【震災証言】「最後の一人」が福光の笑顔輝くその日まで――東日本大震災から10年

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東日本大震災そして福島原子力発電所の事故より10年。
帰還困難区域の一部解除、常磐自動車道、JR常磐線、相馬福島道路の全線開通など、福島の復興は徐々に進んでいます。
一方で、いまだ自由に行き来できない地域も残されており、現在も避難生活を強いられている福島県民はおよそ3万5千人。<※福島県災害対策本部による被害状況即報より(2021年7月)>
さらに風評被害や進まぬ廃炉の問題など、さまざまな課題が今なお続いています。

証言会では、広島幸雄さん・芳さん夫妻が登壇。福島第一原発からわずか6kmの大熊町の自宅から、中通り、会津地域へと避難し、現在は郡山市で暮らしています。

夫妻は、愛する故郷を離れざるを得なかった悔しさや不安と格闘しつつ、地域の学会のリーダーとして、友の激励に奔走。 最後の一人が、福光の笑顔を輝かせる日まで、励ましの日々を生き抜くとの誓いを語っています。

※本記事は、2021年5月30日に開催された創価学会東北青年部主催のオンライン証言会の映像内容を記事にしたものです。

「1日か2日で帰れるだろう」着の身着のまま、トラックに乗り込んだ

(以下証言:芳さん)
私たち夫婦が住んでいた福島県双葉郡大熊町で、東京電力福島第一原子力発電所の運転が開始されたのは、高度経済成長の真っただ中の1971年(昭和46年)ちょうど50年前のこと。

大熊町には1号機から4号機が、隣の双葉町には5・6号機があります。
かつて「陸の孤島」と言われた双葉地域は、この一大発電基地の完成を機に一変しました。

農家の長男として生まれ育った夫のもとに、私が嫁いだのは、まさに原発の建設期、夫婦で町が様変わりしていく様子を目の当たりにしてきました。
地域住民を対象にして、原発の見学会もありました。

太い鉄筋や厚いコンクリートで、覆われた発電所は「絶対に大丈夫」との説明を受けていました。誰もがその安全神話を信じて疑わなかったのです。
まさか数十年後、全町民1万1500人が、避難を余儀なくされる事態に遭うなど、想像もしていませんでした。

2011年3月11日、今までに経験したことのない揺れに襲われました。
情報を得ようとしても、停電のため テレビも電話も通じず、状況が全く分かりません。余震も続いていました。

明けて12日の早朝、町内の防災無線で突然、避難を指示する放送が流れました。
朝食も取らず、着の身着のままで近くの避難所に行くと、「原発が地震で危ないらしい」「これからバスで中通り方面に行くらしい」などの話を耳にしました。

それでも はっきりした情報はなく、1日か2日で帰れるだろうと軽い気持ちでいたのです。その後、待てども待てども、私たちの乗るバスは来ません。

ようやく昼過ぎになって、自衛隊員輸送用の幌(ほろ)付きトラックが到着。
隣組の人、近所に住んでいた娘家族と乗車し、中通りに通じる国道288号線に向かいました。

しかし、ものすごい渋滞で、普段は40分ぐらいのところを約5時間かかり、辺りが暗くなったころ、田村市にたどり着きました。
そこの公民館のテレビで、初めて原発の爆発を知ったのです。その後、隣町にある私の実家へ避難したものの、不安と焦りでいっぱいでした。

遠く離れた土地で「あなたは宝の人です」との言葉を胸に

そうした中、避難している同志の訪問・激励に歩き始めました。同志の方が車を出してくれ、避難所となった学校や体育館を軒並み回りました。誰がどこにいるのか、全く当てがありません。

3月とはいえ、雪が舞っていました。身も心も震えるような避難所ばかりでしたが、次々と同志が見つかりました。駆け寄りながら名前を呼ぶと、返事よりも先に抱き合いました。
あとは言葉になりません。何十年ぶりに会う家族のようでした。

4月になり、大熊町は町役場も避難所も約100km離れた会津若松市に移動することに。ほとんど雪が降らない浜通りから、豪雪地帯の会津へ。道路脇に山のように積まれた雪を見た時には、不安が一層募りました。
原発から6kmの地にあった自宅への帰還は絶望的であることが徐々に分かってきました。

小さな町営住宅から始まったわが家は、結婚して10年で家を新築。聖教新聞を37年間配達し、同志と共に広布に走ったかけがえのない町です。

そこから何も持たずに遠く離れた土地へ行かざるを得ない悔しさと不安を胸に押し込め、避難した同志を訪ねては励まし合いました。

震災から1カ月後の4月10日。福島文化会館で(県内外避難者の)「復興祈念フェニックス勤行会」が行われました。会場で配られた聖教新聞が忘れられません。

手にした瞬間、福島の五色沼(ごしきぬま)の写真が、目に飛び込んできました。そして、その横に大きな字で「あなたは宝の人です」と。

バッグ一つしか持たず、何もない私に池田先生は、涙があふれて仕方ありませんでした。
もうその一言で充分でした。〝何がなくても私には学会がある 先生がいる〟と。心の底から勇気が湧きました。

翌月から、避難した同志と会津若松文化会館で、毎週「フェニックス唱題会」を開催。
会津の同志の真心に支えられ、多くの友が参加しました。しかし、時が経つにつれ、原発災害に立ち向かう大変さが分かってきました。

ここからは夫にバトンタッチします。

3カ月ぶりの故郷「戻れない現実」。それぞれが迫られる選択

(以下証言:幸雄さん)
会津若松市のアパートに避難していた2011年6月。放射能の影響で警戒区域後に、帰還困難区域に指定された自宅に、一時帰宅をした時のことです。

自宅に入れるのは一軒につき二人。持ち出せるものは一人ゴミ袋一つまでと制限されました。防護服を着て、3カ月ぶりに足を踏み入れたふるさとは、まるで違っていました。

つながれたままの家畜は餓死し、放たれた牛や豚の群れが、街の中を闊歩(かっぽ)しています。どこか知らない国に連れてこられたような感覚でした。

わが家にもイノシシに入られ、台所は足の踏み場もないほど無残に。家族の思い出が詰まったわが家です。なんとも複雑な気持ちでした。

家はあるのに帰りたいのに帰れない。その後も半年に一度ほど一時帰宅をしてきましたが、そのたびに 「戻れない現実」を突きつけられるようでした。

「3・11」から一斉に始まった避難生活も、半年になるころには、それぞれが選択を迫られました。避難所から出るか、完成した仮設住宅に住むか、避難先に残るのか、浜通りに戻るのか。

そして、放射能による風評被害や補償問題などで、避難者に対する心ない偏見があらわになってきたのも、この頃だったように思います。

その地で根を張り、自分らしく頑張る――「宿命」を「使命」に変える時は今

「被災」の形が現在進行形で変わり、事態の深刻さを増していく。地震・津波に加え、原子力災害の厳しさを実感しました。
これから先、どう生きていけばよいのか。

そんな一番苦しい時に、池田先生が執筆してくださったのが、小説『新・人間革命』「福光」の章です。

「踏まれても、踏まれても、われらは負けない。
どんなに、どんなに、激しい試練に
打ちのめされても頭(こうべ)を上げて、
われらは進む。 前へ、前へ、ただただ前へ!」

聖教新聞に掲載される指導が、どれほど大きな心の支えになったか分かりません。
だからこそ、腹が決まりました。行った先々の地で根を張り、自分らしく頑張ることが、ふるさとの福運につながっていくと。
「宿命」を「使命」に、「悲哀」を「勇気」に変える時は、今をおいてないと、前を向くことができたのです。

「冬の厳しさを味わったから、春の訪れの温かさを知ることができた」 新天地で結んだ励ましの絆

ここで 住み慣れた浜通りにはなじみのない豪雪地帯である喜多方市に避難した壮年部員の体験を、紹介したいと思います。

生活環境もさることながら、壮年の一番の不安は介護施設に入所していた義父母でした。
避難場所を転々とする生活は、体力的に難しいと判断し、苦労して探した末、義父母が入れる介護施設を喜多方市に見つけました。

壮年夫婦も市内で7カ所、避難先を変えざるを得ませんでした。施設に入ったものの頻繁に、「大熊に帰りたい」とこぼす義父母に、作り笑顔で、「大丈夫、あと少しだ」と、なだめながらその壮年も、心で泣いていたそうです。

義父母の容体は次第に悪化。勝手に施設を抜け出し、探し歩いたことも。加えて二人の面倒を見ていた妻も、体調を崩します。発作を起こして2度、緊急搬送された末に判明した病名は「冠(かん)れん縮性狭心症」。

避難と親の介護で夫婦共に心身はぼろぼろでした。どこに向かうべきか見えなくなる中、光を照らしてくれたのは、同志の激励でした。私も足を運ばせてもらい話を聞き、力の限り励ましました。

自身の信心を見つめ直すように、題目を唱えた壮年は、喜多方の同志の輪の中に飛び込みます。

時には「雪かきのやり方を教えてくれ」と、駐車場の除雪も買って出るように。避難先で訪問・激励に率先する中、喜びを分かち合える友が一人また一人と増えていきました。

さらに震災前、大熊で続けていた聖教配達員にも志願。「3・11」で一度は途絶えた〝無冠の使命〟(聖教新聞の配達)に携わる感謝が湧き、購読者と顔を合わせると、短くても会話が生まれ、相手と心を通わせられる大切な時間ができました。
未明の配達中、雪が降りしきる中でもわざわざ顔を出し、声を掛けてくれる友もいるそうです。

そうした新天地で結ぶ励ましの絆を、負けない力に変え、その壮年は喜多方の地に新居を建て、現在は広布の会場ともなっています。

奥さんも健康を取り戻し、地区女性部長として奮闘。日々、同志の激励に駆ける彼は語っています。
「冬の厳しさを味わったから、春の訪れの温かさを知ることができました」と。

皆と希望を分かち合いたいと進んできた10年間

私自身も、原発事故でバラバラになった人と人とを結ぶ挑戦を続けてきました。その一つが地域活動です。

私は 地元の農業高校の実習教諭を定年退職した後、ふるさとのために貢献したいと老人クラブの活動を始めました。昨年まで、大熊町老人クラブ連合会会長を2期4年務めました。

原発事故で、長らく活動は休止していましたが、町からの要請を受け、老人クラブの活動を再開。暑中見舞いや連合会通信で、町民と連絡を取り合い、年に数回イベントを開催してきました。

今はコロナ禍で、思うように集まることはできませんが、それでもとにかく、皆と希望を分かち合いたいと進んできた10年間だったように思います。

その日々を経る中で、実感することは、自分らしく今を精いっぱい生きることは、現在や未来だけではなく、これまでに積んできた「心の財(たから)」をも輝かせていくことができるということ、ふるさとで縁した友との絆は、以前よりも強く深くなっています。

現在、隣には「ずっと一緒に住めることを祈っていたよ」と、語ってくれる娘家族が仲良く暮らしております。感謝でいっぱいです。

二つの時間と向き合ってきた――「最後の一人」が福光の笑顔輝くその日まで

さらに復興を祈念し、郡山中央文化会館で、毎月11日を基本に(避難者が集まる)「うつくしまフェニックスグループの集い」を行い、皆で活動体験を語り合いながら、前進しています。

同志とは本当に不思議な存在です。お互いに顔を見ただけで、心の底からうれしさが込み上げてきます。この創価家族の温かさを、何よりも実感したのが、先日10年ぶりに富岡町で開催された双葉郡を擁する新世紀圏の家族総会です。会場は双葉会館です。

10年前、再びこの会館に皆で集えるなんて、想像もできませんでした。当日の会合で、中心者の一人の女性部リーダーが、述懐していました。

震災から数カ月ほどがたった日、現状確認のため、双葉会館に入館した時のこと。地震の影響で大広間にあった二つの掛け時計のうちの一つは、「14時46分」を指したまま。

しかし もう一つの時計は、着々と時を刻んでいたそうです。「『3・11で時間が止まっている自分』と『今を生きなければいけない自分』この二つの時間と向き合ってきました」と。

その通りだと思いました。帰還した人、新天地で生きると決めた人、思索中の人、心の復興はいまだ道半ばです。だからこそ、励ましがより一層求められていると実感します。

「最後の一人」が福光の笑顔輝くその日まで、生涯、私たち夫婦も、力の限り走り抜いていく覚悟です。本日は、大変にありがとうございました。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。

●目標11. 住み続けられるまちづくりを
都市と人間の居住地を包摂的、安全、強靭かつ持続可能にする

●ターゲット11.5
2030年までに、貧困層及び脆弱な立場にある人々の保護に焦点をあてながら、水関連災害などの災害による死者や被災者数を大幅に削減し、世界の国内総生産比で直接的経済損失を大幅に減らす。