【戦争証言】「父と駆け抜けた沖縄戦」

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※戦争の実態を伝えるため、動画の中で遺体の写真が映ります

那覇市出身・在住の糸数武(いとかず・たけし)さん(88歳)が、沖縄戦を生き延びた体験を語ってくれました。日米両軍と民間人の死者は20万人以上に上り、当時の県民の4人に1人が亡くなりました。

壕から壕へと避難生活を強いられた日々。激戦の最中での父、母それぞれとの別れ――。糸数さんは、悲しみを乗り越え、自らの使命として悲惨な戦争の記憶を語ってきた思いを述べています。

※本記事は、2021年6月23日に開催された創価学会青年部主催の「戦争・被爆証言会」の映像内容を記事にしたものです。

厳しい父と映画好きの母

私は、1933年に那覇市で生まれました。父は海軍の軍人でしたので、厳格に育てられました。叱られる時は決まって殴られ、褒める時には徹底して褒めてくれました。

母は大の映画好きでした。当時の映画館では、映画の前に軍事ニュースが流れており、日本軍の勝利の様子が紹介されると、観客は大拍手で喜んでいました。

このように軍部は、軍国主義教育を国民の生活に浸透させていました。

1944年、私が5年生になった2月ごろから、本土への学童疎開が始まりました。

父は、私と母を鹿児島へ疎開させようとしましたが、たとえ、どんな危険な目にあっても、「家族は一緒にいた方がいい」との母の猛反対で、私たち家族は沖縄残留組になりました。

激しくなる戦況下で

その年の10月10日、空は雲一つない青空で私は友達と遊んでいました。 10時ごろに、飛行機の爆音が聞こえてきたので、木によじ登ってその様子を見ていました。

友軍による飛行訓練と思っていたのですが、突然、飛行機から機銃掃射(きじゅうそうしゃ)の白煙が見え、急降下しながら爆撃を始めたのです。

すると、けたたましくサイレンが鳴り響き、「敵機来襲! 敵機来襲!」と甲高い声が上がりました。

沖縄県公文書館所蔵

私たちは慌てて木から下りて、一目散に家に戻りました。家に着くと、防空頭巾をかぶるのもままならないまま、両親と一緒に一家の防空壕(ごう)に飛び込みました。

沖縄県公文書館所蔵

日頃教わった通りに、親指を耳の穴に入れ、残りの指で目を覆いました。

どれくらい時間がたったでしょうか。夕方には空爆が止んだので、恐る恐る壕から這い出てモグラのように、穴から顔を出していました。

那覇の街は燃えていて、まだ危険な状態なので、日が暮れてから、避難のために移動しました。ところが、どこも避難民でごった返しで、休める所など、なかなかなかったので、また家へ戻りました。

壕から壕へ、逃げ続ける日々

1945年3月23日のことです。兵隊が来て、「敵の艦船が艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を開始した」「ここにいては危険だから、どこか大きな壕へ避難した方がいい」と言うのです。

沖縄県公文書館所蔵

父も海軍の経験から、“ここにいては危ない”と判断し、逃げることになりました。私たち家族は、家の近くの壕に入りました。

しかし、1週間くらいたった頃、兵隊から「こっちは軍が作った壕だから、出て行ってくれ」と言われました。民間人の私たちは、日本兵に意見を言うことは一切許されないので、仕方なく別の壕に移動すると、そこにはすでに3世帯12人の方が避難していました。

両親が頼み込んで、やっとの思いで、その壕に入れてもらうことができました。その方々は、おなかをすかせていた私たち家族に、ご飯やお茶を分けてくれました。本当にありがたいことでした。

だんだんと戦況が激しくなり、米軍の艦砲射撃で草木はほとんど吹き飛ばされ、灰色の地肌がむき出しになっていました。

沖縄県公文書館所蔵

遠くの丘が、総攻撃で半分なくなるのを目撃し、子どもながらに、これは大変な状況になっていると思いました。

母との別れ――離れ離れになった家族

小銃弾が飛んでくるようになり、父はその音を敏感に察知して、「米軍がすぐ近くまで迫っている」と皆に伝えました。

“米軍の捕虜になるよりも、逃げた方がいい”という結論が出て、全員で逃げることになりました。ところが、出発間際に父のおなかの具合が悪くなってしまいました。

母と私は 「父の具合が良くなるまで待つ」と言ったのですが、「皆さんの迷惑になるから」と聞きません。

押し問答の末、母は壕の仲間の後を追うことになり、それが母との別れとなりました。私は“どちらと一緒に行くか”迷いましたが、具合の悪い父を1人にできずに残りました。

30分ほどして、父と2人で、母とみんなの後を追って歩き出しましたが、なかなか追い付くことができません。

周りでは、離れ離れになった家族を探して、たくさんの人が、大声で名前を呼んでいました。

私も「お母さん、お母さん」と叫びました。父も「糸数悦子(えつこ)」と、母の名前を大きな声で叫びました。

ところが、「そんな大声で呼ぶな。急いで逃げろ」と、兵隊に怒鳴られ、諦めるしかありませんでした。

母はどこへ行ったのか—
母とはそれっきり、会うことができませんでした。

あまりに残酷な、戦争の真実

逃げるといっても、はっきりした目的地があるわけではなく、とにかく南へ、グループになって、みんなが逃げる所について行くんです。

沖縄県公文書館所蔵

食料がないので、芋を手で掘って食べたり、葉っぱも我慢して食べました。

夜に水をくみに行って、飲んで、明るくなって見ると、そこにはたくさんの人が死んでいたということもありました。

沖縄県公文書館所蔵

道端で亡くなっている人たちも、たくさん見ました。人間が死んでガスが発生すると、体が子牛くらいに大きくなります。想像できますか?

間違ってそこを踏んでしまうと、そこの皮がぺろっとむけて、そして 死んだ人の臭(にお)いが体について落ちないんです。

私はとにかく、“生きながらえるにはどうするか”ということしか、頭にありませんでした。それしか考えることが、できなかったのです。

その頃に、私も至近弾(近くに落ちた爆弾)をくらいました。しばらくしてから、痛みがきました。

弾はお尻から入って、太ももの内側を抜けていました。

父はすぐに、応急処置をしてくれました。足が痛いので、びっこを引く(片足をひきずる)ような感じでしたが、後遺症もなく歩けました。

逃げ込んだ壕で、「5分以内に立ち退かないと殺す」と言って、銃口を向ける日本兵がいました。

子ども心に、“兵隊なのに、なぜ誰も守らないんだ”と憤りました。

戦闘の真っ只中にいて、砲弾にやられるか、友軍にやられるか—
“戦争はこんなものなのか”と、冷静に見ていました。

父と最後に見た星空

6月中旬ごろには、沖縄の南に位置する糸満(いとまん)市・真壁(まかべ)まで来ていました。一段と激しい艦砲射撃が、この一帯を襲っていました。

壕の中にいても、耳をつんざくような爆音が響いていました。

沖縄県公文書館所蔵

艦砲の攻撃がゆるくなった時に、「腕をけがした人がいるので、手当てをしてくる」と、父は私の救急袋を持って、飛び出していきました。

すると10分後に、再び激しい艦砲射撃がありました。

次の日の朝、「お父さんはあっちにいるけど、返事をしなかったよ」と、同じ穴に隠れていた人たちが言いました。

その場所に行くと、石垣にもたれ掛かった父がいました。「お父さん、お父さん」と呼び掛けても、揺すっても返事はありません。

体が冷たくなっており、父が亡くなったんだと分かりました。みんなの所に戻って、壕の中で大きな声で泣きました。

悲しさと不安で、涙が止まりませんでした。母とは別れたきりです。父にしがみついて、戦場をここまで生きてきたのです。

一人ぼっちになった私を、壕の中の人たちが精いっぱい励ましてくれました。

不思議と、父の亡くなった次の日から艦砲が飛んでくることはありませんでした。その日は朝から晴天で、太陽がとてもまぶしく感じられました。

父が死ぬ前夜のことを、今でも思い出します。艦砲射撃が止んだのを見計らって、父と壕の裏側の小高い土手に腰を下ろして、2人で天を見上げました。

それは久しぶりに見る星空でした。

父はゆっくりと話しました。

「武、今からお父さんが言うことを、しっかり聞いておきなさい。もし、戦争が負けて、米軍の捕虜になった場合、大人は殺すかもしれないけど、子どもは殺さないと思う。それでも苦しい責めにあったら、一番簡単で苦しまずに死ぬ方法を、教えておく。眠るように死ねるから」と。

私はうなずきました。そして、父は私を抱きしめてくれたのです。

避難が始まってから、それまでにないことでした。

捕虜となってからの日々

その後、民間人収容所へ送られました。6月21日のことでした。収容所で偶然再会した近所の人が、育ての親になってくれました。

沖縄県公文書館所蔵

育ての親は、私を高校まで通わせてくれました。実の親を失った境遇を、嘆くこともないほど、愛情いっぱいに育ててくれたのです。

しかし、父を弔(とむら)うこともできずに、収容されたことが心の奥でうずいており、戦後3年目に、父と最後にした場所を訪ねるも、遺体はあるはずもなく、生き別れた母も、ついに見つかることはありませんでした。

「あなたが生きて、供養してあげなさい」 かつて戦場で掛けられた言葉が、思い出されましたが、どうすれば父と母は報われるのか分かりませんでした。

悲しみを越え、体験を語る使命に

昭和37年9月、学会に巡りあい入会しました。そして 私の心の扉を開いてくれたのが、池田先生だったのです。

当時31歳、入会して2年後の私は、沖縄を訪問されていた池田先生と男子部の代表の懇談会に参加をする機会がありました。

「お父さんとお母さんは?」と、先生から尋ねられ、私は言葉をつまらせながらも、「両親は戦争で亡くなりました」と申し上げました。

先生は私の目を見つめながら、「そうか」と深くうなずかれ、こう言われたのです。「この信心をすれば、間違いなく幸せになれる。心配しなくていい。あなたが信心をすることで、亡くなったご家族の供養にも、つながっていくんだよ」と。

そして、「何か書きとどめるものがあるかい」と尋ねられ、御書しか持っていなかったものですから、私は、御書を差し出しました。

すると先生は戸田先生(第2代会長)の歌を、書き記してくださいました。

「辛(つら)くとも 嘆くな友よ 明日の日に 広宣流布の 楽土をぞ見ん」

池田先生との出会いから、本当の意味で、私の戦後が始まったと感じました。

戦争は私の心から一生消えません。

“ならば悲しみを越えた先に、この体験を、限られた人生の間に、使命に変えたい”と思い、戦争の記憶を語り始めました。

今の日本でも虐待や誘拐など、人を傷つける事件が起きます。過去の戦争も、生命を脅(おびや)かすという点で、本質は同じだと思います。

子どもたちが、他人の痛みを想像できるようになるために、私は体験を語り続けてきました。 沖縄、日本、世界のため、これからも語り続けていく決意です。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。