【被爆証言】「想像」することが平和を「創造」する一歩に(広島)

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1945年8月6日、広島に原爆が投下されました。

当時3歳10ヶ月だった宇佐美節子(うさみ・せつこ)さん(80歳)は、爆心地からおよそ4キロメートル離れた自宅(祇園町)で被爆。兄のように慕っていた親戚を亡くし、自らも額に深い傷を負いました。

そして現在、宇佐美さんは自身の被爆体験を紙芝居にして「核兵器の脅威」「戦争の悲惨さ」を、未来を担う子どもたちに伝え続けています。


※本記事は、2022年7月18日の「インタビュー」並びに「紙芝居の読み聞かせ」を記事にしたものです。

  

  

  

突然の閃光と地鳴りのような轟音

当時は、おうちにちょっとした庭があって、おばあさんがそこにゴザを敷いて一升瓶の中に玄米を入れて突いていました。すると、お米が白くなる。そういう仕事をしていました。そして、私はお家の入口の所でおねえさんが作ってくれたお人形さんで遊んでいました。

そして、午前8時15分。ピカーッと光がきて、ドーンという音がして、もうそれから何が起きたのか分からなかった。大きな音、地鳴りっていうのかな。それらが一緒にウワーッときてから、何が起きたのか分からなくなりましたね。

おばあさんが言うのには、すごく鳴いていたセミが鳴かなくなって、一瞬シーンとした。何も聞こえなくなったそうです。

  

紙芝居『せっちゃんの夏』より

  

おばあさんは、気が付いたら壁の隅に隠れていて、私が「痛い痛い!」って泣いている。泣くから口を押さえる。おばあさんは「敵が来るから泣いたらいけん」と言いました。けがをしていると思って、せっちゃん(私)の頭を見るとガラスが刺さっていた。慌てて取ってやったと。頭のけがは、血がすごく出てくるのです。

そして、私を抱えて庭に掘ってある防空壕(ごう)へ入り込んだ。防空壕の中は、素人が作った防空壕だから狭いし、いつ砂がダダーッと落ちてくるか分からないような防空壕でした。

  

  

30分ぐらいしてからでしょうか。防空壕を出て、牛田山(うしたやま)の裾野の方が広島市です。その辺りからボーンと煙が出ていました。だから、きのこ雲という印象はなかったです。紙の焼けた物とか、布の焼けた物とか、ホコリというのかな。そんなものが、バラバラ降ってきました。それから落ち着くと、スコールのような黒い雨がザーッと降ってきました。

お化けのように歩く人々 道端に転がる遺体

  

  

しばらくすると外が騒がしくなってきました。
道路は、広島市街から北へと逃れる人たちで溢れていたのです。

  

トラックの音、 「うーん、うーん」という人のうめき声、リアカーの音、それらがバタバタ聞こえてきました。道路端に出てみると、人がお化けのような状態で胸から上の方まで手を上げているんです。ぼろ切れをぶら下げているように見えましたが、ぼろ切れではなかった。溶けて垂れ下がった皮膚をぶら下げて歩いてくるのです。

「熱いよ、水をちょうだい。おばさん、水ちょうだい」って。その頃は、道端に何軒か置きに防火水槽がありました。夏なので、その水にボウフラが湧いています。その水槽の水を飲むわけです。飲んで安心したのかどうなのか、そのまま亡くなっている人がいました。歩いてくる人は、ずっと続いていましたが、途中で倒れてしまう。バタッともう動けなくなっていました。

倒れている人を、兵隊さんが道端に置くのです。そのままほったらかしにしていくので、皆、亡くなってしまう。今度は、遺体を空き地にズラーッと並べます。そして、わらをかけて燃やすのです。2、3日臭かったのを覚えています。嫌な臭(にお)いがしました。

一彦お兄ちゃんが見た地獄のような光景

  

  

お昼すぎ、隣に住んでいた一彦お兄ちゃん(中学3年)が帰ってきました。
後日、一彦お兄ちゃんから聞いた話は衝撃的な内容でした。

  

一彦お兄ちゃんが歩いて帰っていると、己斐(こい)駅の近くで頭がすすだらけになったおばさんに「学生さん、この子を救護所に連れていってください」とお願いをされたそうです。その子は、小学生で震えながら座っていた。「大丈夫か?立てるか?」と言ってポッと手を持ったらしいのですが、手がズルッと滑った。身体の半分が全部やけどしていたのです。

友達と一緒に板を拾ってきて、板の上にその子どもを乗せて、己斐の小学校の救護所まで連れていったそうです。そこは、けが人でいっぱいです。横たわって、顔の半分がベロンと破れているというのか。歯と顎がベロンと出ているような人がいて、それを手でペタッと押さえていたそうです。

校庭の隅では、亡くなられた人がズラッと並べてありました。そこに、今度はハエがたかります。人がそばを通ると、そのハエがワーッと飛び上がる。ボーッと煙が湧いたような感じに見えたそうです。とにかくもう地獄のようなだったと話していました。

自分の子どもか分からないほど変わり果てた姿

  

  

いつも節子さんをかわいがってくれた隣の正治お兄ちゃん(中学1年)は、なかなか帰ってきませんでした。

  

夕方になり、「こんばんは、こんばんは」「お母さん、お母さん」と声がする。正治が帰ってきたのだと思って、おばさんは出ていきました。すると、救援隊の人が2人の子どもを連れてきていた。正治くんとお友達を連れてきている。

おばさんは、誰かわからずに「あんた誰?」と2人の子どもに聞いたそうです。自分の子どもだということが分からなかった。一番上のお兄ちゃんが「お母さん、よく見てごらん。ズボンにしているバックルが僕のあげたものだから、こっちが正治よ」と教えてくれた。おばさんは「正治?まあちゃん」と言いました。後に「裸電球の下でその子を見た時には、もう人ではない。お人形が焼けたような、とにかく物体にしか見えなかった」と言っていました。

手を取り抱っこして「まあちゃん、どしたん」と言ってあげられない状態だった。だから、おばさんは「まあちゃんが、どうしてこういうふうになったん」と泣き崩れたそうです。

2人の子どもは一晩中「水をちょうだい。水をちょうだい」と言っていたそうです。そして、明くる日の夕方ごろだったでしょうか。正治お兄ちゃんが「常磐(ときわ)橋の川の水はうまかったのう」と、うわ言を言いながら亡くなりました。もう1人のお友達は「お母ちゃん、お母ちゃん」と母親を呼びながら、同じような時刻に亡くなっていったそうです。

「そんなことで、なんか思い出すね。臭(にお)いと。思い出すね。寂しくなってきた。寂しくなってきた」

被爆者への差別「遺伝するから嫁にもらうな」

  

  

戦後、節子さんは、おばあさんに何度も言われたことがあります。

  

おばあさんは、私の額の傷に手を当てて「(傷が)ちいとは小さなったね。この傷を忘れたらいけんよ」と、しつこく言っていました。
しかし、うちの母親は「(被爆したことを)言ったらいけん、言ったらいけん」と言います。
どうして言ってはいけないのか、当時の私にはよく分からなかった。

そして20歳ぐらいになった時、「被爆した女性は嫁にもらうな。放射能が遺伝するから」といううわさが立ちました。それから、私は被爆したことを一切言わなくなりました。

「この傷を思い出して紙芝居にしよう」と決意

  

おばあさんの勧めで、節子さんは19歳で創価学会に入会。やがて、地域での活動として紙芝居を始めました。

  

ちょうど民生委員を始めたころ、皆のためになることをしようと燃えていました。自分で絵を描いて原作を作らなければいけないと思い、あちこちの資料を集めて、原作を作り、そして少し絵を描きました。絵が足りないところは、人に描いてもらうような感じで作ったのが最初です。まずは、昔話を紙芝居にすることが目的で始めました。

  

  

これまで38作品を制作してきました。しかし、どうしても題材にできなかったもの。
それが「原爆」でした。

  

亡くなられた(広島平和記念)資料館の館長さんが「目の前で亡くなっていった人のことを思えば、原子爆弾がどんなに危ないものか、どんなに悲惨なものか、勇気を出してしゃべってくれ。しゃべらないとその人が浮かばれない」ということをコラムに書かれていました。

そこで正治お兄ちゃんのことをふと思い出し、おばあちゃんが「忘れたらいけんよ。忘れたらいけんよ」と言っていたことも思い出しました。被爆体験を言いたくはなかったけれども、この傷を思い出して紙芝居にしようと思いました。おばあさんの話を思い出しながら描き上げていった。そして『せっちゃんの夏』が出来上がったのです。

それから、小学校で初めて「私は、今までね、話をしてなかったんですけれど。きょう、みんなの前で初めて話をします」と、自分の体験を話しました。そこから、被爆体験を紙芝居で語る活動が始まったのです。

想像してほしい“人ごと”でなく“わがこと”として

  

  

節子さんには、被爆体験を語る時に意識していることがあります。

  

(子どもたちに語り掛ける宇佐美さん)
「怖かった?これ、全部人間のすることなんだよ。人間の生命(いのち)がそういうことをするんだよ。みんな、死にたくないよね。生きたいでしょう。ウクライナの子どもの顔を見た時、おばちゃんは寂しくなってから涙が出たよ。『死にたくない』ってその子が言った。あんな目に遭わせたらいけないよね」


とにかく想像してほしい。あれは“人ごと”ではないのです。「あんな話をしていたね」だけで終わってほしくない。その話を想像してほしい。だから、紙芝居で「見て」「聞いて」「想像してね」と言っています。“人ごと”でなく“わがこと”として考えてほしいということです。


(子どもたちに語り掛ける宇佐美さん)
「みんなを認め合って、話し合って。池田先生は『対話が大切だよ』って言われますよね。核兵器は絶対反対。約束できる?みんな大きくなって、絶対反対って言ってね。あなたたちは、未来を担ってくれないといけない。お願いします」


「何が訴えたいの?」と言われたら、池田先生がおっしゃられた『戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない』という言葉がありましたよね。本当にそうだと思います。戦争をする兵隊よりも、一般の子ども、武器を持たない普通の子どもが犠牲になる。だから、絶対に戦争をしてはいけないし、核兵器は絶対に使用してはいけない。戦争をすること、人と人が殺し合うということは、人間の一番悪いところではないかな。絶対やめてほしいと思います。それだけしかない。本当に悲惨ですよ。

声を大にして「核兵器は許せない!許せない!」って言いたいですよね。
この傷が小さくなるにつれて記憶が薄くなっていくような気がするので、記憶が薄くならないうちに、私の気持ち、私の思いを伝えていきたい。もうずっと伝えようと思います。とにかくみんなに聞いてほしいです。核兵器は絶対反対だという思いはね。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。