【被爆証言】父娘でつなぐ長崎の心

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1945年8月9日、広島への投下からわずか3日後、長崎に第2の原爆が投下されました。当時10歳だった木村光盛(きむら・みつもり)さん(86歳)は、爆心地から1.3キロの自宅で被爆。
妹は投下時に、弟と母は被爆の影響で亡くなりました。光盛さん自身も長らく貧血などの症状に悩まされました。

娘の木村靖子(きむら・やすこ)さんは、10歳の時に父・光盛さんから被爆体験を聞き、被爆二世として、学生時代から平和活動に取り組んできました。

日本の平和、世界の平和を守っていく一人として、親子で語り継いでいく思いを語ってくれました。

※本記事は、2021年8月8日に開催された創価学会青年部主催の「戦争・被爆証言会(長崎)」の映像内容を記事にしたものです。

一家で営む食堂 町内の子どもたちが集まる場所

(以下証言、光盛さん)
1945年、私は山里国民学校の4年生で10歳、両親と9歳、8歳の2人の妹、2歳と1歳の弟の7人家族で暮らしていました。

私の父は1937年に出兵しましたが、けがで5年後に復員。その後、一家で食堂を営んでいました。

わが家は爆心地から1.3キロの長崎市家野町に位置し、すぐ近くには兵器工場がありました。

あの当時は、毎日のように警戒警報のサイレンが鳴っており、4年生の4月から、警戒警報が鳴ったら、学校からすぐに帰ったり、学校は休みになったりしました。

1945年8月は今と同じく夏休み。うちの食堂が広かったので、町内の小学生は、わが家に集まって、勉強するようになっていました。

8日の夕刻、空襲警報が鳴り、近所の人と一緒に、町内の防空壕(ごう)に避難。9日朝には、警戒警報に変わったので、みんなで自宅に帰りました。

その日も、いつものように、うちの食堂に小学生が集まり、私と2歳下の妹も、一緒に勉強をしていました。
2歳の弟は、テーブルの下で遊んでいたと記憶しています。 母と一緒に、1歳の弟を背負った年子(としご)の妹は食堂の厨房で、昼ご飯の準備をしていました。父も仕事を終え、ちょうど帰ってきたところでした。

すさまじい轟音、がれきの下敷きに

そして11時2分、ドカーンとすさまじい轟音(ごうおん)が鳴り響き、建物は激しく揺れました。私は“自分の家に大きな爆弾が落ちた”と思い、すぐに母がいる厨房へ走って逃げる途中、家の裏から青い光が入ってくるのが見えました。

長崎原爆資料館 所蔵
長崎原爆資料館 所蔵

これが原子爆弾だということは、後なって知りました。

その後、家は崩れ、気が付くと私は倒れた家の下敷きになっていました。

私は父の大きな四角い下駄(げた)を履いていたことが幸いし、それが偶然立って柱を支え、厨房の崩れたわずかな空間にいました。

“自分の家だけに爆弾が落ちた”と思っていた私は、外に向かって「助けてくれー、助けてくれー」と叫んでいました。

ほどなくして母ががれきを押しのけてくれ、9歳の妹と1歳の弟と一緒に、4人で外に出ました。

幸いにも4人ともけがはありませんでした。外の光景を目にした私は、茫然(ぼうぜん)となりました。

わが家の周りのほとんどの建物が崩れています。爆心地付近は火の海になっており、多くの人が逃げてきていました。 炎が渦を巻いているように、舞い上がり、言葉を失いました。

悲惨な現実、まひする感覚

戦時中は、兵器工場で働かされていた中学生や高校生たちは、目立たないようにいつも黒い服を着せられていたので、原爆の熱線を吸収し、皮膚は焼けただれ、髪の毛が縮み、「水、水」と泣きながら、うちの裏にあった川に向かって歩いていました。

憲兵隊が来て、「水を飲ましたらいかん」と言っていましたが、たくさんの人が水を求めて、川岸で亡くなっていました。

家の横にあった畑では、倒れていた女の子が、カボチャを枕にして苦しそうに、「お母さーん、お母さーん」と泣いていました。

その近くの斜めに倒れた電信柱の電線に、髪の毛がからまった女の人の頭だけが、ぶらさがっていました。

長崎原爆資料館 所蔵
長崎原爆資料館 所蔵

母は、2歳の弟と8歳の妹を、必死に捜していました。
一緒に勉強していた子どもの親も来て、食堂のがれきをどけながら、子どもたちを助け出しました。

テーブルの下に逃げた子どもは、助かりましたが、結局、妹と2人の友達は行方が分からず、母は、2歳の弟を見つけて抱えてきました。

弟は背中から脇に、あばら骨が見えるほどの大きな三日月形の深い傷を負って、気を失っていました。

父は大きな梁(はり)の下敷きになっていましたが、命に別状はありませんでした。その後、行方知れずの妹と友人2人は、見つからないまま、家が次々と燃え出し、わが家も燃え始めました。

しばらく防空壕で過ごしましたが、周りで多くの人々が亡くなっていきました。
その臭(にお)いは異様で、体に染みついて1年ほど取れませんでした。
近所の鉄工所のおじいさんが、背中一面やけどを負い、「痛い、痛い」と言っているので、真っ赤に焼けただれた背中を見ると、ウジ虫がウジャウジャと這(は)い回っていました。

その時の私は感覚がまひして、人の死体を見ても、なんとも思わなくなっていました。

原爆の後遺症と自責の念、「今も耳から離れない」

数日して、私は母の実家である長崎市の野母崎(のもざき)という地域に、避難することになりました。

野母崎に行く途中、燃えた満員電車があり、乗っていた人が立ったまま亡くなっていました。

また、家族で食事をしていたのでしょうか。円になって座ったまま黒焦げになって、亡くなっていたのも目にしました。

長崎原爆資料館 所蔵
長崎原爆資料館 所蔵

8月9日は、地獄絵図のようで、あの時の長崎は、本当に、本当に悲惨でした。

その後、しばらく野母崎で過ごしていましたが、1歳の弟は、だんだんご飯を食べられなくなり、そのうち体に黒い斑点がいっぱい出てきて、苦しくてずっと泣いていました。

そして、その年の10月7日に亡くなってしまいました。母はその後、子宮がんになり、被爆の影響からか手術後の出血が止まらず、被爆から6年後にこの世を去りました。

厳しくもありましたが、優しい母との別れは筆舌に尽くし難いものがありました。

私は、検査では、白血球数が多い以外は健康でした。しかし、働き始めてから、たびたび貧血のような症状で意識を失い、倒れるようになりました。
私の娘が大学生の頃まで倒れていたように思います。

原爆投下直後、私が訳も分からず逃げていた時、亡くなった妹が叫んでいたんです。「お兄ちゃん、待ってー!」と、その声は今もずっと耳に残って離れません。

妹を置いて、自分だけ逃げたという自責の念がずっとあります。だから私は、被爆体験を話すことを避けてきました。

アメリカでの出会い――信仰の世界で国の争いは関係ない

そんな私が創価学会に巡りあったのは、1961年のことです。当時、大阪でタクシーの運転手として働いていました。

入会してから、私はとにかく信心根本に生きてきました。1976年に再び長崎に戻ってきてからも、広布の第一線で戦ってきました。

かつて、私が訪問団の一員として、アメリカに行った時のことです。

アメリカの地元の会館を訪れ、勤行・唱題をする際、導師を務めたのはアメリカ人でした。朗々と読経するその人に感動したのです。

アメリカといえば、長崎に原爆を落とした国。正直に言えば、怒りや憎しみが、もちろんありました。

しかし、創価学会の世界、信仰の世界では国の争いは関係ない。
そんな麗(うるわ)しい世界を、築いてくださった池田先生に、ただただ感謝の思いがあふれてきました。 ここで長女の靖子に、バトンタッチします。

当時10歳。初めて被爆体験を聞く

(以下証言、靖子さん)
私が、父から初めて被爆体験を聞いたのは、小学4年の夏休みでした。

父の被爆体験については、以前から何度も尋ねたことがありましたが、父は教えてくれませんでした。

しかし、私が小学4年の夏休み、地図帳を見ていたら、父がやってきて、地図で長崎の場所を教えてくれ、被爆体験を話してくれました。

当時、私は10歳。父が被爆した年齢と同じ歳でした。

“もしかしたら時が来るのを、待っていてくれたのかな”と思います。
母が、毎日のように学会活動に出掛ける時、よく口にしていたことがありました。

父の体験は壮絶で、幼いながらも原爆の悲惨さが心に染みたのを覚えています。

「お母さんたちは、池田先生と一緒に、毎日世界平和のために頑張ってんねんで。行ってくるからね」と。

「両親が慕う池田先生は、どんな人なんだろう?」、「私も池田先生にお会いしたい」と願い続ける中、1982年、池田先生との出会いを刻み、記念撮影をしていただきました。

ペンを使い、平和の尊さをつづる

当時、長崎で大学1年生になっていた私は、徹して同志を大切にされる池田先生のお姿に触れ、「10年後を見ているからね!」との激励に自身の使命に生き抜こうと決意。

学会の青年平和委員会の一員として、活動するようになりました。1990年、長崎女性平和委員会が結成されることになり、池田先生出席の会合に、メンバー全員が集い、発足していただきました。

また、その時、先生から、ペンを頂きました。激励の意味を、題目を唱えながら模索する中、(池田)先生ご自身が筆を執り、(小説)『人間革命』『新・人間革命』をつづられ、平和の闘争を続けてこられたことを思うと、“私もペンを使って、平和の尊さをつづり、発信していくことが私の使命ではないか”と感じました。

そして誕生したのが、「ハッピーアース」という女性平和委員会制作の刊行物です。「ハッピーアース」では、創価の平和思想を広める特集のほか、池田先生の「SGI提言」に関する企画や、世界の戦争などにまつわるコラムなどを執筆。

1990年9月に第1号を制作して以来、現在の女性平和文化会議の皆さんも受け継いでくださり、30年にわたり約200号近くが作成されています。 本当にうれしい限りです。

現在のハッピーアース
現在のハッピーアース

被爆体験は、何度も繰り返し聞いていくことが大切

当時の私たちが行っていた活動は、カタツムリの歩みのようなものだったかもしれません。

しかし、池田先生が一人また一人と対話を通して、信頼と友情を結び、平和の連帯を広げてこられたように、“地道な行動の積み重ねが、恒久平和への一番の近道である”と感じています。

被爆体験は、一度聞いて終わるのではなく、被爆の実相を知るためにも、何度も繰り返し聞いていくことが大切だと思います。

また、被爆者にとっては、原爆は過去のことではなく、今でも深刻な問題として残っています。
私たちのように、原爆の惨禍を知らない世代は、どんなに時がたとうと、原爆で負った悲しみが、癒えることはないということを、心に留めておかなければいけないと思います。

現在、中学校で教鞭をとっていますが、生徒たちにも平和の尊さを伝えています。
たとえ、今が何不自由なく、生活できていたとしても、ひとたび戦争が起これば、悲しい思いをするのは何の罪もない子供たちであり、市民です。

だからこそ、平和と核兵器廃絶については、自分の事として考えていくことが大事だと感じています。

これからも父と二人三脚で、核兵器なき未来のために、私たちにできることを挑戦していきます。

それが、被爆した長崎を復興させてくれた先人の人々、何より父への親孝行であると考えています。

父に戻ります。

「私が話さなければいけない。語り継いでいってほしい」

(以下証言、光盛さん)
原爆によって、私の人生は大きく変わりました。戦争や原爆は、絶対に人を不幸にします。

長崎・広島の原爆以外にも、世界にはいろいろな場所でそんな思いをしてきた人、現在も苦しんでいる人たちが、たくさんいると思います。

私もあの当時のことを思い出すと、今でも涙が出ます。

76年の時を経た今、被爆者は減り、生の体験を話せる人も少なくなっています。
“だからこそ、私が話さなければいけない”と、心の底から思っています。

日本の平和、世界の平和を守っていく一人として、原爆の被害にあった人の苦しみや、悲しみを知り、語り継いでいってほしいのが私たち被爆者の願いです。

人間が人間らしく生きる社会、皆が楽しく明るく生きる社会ほど、平和で幸福なことはありません。

核兵器は絶対になくさなければいけません。人間の手で、生み出した兵器であれば、人間の手でなくすことだってできるはずです。

本日はありがとうございました。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。