【被爆証言】「平和の心をアートで」(広島)

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広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日、当時7歳だった深田利幸(ふかだ・としゆき)さん(83歳)は、爆心地から2・5キロで被爆。

深田さんは体中に深い傷を負い、1カ月後には幼い弟を亡くしました。戦後の混乱の中、両親、兄妹と共に生き抜いてきた日々を語ってくれました。
そして、自身の体験を通し、戦争の悲惨さだけではなく、人間の“生命の強さ”を知り、学び、平和な世界を築いてほしいと呼びかけています。

※本記事は、2021年7月18日に開催された創価学会青年部主催の「戦争・被爆証言会(広島)」の映像内容を記事にしたものです。

家族で行った原爆ドーム

私は現在83歳です。56年続くデザイン会社の代表を務め、作品を描き続けてきました。一つ一つ勉強して、失敗を繰り返しながら、道を切り開いてきました。
おかげさまで、たくさんの作品を世に出しております。

本日は、私が描いた絵を交えながら、被爆の体験をお話させていただきます。

今から76年前の1945年、私は国民学校の2年生でした。
両親と祖父・兄・妹・弟の7人暮らしで、戦争中の記憶に残っているのは、家族で人力車に乗って、広島県産業奨励館に行ったことです。

産業奨励館は原爆投下後、形だけが残りました。
そうです、皆さんもよくご存知の原爆ドームのことです。

当時、この建物は広島では珍しいヨーロッパ風の建物で、ドームの屋根には、エメラルドグリーンで、ハイカラに感じました。

建物に入ると広い吹き抜けで、らせん階段があり、産業奨励館には、墜落したアメリカのB24爆撃機の遺品の展示がしてありました。

印象に残ったのは、釣り竿に付いた「リール」ですね。それは日本にはない釣り竿でした。

道の真ん中を歩けば、戦闘機に撃たれる

1945年ごろになると、広島の上空を飛ぶのはアメリカの飛行機ばかりで、道路の真ん中を歩いていると、戦闘機に撃たれるので、家々の軒下をくぐりながら学校に通いました。

空襲警報が鳴るとすぐに、防空壕(ごう)に入らないといけません。いつでも逃げられるようにと、食事は短い時間で食べました。

わが家は大家族でしたので、食事は米がお湯に浮かんでいるような、おかゆとか芋だけで、いつもおなかがすいていました。

当時、7月ごろになると空襲が激しくなり、国民学校の2年生以下は、自宅の近所のお寺が学校の代わりになりました。

一瞬で無くなった日常の風景

8月6日の朝7時ごろに、空襲警報が発令されて、8時ごろ空襲警報が解除になりました。そうすると、ラッシュ時間帯になり、私は誰よりも早くお寺に行って、掃除をしてみんなが登校してくるのを、待っていました。

教室の窓から外を眺めていると、青空が広がったすがすがしい朝で、スズメが木の枝に止まって、何かおしゃべりをしていました。

作者・提供:深田利幸(以下同)
作者・提供:深田利幸(以下同)

その時です。ピカッと鋭い光線が目に入ってきて、ズドーンと地響きがして、“真っ暗になったかな”と思うと、体が吹き飛び、気が付くと崩れた屋根の下敷きになっていました。

突然のことで何が起きたのか、さっぱり分かりません。

気が付いて上を見ると、隙間があったので、瓦をのけて屋根から顔を出すと、ブワッと埃 (ほこり)が舞いました。

よく見ると、朝あったはずの風景はなく、たくさんの家がなくなっていました。一面が、がれきになり、道路も見えず、今まで自分が見たこともない世界が広がっていました。

今も残る傷跡、幼い弟の死

はだしのまま、死に物狂いで寺から自宅まで帰る途中、牛舎の牛が血を吐いて死んでいました。牛を引いていたおじさんも、大けがをしてうずくまっていました。

後は何を見たのか、よく覚えておりません。家に帰って、近くの防空壕に、母と弟と妹と一緒に避難しました。

私はガラスの破片で傷だらけで、額(ひたい)と顎(あご)が切れ、骨は見えるほど。指は、ちぎれかけていました。肩や腕も大けがをしています。

母は、私を見てびっくりです。朝、真っ白いシャツを着て出掛けたのに、血で真っ赤に染まっていたからです。

今も額とか目の縁に傷跡が残っています。すぐに縫うことができなかったので、ザクロのように裂けたままで、肉が盛り上がっております。

その後、学徒動員から帰ってきた兄は、灰まみれで、左半分の顔と左手にひどいやけどをしており、皮膚が垂れ下がって「熱い 熱い」と言っていました。

1日たつと、傷口が化膿(かのう)し、ウジが湧きました。父が兄の顔に湧いたウジを取って、竹べらで膿(うみ)を剥ぎ取る時に、兄は泣いていました。

それから油を塗って、ハエが来ないように油紙を貼って、それが治療です。当時、3歳の弟と6歳の妹が、家の中で被爆をしました。

弟は1カ月ほどして、突然青ざめ、血を吐いて死にました。放射能の影響だと思います。

あの日、原爆が落ちた後には、爆風でたくさんの埃が空に舞い上がり、巨大なきのこ雲が出来上がり、それから少しして、夕立のような大きな大粒の「黒い雨」が降ってきました。

死体を見ても無関心に

私の父は、爆心地から3キロ離れた広島陸軍糧秣支廠(りょうまつししょう)に勤めていました。糧秣支廠(りょうまつししょう)とは、兵隊の食料とか缶詰、軍馬の飼料などを作る軍事工場です。

父が無事だったことで、その後の私たちの生活も守られましたが、戦後は食べる物がほとんどなく、母と私と妹の3人で焼け跡に行って、生えてきたヨモギの草とか雑草などを、むしって酢漬けにしました。
それを食べたり、カエルを捕まえて食べたりしました。

道を歩いていると、死体が転がっていて、初めはショックでしたが、だんだんと無関心になっていきました。

記憶に残っているのは臭(にお)いです。死体が腐った臭いと、死体を焼く臭いです。 夕方になると、近くの河原で死体を焼いていました。木を積み重ねて焼くのですが、なかなか焼けません。

焼いていたら、何の拍子か、死体がピクンと動くんです。“まだこれは生きている人を、焼いていたんじゃないか”と思ったこともありました。

終戦後の生活

終戦当時は、アメリカ兵が上陸してきたら、連行されるというデマが流れていたので、ある日、公園の木陰から、妹とこっそり様子を見ていました。

宇品(うじな)港(現・広島港)から、馬車に乗ってやってきたアメリカの水兵たちは、何やら楽しそうに話していました。彼らは足長でスタイルが良く、“紺色の水兵服も格好いいな”と見ていました。

それから何日かたって、ジープに乗ったアメリカ兵たちが、道端でお菓子を配るようになり、子どもたちが「ギブミーキャンデー、チョコレート」とか言って、ジープに群がってきました。

“おいしそうだな”と思いましたが、私は内向的な性格だったので、お菓子をもらいには行きませんでした。

終戦後、学校が始まりました。学校といっても、運動場に椅子と壊れた机などを、並べただけの青空教室です。

雨が降ると、テントを張っても雨が降り込んできて、更紙(ざらし)のような教科書が、ぬれて溶けてしまいます。

冬になると建物に入りましたが、窓ガラスがないので廊下に雪が積もり、休み時間には、廊下で滑ったりして遊んでいました。

教室には、もちろんストーブがないので、授業中は、ひたすら寒さを我慢していました。

デザイナーとして、語り部として平和を訴える

その後、広島工業高校に進学し、在学中に交通安全とか職場安全のポスターが、入選したこともあり、“デザインの仕事をしたいな”と思いました。

地元の印刷会社のデザイン室に、見習いとして就職することができました。27歳で結婚し、 仕事も独立して自分の作品を持って、飛び込みで営業をして、仕事を受注していました。

デザインが良くて、商品が売れれば、次の仕事が来ますが、商品が売れないと、二度と声が掛からない厳しい世界でした。

そんな生活が続いた1972年12月に創価学会に入会しました。

仏法には、「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如く」とあります。

学会員の中には、豊かな心で、輝かしい人生をデザインされている方々が、いっぱいおられます。苦労の色を知れば知るほど、奥深く味わいのある人生の絵巻が、織りなされていくと感じます。

孫が小学生だった頃、「うちのおじいちゃんは被爆者じゃけえ」と、学校で話したのがきっかけで、小学校で被爆体験を話す機会を頂きました。

その頃から今まで話したことを絵にしたり、核廃絶のポスターを作ったりしてきました。これまで、長い人生を歩んできましたが、何より胸を熱くしたのは、平和闘争を貫(つらぬ)かれる池田先生の姿そのものです。

師匠の平和闘争に続こうと、展示会など、自分の作品を通して平和の心をアートで訴えてきました。

もう二度と、ヒバクシャを生み出さない世界を

昔と違って今は、恵まれた環境がそろっていることもあり、平和の素晴らしさを感じにくい時代となっています。

しかし、世界では、今も紛争やにらみ合いが続き、中東のガザ地区の空爆などで、崩れた建物の下には、“どれほどの悲しい涙と絶望があるのだろうか”と、そう考えると胸が熱くなります。

今日、私が伝えたいのは戦争の悲惨さだけではありません。
絶望の中に希望を見いだし、たくましく生き抜いてきた人たちが、たくさんいることを知ってほしい。

そんな人間の「生きる強さ」「生命の強さ」を知り、今、皆さんが生きる意味を、生命を考えるきっかけにしてほしいのです。

人間は弱い生き物です。支え合わないと生きていけません。自分の心を磨き、相手の心に寄り添う気持ちが大切です。

“皆さんには、豊かな心を育んでいただきたい”と思います。もう二度と、ヒバクシャを生み出さない世界を、皆さんの手で必ず築いてください。

私も池田先生の弟子として、生涯青春の心で仕事をし、人生を終える最後まで、自身の使命を全(まっと)うします。

本日は私の話を聞いていただき、本当にありがとうございました。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。