【震災証言】“励まされる側”から“励ます側”へ――震災後に14年間の引きこもりを脱却(岩手県・釜石市)

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東日本大震災から11年。
釜石市の中心部まで押し寄せた巨大な津波は、世界最大深の湾口防波堤を倒壊させ、1000人を超える死者、行方不明者を出す大きな被害をもたらしました。

<三陸漁場の中心港として発展してきた釜石市>
<三陸漁場の中心港として発展してきた釜石市>

  

被災した杉田継夫さんの自宅は、釜石港の海から20mほどの場所に。
避難した数日後、自宅にもどると想像を絶する光景が目の前に広がっていました――

<証言する杉田さん>
<証言する杉田さん>

  

※本記事は、2022年2月20日に開催された創価学会東北青年部主催のオンライン証言会の映像内容を記事にしたものです。

(以下・杉田さんの証言)

3月11日 地震発生時

皆さんはテレビが飛び跳ねるのを見たことがありますか?

2011年3月11日――あれほど大きな地震は初めての経験でした。家がギシギシと音を立て、たんすは倒れ、部屋中の物が宙を舞いました。

激しさといい、長さといい、全てが尋常ではない揺れに遭いながら、“津波が来る”と直感しました。

地元の釜石市は、太平洋に開けた鉄と海のまち。
自宅は海から20m程の場所にありました。そこから家族3人で避難しました。

避難生活と叔父の安否確認

震災から丸2日、車の中で寝泊まりしました。テレビも新聞もなく、電話もつながらない。
一体何が起こっているのか。

3月13日の朝、封鎖された国道を迂回(うかい)して、ぬかるむ裏通りを何時間も歩いて自宅があった場所へ向かいました。

その光景を見て声を失いました。町全体が津波で削り取られ、自宅のあった場所すら分からなくなっていました。

  

がれきだらけの町並みは、まるで空襲を受けた戦地のようでした。

その後、釜石市内の親戚宅に避難させてもらいました。ところが、叔父の安否が分かりませんでした。大槌(おおつち)町の遺体安置所を、転々と歩き回りました。

  

幸いというべきか、叔父はきれいな姿で横たわっていました。自然の猛威とはいえ、あまりに不条理な現実に無性に叫びたくなりました。

震災後、いや応なしに外に出された私は、今までにないほど多くの人と接することになりました。
実は、ずっと引きこもりだった私が外に出るのは、14年ぶりのことでした。

震災前の14年間の引きこもり生活

私が小学5年生の時でした。13歳年上の兄が突然自宅で暴れ、家族に対しても、暴力を振るうようになりました。その後、兄は重度の「統合失調症」と診断されました。

兄が入院したのは私が18歳の時でした。これで苦しみから解放されると思いきや、幼い頃からのトラウマで、毎晩悪夢にうなされるようになりました。

次第に“息を吸って吐く”、それを繰り返すだけで精いっぱいになり、家に引きこもるようになりました。

“自分はなぜ生まれてきたのだろう”
“このまま生きていても良いことなんて一つもないのではないか”と。

“変わりたい”と思うことがあっても、体は重く、すぐに気持ちが折れてしまいます。次第に自分を信じることが苦しくなり、未来に希望を持つことが苦しいと感じるようになりました。

相変わらず引きこもる生活が14年にもなった時、あの震災が起こりました。

避難生活で見たもの

震災後、両親に連れられて創価学会の釜石文化会館へ行きました。そこには大勢の被災者が身を寄せていました。

そして被災者を支えるために、たくさんの同志が不眠不休で働いていました。

  

全国の同志からの救援物資も日増しに増え、その多さに驚きました。被災した人も、直接的には被害がなかった人も、互いを思いやり支え合っていました。

  

皆が大変な状況の中、“人のため”と必死になる姿に胸が熱くなりました。

先輩との出会い

その時、ある男子部の先輩と出会いました。
長い間、人との関わりを避けてきた私でしたが、気さくなその先輩とは不思議と何でも話せました。

先輩から、たくさん線の引かれた1冊の本をもらいました。それは 池田先生の『青春対話』でした。読めば読むほど引き込まれました。

  

「負けてはいけない」
「君には絶対に君だけの使命がある」――
青年の可能性を信じてやまない池田先生の真心に感動しました。

同志の姿や池田先生の言葉、優しさにあふれた学会の世界に触れるにつれて、私の乾いた心が少しずつ潤っていくのが分かりました。
「自分の使命を見つけたい」そして 「自分にできることは微々たるものかもしれない。しかし、無力ではないはずだ。自分も人のために何か役に立ちたい」――そう思えるようになりました。

学会活動を通しての変化

まずは生きる力を注いでくれた学会の中で頑張ろうと決意し、真剣に学会活動に励みました。
引きこもっていた時は、“状況が変わればいいのにな”と漠然と祈っていました。
しかし、学会活動に励むようになり、“自分自身が変わっていこう”と祈れるようになりました。

  

すると、勇気も知恵も湯水のように湧きました。そしてなんと夢ができたのです。

子どもや高齢者、他にも社会で困っている人の役に立ちたい。中でも福祉の仕事がしたいと思うようになりました。

鉄筋工の仕事でお金をためた後、働きながら福祉を学ぶ事ができるという募集を知り、2012年11月、全国でさまざまな福祉事業を担うNPO法人への就職を勝ち取りました。

2016年に「社会福祉主事任用資格」を取得。通所介護事業での生活相談員としての役割も任せてもらえるようになりました。
夢が全て実現したのです。

  

多くの利用者さまから、「ここに来るのが一番の楽しみなんだ」といった言葉を掛けていただく時が、この仕事をしていて一番うれしい瞬間です。

“励まされる側”から“励ます側”になり、悩みはむしろ増え、また悩みに同苦し寄り添う事の大切さを学びました。

  

悩みが増えて嫌だとは思いません。その人が乗り越える時まで寄り添い、悩み、祈り続けたい。
両親や男子部の先輩がそうしてくれたように、私も挑戦していきます。

震災と引きこもりを乗り越えて

震災から間もなく11年がたちます。長いようにも短いようにも感じます。

震災前の私には、今の私の姿は想像もできませんでした。そして、この先の5年後10年後も、同じ事が言えると思います。

なぜなら、信心に励むようになってからの私は“変わり続けている”との実感があるからです。

  

来年、再来年の私は、どうなっているのか。この信心があれば、どのようにだって変わっていけると、ワクワクしています。

今でも時々自信を失い、自分を信じられなくなりそうになることがあります。そんな時は唱題し、命を奮い立たせています。

私は引きこもりと震災という、本当に苦しい日々を抜け出した今、どんな悩みも絶対に乗り越えていけると思えるようになりました。

そして支えてくれた両親、同志、何より池田先生への報恩感謝の心が、日々の計り知れないエネルギーになっています。

<仮設住宅で両親と(当時)>
<仮設住宅で両親と(2015年当時)>

これからも使命の道を、力強く生き抜いていく決意です。
本日は 大変にありがとうございました。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。