笑顔は希望の光となるー福島原発事故から12年(福島県)

公開日:

  

福島県沿岸部の浜通り地域で創価学会の中心者として活動してきた金澤清子さん。

地震・津波・原発事故によって混乱を極めた浜通り

金澤さんは、震災発生の翌日から、創価学会いわき平和会館で、避難者の対応に当たりました。会館には、高齢者や津波の被害から逃れてきた人など、およそ150人が身を寄せていました。

  

  

金澤さん:大変でしたね。水はもう出なくなっちゃったし、もう本当にトイレとかも。最初は食べることはどうしようとかで、おじやを作りました。 会館にちょうど備え付けのあの紙コップがあるじゃないですか。その紙コップをマイカップにして、3分の1ぐらいですかね。それで飢えを凌ぎました。

もちろん、歯ブラシなんかないから歯磨きもできないしね。そんな状況の中で口をゆすいだだけで終わったとか。そんな生活が何日か続きましたね。

  

  

水や食料などの物資が不足する中で、何度も襲ってくる余震。さらに、深刻だったのは原発事故による放射能の恐怖でした。福島第一原発では、12日に1号機、14日に3号機、15日には4号機で爆発が発生。事態は悪化の一途を辿り、避難指示区域も刻々と拡大。情報が錯綜する中で、周辺地域は混乱を極めていました。

  

  

  

加藤さん(当時一緒に会館にいた中心者の一人):(茨城にいる)妹から電話がかかってきましてね。 「お姉ちゃん、とにかく逃げて」「会館から出て、とにかくどこかに避難して」
あの時の声は、本当に生涯忘れませんね。

  

福島県では、原発事故直後、およそ9万人が避難を余儀なくされ、いつ自宅に帰ることができるのか、全くわからない状況でした。

  

金澤さん:(浜通り地域が原発事故によって)分断されちゃったわけですから、 もうそのショックが物すごく大きかったんですね。私が「何でこんな目に遭わなきゃなんないんでしょうか」って先輩に言ったことがあったんですね。

  

先輩から返ってきたのは、慰めの言葉ではありませんでした。

  

金澤さん:「婦人部は、一家の太陽って言われてるだろう。一家の太陽なんだから、こういう時こそ婦人部の笑顔って大事なんだよ。お母さんの笑顔っていうのは子供、ご主人、地域の人を、ほっとさせるんだよ。だから、どんな状況であったとしても笑顔でいることが大事なんだ。笑顔を忘れないことが大事なんだよ」って。
でも、そんなこと言われたって、笑顔なんか出るわけないって。そういう思いはあったんですけど、池田先生も「婦人部は一家の太陽」って言ってるんだから、なるべく笑顔でいようって心掛けてきたんですね。

避難所に広がった、たくさんの「笑顔」

さらに避難者のために何かできないだろうか。金澤さんは、知恵をしぼりました。

  

金澤さん:食事の前に「今日のハイライトー!」って、「パンパカパーンパンパンパンパンパカパーン!」ってやったらみんな「えー!?」っていうそういう反応があったんですよ。
それで「今日の夕飯のメニューをご紹介します!」って言ってね。「新潟県魚沼産コシヒカリをふんだんに使った・・・おじや!」「おいしいおいしいビール・・・と言いたいところですけれども、お水でした!」って言ってね。

そうすると何となくこれはみんなの表情が和らいでくることがわかって、避難していた若い男性二人には寸劇とか、ちょっとした漫才をやっていただいたりしてね。それで、本当に笑いや明るくなる話題は大事だなっていうのを痛感いたしました。

  

  

金澤さん:(避難者の中に)ちっちゃな子どもの誕生日だっていうこともあったんですね。救援物資の中にあったパンケーキを飾り付けして、ハッピーバースデーを歌って、祝ってあげたっていうドラマもありました。

  

  

避難者同士も、互いに協力し合い、一日一日を乗り越えていきました。

  

  

金澤さん:炊事班と掃除班。それから浄水場へ水を汲みに行く人、川に水汲みに行くメンバー、食事作る人はもう大勢大人数の食事を作ってて慣れているという方もいたりして、自然に成り立っていきました。

  

加藤さん:そうですね。不平不満とかそういうのがなかったんですよね。

  

3月21日、状況の変化に伴い、いわき平和会館での避難生活は終わりを迎えます。

  

金澤さん:最後の日は、全員ではなかったんですけれども、記念写真なんかも撮っていただいたりしました。「あんなに大変だったはずなのに、何でこんなに笑顔で写ってんだろう」っていうような笑顔をしていたんです。

  

  

後日、金澤さんは、当時避難していた方から言われました。

  

金澤さん:「婦人部長の笑顔に、救われました」って。「あの時の婦人部長の笑顔に、ほっとした」って。本当にこの笑顔って大事なんだなっていうことを痛感したことがありました。

寄り添い支え合う「うつくしまフェニックスグループ」の絆

その後も、原発避難者として各地に散ってしまった学会員のもとを、金澤さんは訪ねて回ります。そこで避難者をとりまく現実に、胸を痛めました。

  

  

金澤さん:いわきナンバーを見ただけで、隣を走ってるだけ、何かもう「近寄らないで」みたいな。本当にそれはものすごい強い強力なことがありました。放射能がうつるって変な言い方ですけれども、そんな形で拒否されて。

  

加藤さん:学校なんかもね、「わー!うつる!うつる!」と言われ、いじめにあったっていうのは、その後何年もね。続きましたね。そういうのを見聞きするたびに、悲しい思いを致しましたね。」

  

金澤さん:(避難指示区域から)避難された方でも、福島県内に、避難されてきた方もたくさんいらっしゃいました。でも、なかなかその地域に、馴染めなかった。
(原発避難者は)自分の住んでいた所を捨てざるを得なくて、所を転々、もう皆さん、6ヶ所7カ所移動してますから、家庭訪問して話を聞くと、もう本当に1時間2時間あっという間にですよ。

  

福島創価学会では、「うつくしまフェニックスグループ」を結成し、避難先でも前を向いて生きていけるよう、励まし合ってきました。定期的に開催してきた集いで、金澤さんは寸劇を手掛けてきました。

  

  

金澤さん:もう本当に拙いものなんですけれども、人に喜んでもらう笑わせるっていうかね。そういうのが凄くやっぱり好きだったこともあって。

私も震災直後から色んなやっぱり宿業との闘いがありました。動脈りゅうとか、それこそ、これでもかこれでもかっていうくらい。

そんな病との戦いの中で、病院のベッドの上でも脚本書きをしたりしたことが、大きな希望っていうか、大きな力になれたかなってやっぱり思うんですよね。

だから、自分は他者を励ましているようだけれども、その励ましの言葉をかけてる中で、また元気で頑張ろうっていうそういう力が、やっぱり自分の中にも湧いてくるって言うかね。だから本当に、ありがたいなってこう思うんです。

  

  

笑顔は希望に、苦難は財産に

どんな苦難の中にあっても、金澤さんはメンバーに希望を送り続けてきました。

  

金澤さん:本当に、ここ2、3年ですかね。避難した先で、地域にも皆さんしっかり馴染んで、そこの住民になりきって、励まし運動といったことが本当に自然な形で身についてくるようになったって言うかね。そこの地域のリーダーだったりして、頑張ってる姿を見ると、やっぱりうれしく思いますよね。

  

東日本大震災、そして原発事故から12年。「なんで、こんな目に」そう思わずにはいられなかった現実に何度も直面し、それでも、前を向き続けた金澤さん。

  

金澤さん:もう本当に大変と言えば大変だったんですけれども、本来持ってる人間の力の底力っていうかね、それってすごいものがあるんだって。

そういうことを経験したことで、色んなことを学ばせていただいたし、人の心に寄り添って相手の心を理解してね、接することができるようになりました。そして、強い心にさせていただいたっていうことがやっぱり実感です。

そういった意味で、連続の苦難との闘いは私にとっての大きな財産になりましたね。

  

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。