沖縄戦70年 平和を語り継ぐ〈2〉「負傷した片腕を切断」

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「任務中は、日本兵に常に行動を監視されていました」と語る徳元さん(2015年5月30日、糸満平和会館で)

  

創価学会沖縄青年部では、戦争の記憶を風化させないため、戦争体験者からの聞き取りを取り組んできました。

本記事は、戦争体験と、聞き取りを行ったメンバーの感想を紹介します。

証言:徳元文子さん(90)


沖縄戦当時、私は20歳で糸満市米須に住んでいましたが、家族と共に、壕に避難していました。しばらくして壕にやってきた日本兵から「若者が親と一緒に避難して戦争に勝てるか!」と、軍の壕で働くよう命令され、私は友人と共に、炊事と看護の任務に就くことになりました。

それからは、昼間は砲弾の激しい爆音が鳴り響く中、壕の中で玄米つき(脱穀)をし、夜になると、外で作業をします。

しかし、夜でも米軍の照明弾で昼間のように明るくなり、戦闘機に狙われる中で、命懸けで作業をしました。睡眠もほとんどとれず、昼夜逆転の日々です。作業を終えると「今日も生きて帰って来られた」と胸をなで下ろす毎日でした。

また、壕の中の環境は劣悪で、負傷兵であふれ、異臭に満ちていました。雨期のため泥水が壕に入り、足はかぶれていました。

ある晩のことです。大雨でいつも水を汲んでいた泉が泥でいっぱいになり、飯炊きができなくなったので、軍から乾パンが支給されました。私は、姉の子どもにあげて、芋と交換しようと思い、両親をはじめ、家族がいる壕に行きました。すると、日本兵によって、家族が壕から追い出されているところでした。

「追い出さないでください」と必死に頼みましたが、聞き入れてもらえませんでした。やむなく、家族は壕を出ていきました。それが、両親と姉2人との最後の別れとなったのです。

6月下旬だったと思います。軍に解散命令が下り、日本兵は、壕から出て行きました。私は友人と共に壕に残りました。

喉が渇くと、しずくが落ちるところに食器を置いて、たまった泥水を飲みました。夜になると泉から水をくんで飲みますが、豆ランプを照らすと、ウジ虫が水中にうようよいるのです。味も苦かったけど、あの時は、そんな水でも飲まずにはいられませんでした。

しばらくそのような生活をしていると、壕の中に米兵が、手りゅう弾を投げ入れ、爆発しました。私は意識を失い、気がつくと左腕から大量の出血をし、重傷を負いました。

その後、米軍に保護されて、野戦病院へ。手術が始まり、麻酔を打たれ、どす黒くウジがわいている左腕を切断されました。私は極度の精神状態に陥り、何度も「死なせて!」と叫んでいました。

戦争というのは二度と起こしてはいけません。

共に壕で働いた友人の内、2人は戦死。あと2人も戦後亡くなり、現在、私だけ生き残っています。戦争の犠牲になった人たちのために、これからも、わが使命を果たしていきます。

二度と戦争は起こさせない

  

女子学生部員 野口さん

私は、この春、進学で沖縄に来ました。沖縄戦は遠い過去の出来事という印象でしたが、今回、戦争体験を聞いて、認識の甘さを実感しました。

私たちの世代は、今後、戦争の記憶を風化させないように、後世まで語り継いでいく使命があると思います。

「二度と戦争は起こさせない」との決意で、平和を守り抜いていかなければならない、と感じました。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。