このページの本文へ移動

本文ここから

沖縄戦70年 平和を語り継ぐ〈3〉 「生き残ったのは数人」

公開日:

  

  

創価学会沖縄青年部では、戦争の記憶を風化させないため、戦争体験者からの聞き取りを取り組んできました。

本記事は、戦争体験と、聞き取りを行ったメンバーの感想を紹介します。

証言:儀部弘さん(90)


私は昭和19年、与那原に本部を構え、中城湾の守備を目的とした球4152部隊(重砲兵第7連隊)に入隊。当時、同じ年代の人たちが約100人、入隊しました。

昭和20年3月に米軍が沖縄に上陸。米軍の激しい攻撃に、日本軍は全く太刀打ちができませんでした。

私は、戦闘機からの銃撃で右腕を撃たれ負傷。仲間に担がれ、知念にあった病院壕に運ばれました。壕の中は、戦闘で腕や足を失った人など、けが人のうめき声であふれていました。

やがて、壕付近にも米軍が侵攻。夜中の銃撃戦の中、私たちの部隊は南へ逃げ、現在の、ひめゆりの塔の近くにあった壕に身を潜めました。それからは、夜になると食糧探しです。泥水で米を炊いて食べたり、豆の葉っぱを食べたりしました。水が無くて、自分の尿を飲んだこともありました。

6月下旬、解散命令が下り、国頭は安全という情報を聞いたので、仲間たちと国頭に行こうと話し合い、移動しました。ある夜、歩き疲れたので、見つけた壕の中で睡眠をとりました。朝になって目が覚めると、壕の中は死体だらけ。私は死体の上で寝ていたのです。体がウジでいっぱいになっていました。

その後、与座岳で突然、米軍の手りゅう弾が飛んできました。私は慌てて、その手りゅう弾をつかみ、遠くに投げ、近くの壕に走りました。それから30分ぐらい銃撃の嵐です。私は仲間と共に、うずくまっていました。その時は何とか逃げましたが、その後、しばらくして捕虜になりました。

後で聞いて分かりましたが、私が部隊に入隊した時に一緒に入った約100人は、ほぼ戦死。生き残ったのは数人だけでした。

証言:儀部清子さん(90)


私は、当時、那覇の久米に住んでいました。那覇10・10空襲で、私の家は燃えて、それから、家族で今帰仁の親戚のところへ避難。

米軍上陸以降は、日本兵から「決死の覚悟で」と、全員に手りゅう弾が配られました。

そして、母から「若い女性は米軍に乱暴されるから避難しなさい」と言われ、いとこと、友人、計7人の女性だけで金武の山奥へ。

行く山道は死体だらけの場所もあり、腹が膨れた死体の上を歩くこともありました。

途中、米軍の銃弾が一緒にいた友人の頭を貫通し、亡くなりました。あの時は、逃げるのに必死で、悲しむ間もなく歩き続けました。

実は、私はきょう初めて主人の戦争体験を聞きました。

悲惨な話は聞きたくありませんでしたが、未来のために語ろうと決意し、夫婦で話しました。

戦争の悲惨さ伝えたい

  

女子中等部員 小林さん

きょう、初めてひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんの戦争体験を聞きました。想像を絶する話ばかりで衝撃でした。

私は、今月開催される「沖縄戦の絵」展のことを、友達や学校の先生に紹介しています。これからも沖縄戦のことや、学会の平和運動を多くの人たちに伝えていきたいと思います。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。