からの支援、励ましです。
中でも、現地に入り込んで支援をしてくれた北海道をはじめ、学会青年部の姿には本当に勇気をもらいました。「皆さんのために何でもしますから」と言って、流された家の残骸をかき分けて、遺品を探してくれたり、泥まみれになって働いてくれました。
「慣れない土地でも、座談会に出るとほっとする」
震災から10年、岩手県では、かさ上げ工事や防潮堤の建設が進み、各地で住居や店舗などが建ち、新たな街ができてきています。
確かに復興は日に日に進んではいます。しかし、心の復興はそう簡単ではありません。
この10年、本当にいろいろなことがありました。
避難所から仮設住宅へ、仮設住宅から復興住宅へ、生活の変化もさまざまありました。
その中で生老病死の悩みも、当然起こります。極度の緊張感が続き、体調を崩したり、気持ちが折れてしまう人もいました。
そんな苦闘の日々を送ってくる中で「学会員でよかった」「信心していてよかった」との確信は、大きくなっていきました。
震災から数年がたったある日、新たに復興住宅が完成した地区で、他地域から引っ越ししてきた同志の歓迎会を行いました。
その地区内には、まだ仮設住宅での避難生活を強いられている方も多くいました。
自分も仮設住宅を出たいはずなのに、地区の同志は皆、復興住宅に入ることができた友のことを、まるで自分のことのように喜んでいました。
“学会は やっぱり温かいな”と思いました。
どこに行っても、温かく声を掛け合いながら、新しい出発を切ることができます。
皆が口をそろえて、「慣れない土地でも座談会に出るとほっとする。学会はどこに行っても良い人ばっかりだ」と言っていました。
避難生活を強いられ、新しい場所に移る先々で、励ましの絆が生まれ、蘇生のドラマが紡がれていきました。
心の復興のためには、寄り添い続けていくしかない
震災からの10年を話す上で、ある婦人部の方のお話をさせていただきたいと思います。
その方は 震災の津波で、娘さんと2人のお孫さんを亡くされました。
憔悴(しょうすい)しきった彼女を励ましたいと、家に招いて一緒にご飯を食べたり、何度も家を訪ねたりしました。
彼女の部屋では、いつもテレビが仏壇の方を向いていて、ずっと付けっぱなしになっていました。聞けば孫の好きだった番組を、見せているとのこと。
さらには朝昼晩の三食、娘と孫の三人分のお膳をこしらえて、仏前にお供えしていました。
月日が流れても、彼女の中で無念さが晴れることはありませんでした。
街のスーパーで子どもを見かけると、つらい気持ちで目をそらし、自宅で一人過ごしていると、「自分が代わりに犠牲になればよかった」と何度も自分を責め立てていました。
それでも、娘たちに回向の題目をあげ続ける中で、少しずつ、本当に少しずつ、前を向けるようになってきました。
震災から8年がたった頃、会合にも参加できるようになり、2人の友人が聖教新聞を購読し、感想を寄せてくれました。
「元気が出たよ 良い新聞だね」
その言葉を聞いた時、彼女の胸を覆っていた雲がようやく晴れたような気がしたそうです。
“自分も誰かに必要とされている”と思った時、彼女に笑顔が戻りました。
「私が強く生き抜くことで娘たちが生きた証しを示したい」と語り、今では生き生きと対話拡大に励むまでになりました。
ここまでくるのに、実に8年を越す月日が必要でした。
復興の過程はそれぞれであり、心を覆っている雲は見えづらいものです。一見明るく振る舞っていても、一人になると、落ち込んでしまったりすることもあります。
心の復興のためには、とにかく寄り添い続けていくしかない。そう決めて今も家庭訪問を続ける日々です。
“誓い”を胸に、この10年走り続けてきた
こうして私たちが、この10年を走り続けてこられたのは、池田先生との誓いがあったからです。それは 聖教新聞に当時連載していた小説『新・人間革命』「清新」の章で、岩手の水沢指導についてつづっていただいたのです。さらにそこでは、東日本大震災で奮闘する三陸の同志の様子をつづっていただきました。
この「清新」の章に描かれる水沢指導には、私も夫も参加し、池田先生と不滅の出会いの原点を築かせていただきました。
ここからは夫にバトンタッチします。
(以下証言:裕一さん)
私が池田先生と初めて出会いを刻んだのは、小説に描かれている昭和54年1月の水沢指導でした。
当時はまだ活動家になったばかりで、男子部の大ブロック長、今でいうと地区リーダーでした。
妻とは結婚が決まっており、その年の9月に入籍しました。しかし、その頃の私は、宿命の鉄鎖を断ち切れず、翻弄(ほんろう)される人生でした。幼くして父を亡くし、勤めていた建築会社では経営が傾き、望まない転勤を強いられる状況に。
さらに結婚後すぐに、母が他界しました。しかし、池田先生に三陸広布を誓った私は、信心で立ち上がりました。その頃から聖教新聞の配達を始め、学会活動にも真剣に取り組みました。
その後 勤めていた会社が倒産し、病魔にも襲われるなど、試練は続きましたが、一つ一つ信心で乗り越えて大手の企業にも就職を勝ち取ることができました。
今では4人の子どもたちが、しっかりと信心を継承し、笑顔の絶えない家庭を築くことができました。
最後の一人が立ち上がるまで、寄り添い、励まし続ける
新聞配達は、現在まで40年以上継続しています。さらに地域の役に立とうと、消防団に所属し、27年間続けてきました。震災当時も、消防団員として動きました。
がれきにふさがれた道路を迂回(うかい)し、救援物資を担いで山道を何往復もしました。
重労働で体にはこたえましたが、困窮する地域の方々のために、2カ月ほど、連日走り続けました。
こうして全てを勝ち越え、人のため、広布のために尽くせる境涯を開くことができました。
震災と戦ってくる中で、師弟の絆をより強くすることができたと思っています。
未曽有の災害の中で、私たち三陸の同志が心に持っていたもの。激しい揺れでも大津波でも壊すことができなかった私たちの“心の財”――。
それは他でもなく池田先生との「師弟の絆」でした。
「清新」の章では東日本大震災のことをつづってくださいました。
私たち夫婦は、この「清新」の章を何度も読み返しては、水沢指導の原点を思い出し、また震災の当時のことを思い出しながら、
“一人でも多くの友に会っていこう”
“最後の一人が立ち上がるまで、信心してよかったと思えるまで寄り添い、励ましを広げていこう”
と決意を新たにしています。
これからも「清新」の章という、東北と池田先生の師弟の原点を胸に刻み、自分たちにできることを精いっぱいやっていく決意です。
本日は大変にありがとうございました。
この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています
●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する
●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。
●目標11. 住み続けられるまちづくりを
都市と人間の居住地を包摂的、安全、強靭かつ持続可能にする
●ターゲット11.5
2030年までに、貧困層及び脆弱な立場にある人々の保護に焦点をあてながら、水関連災害などの災害による死者や被災者数を大幅に削減し、世界の国内総生産比で直接的経済損失を大幅に減らす。