「広島学講座」に登壇したウクライナの識者に学ぶ

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広島青年部が1989年から開催してきた「広島学講座」は184回を数え、若い世代が平和の尊さを知る貴重な機会となっています。
過去の広島学講座には、核兵器全廃の先進国であり、チェルノブイリ原発事故を経験したウクライナからも、講師を招いています。
今回は、3人のウクライナの識者の過去の講演を振り返ります。

第110回「広島学講座」 2005年2月
「ヒロシマの使命 被爆60年を迎えて」
講師:ユリ-・コステンコ駐日ウクライナ大使

  


コステンコ大使が広島を訪問したのは、被爆60年の2005年でした。

講座では、世界第3位の規模で核兵器を保有していたウクライナが、核兵器を全廃した歴史に言及し、次のように語りました。

  

「青年の皆さん、広島・長崎の皆さん、そして日本人のすべての皆さんは、広島・長崎の悲劇を伝え続けていく、世界に対して核保有国だけでなくこれから核を持ちたいと思っている国々に対しても、そうしたことがどういう悲劇をもたらすかを訴えていくべきであると思います」

  

さらに、池田先生がウクライナの文学に、とても造詣が深いことを通して、ウクライナの民族を称えた次の先生の言葉を紹介しました。

  

「常に前向きに生きる力強さと素直さ。そして周囲に幸福の輪を広げる優しさを感じさせるヒマワリは、わたしの大好きな花の一つです。太陽の花、ヒマワリの如き貴国の方々に、私は深い親愛の念を抱いています。ウクライナの方々は新しい国作りという、困難な作業に皆が勤勉さをもって、心ひとつに合わせて取り組まれている。本当に偉大なことです」


かつて、ウクライナは核実験施設の跡地に「ヒマワリ」を植えたことでも有名です。そこには、平和と幸福を願う人々の強い思いがありました。

  

爆心地の真北にある世界平和祈願之碑の前で


一方、日本では、寒い冬を乗り越えて咲く「桜」が温かな春の象徴です。

この広島訪問の折、コステンコ大使は、北広島町の大朝にある中国平和記念墓地公園を訪れ、すべての核犠牲者を追悼する「世界平和祈願之碑」を見学しました。

そして、碑のそばに、ウクライナと日本の平和友好の証として桜の木を植樹したのです。

今もその桜は、両国を結ぶ「平和のシンボル」として、毎年春になると美しい花を爛漫と咲かせています。

  

中国平和記念墓地公園の植樹式であいさつするコステンコ大使

第132回「広島学講座」 2008年11月
「チェルノブイリ原発事故から22年 ウクライナのヒバクシャは今 小児科医療現場から」
講師:ブヤーロ・ヴィクトル小児科医

  


肥沃な穀倉地帯とひまわり畑。街には色とりどりの教会が建ち並ぶ。この美しいウクライナの町を、チェルノブイリ原発事故の悲劇が襲ったのは1986年でした。 

事故から22年がたった2008年、広島学講座に登壇したヴィクトル医師は、この時の出来事を述懐しながら語りました。

  

「1986年4月26日の午前1時23分、あの事故は私たちの生活を一変させました。しかし、この出来事を悲劇で終わらせるのではなく、この事故から教訓を引き出すことが、新たな被害の拡散を防ぐのです」


チェルノブイリ原発事故では、広島に投下された原爆の数百倍もの放射線が放出されたとも言われています。

ヴィクトル医師は集中治療室に立ち、事故の後遺症を患いながらも懸命に生きようとする子どもたちに向き合いました。

日本からの送られた医療支援や財政支援は、直接的に多くの命を救いましたが、故郷を追われた子どもたちには、メンタルのケアが必要でした。

その中で、病床に沈む彼らを喜ばせたのは、日本の子どもたちから届けられた折り鶴でした。その真心が、彼らの生きる原動力となったのです。

  


〝子どもの幸福のために〟と医療現場に立ち続けたヴィクトル医師は、講座の最後に強く訴えました。

  

「今の地球上のどんな国であれ、世界のどんな人であれ、危険が存在し、人々の争いがある限り、全く安心ではいられません。未来の子どもたちに責任を感じているのなら、皆で力を合わせて、その課題に立ち向かっていくことが大切です」


いつの時代も、争いの犠牲になるのは、何の罪もない子どもたちです。

ロシアとの戦争が続くウクライナでは、今も多くの医師や看護師たちが医療現場の最前線で、目の前の命を見つめています。

子どもたちの未来に何を残すことができるのでしょうか。大人たちの責任が今、問われています。

第144回「広島学講座」 2011年7月
「チェルノブイリ原発事故から25年――挑戦と応戦で乗り越えたウクライナ」
講師:ミコラ・クリニチ駐日大使

  


チェルノブイリ原発事故から25年がたった2011年、日本では福島第一原発の事故が起こりました。この年に広島を訪れたクリニチ大使は語りました。

  

「チェルノブイリの復興のために真っ先に応援して下さったのが日本でした。創価学会の青年部の方々が医薬品を届けていただきました。だからこそ、私たちも真っ先に支援をしたのです」


クリニチ大使には、反核への強い思いがありました。1991年のソ連崩壊時、ウクライナには1900個以上の核弾頭が存在し、世界第3位の核大国でした。しかし、核兵器反対の声が高まり、96年に完全非核化を成し遂げたのです。

クリニチ大使は寄稿文でこう語っています。

  

  

「ウクライナ人と日本人ほど、核不拡散と全廃のために積極的に働きかけられる国民はいません」


2022年の現在、テレビや新聞ではウクライナでの戦争の様子が伝えられ、見るに堪えない光景が広がっています。ロシアが核使用を示唆するなど混沌とする中、日本では「核共有」の議論や、「非核三原則の見直し」といった声が出始めました。しかし、その発想の前提にあるのは「核抑止論」です。

核兵器による平和の維持が、いかに脆く、幻想にすぎないかは、米露の核軍拡競争の歴史に照らして明らかです。

  

「人類は核兵器と共存できない!」というメッセージを、今こそ、被爆地・広島から全世界へ発信していかなければなりません。


そして、30年という両国の友好の歩みを感じながら、さらなる未来へ向かって手を取り合い、誰もが安心して暮らせる平和な世界を共に築いていきたいと思います。

最後に、ウクライナの識者であるズグロフスキー氏と池田先生の対談集『平和の朝(あした)へ 教育の大光』に記された池田先生の言葉を紹介します。

  

  

「どんな闇夜にも、必ず希望の朝は来る。(中略)。両国の人々が厳然と示してきた人間の不屈の心、希望の心、同苦の心、連帯の心――。この心を幾重にも広げ、強固なものとしゆくかぎり、たとえ時間はかかったとしても、克服できない困難は断じてない」