【被爆証言】もう二度と、こんな思いを誰にもさせたくない(長崎)

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1945年8月9日、長崎に第2の原子爆弾が投下されました。

当時9歳だった牟田満子(むた・みちこ)さん(86歳)は、爆心地から2・5キロメートル離れた、自宅近くの集会所で被爆。母と妹を亡くし、自らも大怪我を負いました。

その後、友人から誘われ、世界で唯一の被爆者だけの合唱団「被爆者歌う会・ひまわり」での活動を始めた牟田さんは、平和を願う心を、歌声を通して伝え続けてきました。

※本記事は、2022年7月25日の「被爆証言」「インタビュー」を記事にしたものです。

  

  

突然の爆風、水を求めて彷徨う人々

長崎・被害の概況

  

1945年8月9日、長崎に第二の原子爆弾が投下されました。国民学校4年生で9歳だった満子さんは、爆心地から2・5キロメートル離れた自宅近くの集会所で被爆しました。

空がピカッとして、「あ」って言った瞬間に、爆風でガラスが飛んで来たりして。もう何が起こったか分かりませんでした。わんわん泣きながら防空壕(ごう)に行ったんですよ。血だらけになって、ダラダラ血が流れてね。

もうボロボロですね。ちぎれて、肉が出たり、もうまともな人はいない。みんな死んだようになって、ただ前を歩く人の後に付いていくという感じで、力もなにもない。ヨロヨロして「水、水」って言いながら。うわ言ですよね。一晩中そんな人がずっと続いている。

  

被爆直後の長崎大学病院(出典:米国立公文書館)

  

ガラスの破片をあび大けがを負った満子さん。しかし、傷の痛みや爆弾の恐怖よりも、母と1歳半の妹が気がかりでした。病気の父の薬をもらうため、2人は爆心地近くの長崎大学病院に出掛けていたのです。

  

その日、母たちは自宅に帰ってきませんでした。翌日から、祖父母と親せきが連れ立って、母と妹を必死に探し回りましたが、見つかりません。連日経っても、遺体どころか、遺品さえ、見つけることはできませんでした。

私自身、まだ幼かったので、母と妹の死を受け止めることはできず、心にぽっかりと穴があいたようでした。翌年には闘病中だった父も亡くなりました。

時計は11時2分で止まったまま

満子さんは3姉妹の長女として、祖父母の畑で働かざるをえなくなりました。

  

幸い畑をもっていたので、食べ物には困りませんでした。
ただ、畑仕事は朝から晩までしなければいけなかったので、学校には満足に通うことができませんでした。

同世代の女の子の制服姿が、とてもうらやましく感じました。その輝いた姿と土まみれの自分の姿を比べると、なんだかとても哀れで、自分が生きていることに空しさだけが募りました。昼間は、何度も泣きながら畑仕事をしました。

夜になると、毎晩のように、母の夢を見ました。夢に出てくる母に「母ちゃん、どこにおると?」と問いかけても、母は何も答えてくれません。

「どうして、私だけがこんなに苦労しないといけないの」と自分の人生をのろいました。そして、自分の人生をみじめなものにおとしめた原爆を心の底から憎みました。

  

原爆投下時刻の「11時2分」で止まった時計(長崎原爆資料館所蔵)

  

長崎原爆資料館には、原爆が投下された時刻である「11時2分」で止まった時計が展示されています。

  

しかし、原爆が止めたのは、秒針(びょうしん)だけではありません。私たちの生活、人生の歩みも残酷に止めたのです。「何のために生きているのか」「原爆さえなければ」と思わずには、いられませんでした。

人生を照らす仏法との巡り合い

その後、満子さんは16歳で結婚。しかし、被爆者への差別や、後遺症がいつ発病するか分からない恐怖が、影のようにつきまといました。

  

核兵器は非人道的な兵器です。私は、自身が被爆者であると語ることはありませんでした。そんな私が仏法と巡り合ったのは、1957年のことでした。

  

  

親戚は大反対していましたが、「絶対に幸せになれるよ」との一言に、私はわらにもすがる思いで、創価学会に入会しました。

終戦から12年を経ていましたが、まだまだ復興は道半ばで、多くの人が貧しい生活をしていました。それは学会員も同じでした。

入会から日が浅い会員が大半でしたが、同志と、世界の平和という理想に向かって学会活動に励む日々は、本当に楽しく、心が豊かになる思いでした。

1958年、長崎を初訪問した池田先生との出会いがありました。

  

「この信心で幸せになってください。必ず幸福になれる仏法です!」と力強く語られ、一人一人を抱きかかえるように、慈愛のまなざしを向けられる先生のお姿は、今でも覚えています。

学校にまともに通えなかった私に、同志が丁寧に御書を教えてくれました。生命尊厳の哲学を学べば学ぶほど、私が生かされた意味を大きく感じるようになっていきました。

  

『日蓮大聖人御書全集 新版』1696ページ

  

「冬は必ず春となる」との御書の一節は、私の生涯の指針となっています。

もう二度と――平和の歌声は海を越えて広がる

70歳を過ぎた頃、友人から「被爆者歌う会・ひまわり」に誘われます。

  

友人とは、同じ被爆者で、30年来の付き合いがありましたが、お互いの被爆した体験については、語り合うことはできませんでした。なぜなら、原爆のことを話しても、何もいいことなどないと思っていたからです。

「ひまわり」に入ってからは、自身の半生を振り返ると共に、私にできることは何でもやろうと決意しました。

被爆70年の2015年には、人生で初めてアメリカを訪れました。ニューヨークでの海外公演に出演したのです。

  

「広島と長崎に愛をこめて」と題したコンサートでは、原爆投下の命令を下したトルーマン元大統領のお孫さんが司会を務めていました。平和運動に貢献される、その姿に、深い感慨が込み上げてきました。

  

「被爆者歌う会・ひまわり」のニューヨークでの公演の様子

  

コンサートで合唱したのは「もう二度と」という歌です。

歌い終えると、参加者が総立ちとなって拍手をしてくれました。その拍手はなかなか鳴り止みません。また、自身の体験を話すと、聞いていた人々が駆け寄ってきて、ハグをしてくれたのです。

私たちの願いは、アメリカの方々にも十分に届いたのだなと、こちらも大感動でした。平和を願う心は、世界共通だと確信します。

復讐心や憎しみからは、悲惨さしか生まれない。私の青春時代は夢も希望もありませんでした。たった一発の原爆が、一瞬にして7万5千人の命を奪い、その後遺症は今なお、身も心もむしばみ続けています。

現在、国際情勢は厳しい状態が続いています。私たち被爆者は、もう二度と、こんな思いを誰にもさせたくないと強く願っています。

力の限り平和の尊さを訴え続ける

実は、私も高齢になり、今年の8月9日の式典での合唱をもって、「ひまわり」を一区切りしようと考えています。しかし、尊敬する人生の師匠が、世界中に平和の種をまき続けてこられたように、私も力の限り平和の尊さを訴え続けていこうと決意しています。

  

最後の出演へ向け、合唱練習に参加

  

本年8月9日の平和祈念式典で、満子さんの合唱出演は最後になりました。

  

平和というのがどれだけ大事かですね、本当に。日本は終戦から77年ですが、もう戦争も無く、なんとか過ごしてきてますけども、まだ世界ではいろいろありますからね。惨めですよね、戦争は本当に。

若い人が後をずっと続いてほしいです。やっぱり生きていく上には平和じゃないと。そして平和に向けた運動を続けていって、本当に核の無い、世界平和をみんなで目指していってほしいと思いますね。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。