被爆証言「ヒロシマ 1945年8月6日」—語り部:小倉桂子さん

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語り部:小倉桂子さん(平和のためのヒロシマ通訳者グループ代表)

1937年(昭和12年)8月生まれ。8歳のとき、爆心地から2.4キロの牛田町の自宅近くで被爆した。
夫(故・小倉馨さん)は広島平和記念資料館館長を務め、ヒロシマを世界につなぐために尽力。その遺志を継ぎ、被爆体験の継承に取り組む。
1984年(昭和59年)、「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を設立。
2023年5月に開催されたG7サミットで首脳陣に被爆体験を語った。

  

第20回「被爆体験を聞く会」(主催=創価学会広島女性平和委員会)を2023年8月6日(日)に開催。語り部として、平和のためのヒロシマ通訳者グループ代表・小倉桂子さんが当時の被爆体験を語りました。
※本記事は要旨を掲載しています。

(以下小倉さん証言)

“あの恐怖を二度と誰にも味わわせてはならない”
真実を知ることが第一歩 共に核兵器廃絶へ行動を

  

私が42歳の時、広島平和記念資料館の館長も務めた夫の馨が突然、亡くなりました。その悲しみと原爆による痛みを胸に、世界の人に広島の心を伝え続けてきました。
 
愛する人たちの命を一瞬にして奪う核兵器は絶対悪だという思いがあれば、誰だって“語り部”になれると思います。
 
G7(先進7カ国)広島サミットで、私は各国の首脳の方々に佐々木禎子さんの話をしました。「助かって良かった」と言っていたたくさんの人たちが、けがもしていないのに亡くなった。数日のうちに亡くなった人もいれば、禎子さんのように10年後に突然、白血病で亡くなる人もいる――この恐怖こそ、核兵器の残虐さを表していると思います。
 
私は1937年(昭和12年)8月4日に生まれ、原爆が投下された45年(同20年)8月6日は、爆心地から2・4キロの牛田町に住んでいました。
 
8歳だった私が見たものを一緒に見ていただきたい。私が嗅いだ臭いや驚いたこと、悲しんだことを追体験してもらいたい――そういう思いで、お話しさせていただきます。
 
8月6日の朝、父が私に「今日は学校を休め!」と言いました。「なんだか嫌な予感がする。今日は何かがあるはずだ」と言うのです。私は独りぼっちで家の蔵のそばに立っていました。
 
8時15分、「ピカッ」と光りました。色がないとは、ああいうことなんですね。見ていたものが真っ白でした。次の瞬間、爆風で吹き飛ばされ、地面にたたきつけられて気を失いました。目を覚ますと辺りは真っ暗。最初は、よっぽど長い間、寝ていて夜になったのだと思いました。
 
ふと見ると、一軒の納屋が燃えていました。「ピカッ」と光った瞬間に、燃えやすいものは一気に火が出るんです。
 
想像してみてください。街の真ん中で「ピカッ」と光った。その瞬間に洋服にパッと火が付く。一瞬で黒焦げになる人もいるし、燃える服のまま逃げている人もいっぱいいる。
 
目が慣れてくると、周りは全部、壊れていました。やっとの思いで家に戻ると、何百というガラスの破片がセメントのようなところにも、堅い柱にも突き刺さり、天井が吹き飛んでいました。父は大きな松の木の後ろにいて助かりました。
 
外に出ますと、(強い放射能を含んだ)いわゆる「黒い雨」が降ってきました。白いブラウスに、黒い雨で点々と灰色のシミがついて、洗い流すことはできませんでした。
 
広島市内は火の海で、多くの人が私の家の近くまで逃げてきました。一番に感じたのは、髪の毛の焼ける臭い。そして、「何をぶら下げているのかな」と思ったら、手の皮がむけてタラっとなっている。みんな手を上げて、お化けのようでした。手を下ろすと痛いんです。上げるとまだ楽というのもあって、みんなそうしていた。
 
そういう人たちが壊れた私の家にも入ってきました。家の中は血と膿の臭いが充満していました。
 
家の外では多くの人が座ったり、寝たり、何時間かしたら亡くなったりという状態でした。ある人が私の足首をつかんで「水、水をください」って小さい声で言うんです。井戸水をヤカンでくんで、みんなにあげた。すると、2人の人が飲んだ直後に目の前で亡くなりました。
 
その日の夜、父が子どもたちに、「やけどの重傷者に水をあげたら死ぬことは分かっているな。おまえたちはそんなことしていないだろうな」と言います。兄は、「そんなの常識だい」と言うんです。私はびっくりして、「そんなことはしていない」とうそをつきました。その日から、夜になると怖い夢を見て悶々としました。それが長い間トラウマ(心的外傷)になり、脱却するのに10年かかりました。

道で倒れている人たちを見ていると、どこからともなく大きなハエが来て傷口にたかっている。卵を産んで、夕方になるとウジがわく。そのハエを追い払う手が動かなくなると、その人は死んでいるんですね。すると誰かが近くの公園に連れていくんです。
 
私の父は、幸いけがをしていなかったものですから、毎日、公園に行って遺体を荼毘に付していました。約700人も。父が「お前たちは来ちゃいけない」と言うんですけど、行かなくてもひどい臭いが漂ってきていました。
 
高台に上って広島の街を見ると、あちこちから遺体を焼く煙が立ち上って、異様な光景でした。
 
また、子どもが帰ってこなければ、親は当然、見つかるまで捜します。見つかればいいですけど、見つからなかったらいつまでも捜し回って(残留)放射線を浴びる。子どもが帰った時、お父さんやお母さんが原爆症になっている、先に亡くなるという例もたくさんあるんです。 
 
何が怖かったかというと、その時、広島にいた人は“お嫁にいけない”といううわさが流れたこと。原爆が落ちた年に広島にいたということで破談になった人もいた。だから私たちは「言わない」。言わないで隠しているのは、放射能に対する恐怖からなんです。全然見えないから、「一体いつ、そういうことが起こるのだろう」と心配しました。
 
口には出さないけれども、被爆者は自分の子どもと、そうでない子どもをいつも比べている。風邪をひいても“うちの子は、まだ治らない。もしかして私が浴びた放射線のせいだろうか”と思う。
 
もう一つは「原爆ぶらぶら病」。本当に調子が悪いのに外から見ても分からないから、「被爆者は怠け者だ」とか「すぐ疲れる」とか言われる。「すぐ風邪をひく、おなかが痛くなる」と差別されるんです。
 
また、被爆者がお風呂へ行くと、「ケロイドがうつる」などと言われて、長い間、お風呂に入れなかった人もいました。
 
どうしてこんなひどいことができるのか。私たちはそれを考えなければいけません。

  

(原爆投下から)4年後に、特別な建設法(注=広島平和記念都市建設法)ができて、政府からお金が出て、私たちは広島を再建するために立ち上がるんです。その翌年には、広島カープができる。それがうれしくてね。私たちは、どんなつらい時でも希望がないと生きていけない。その時は、男の子みんながキャッチボールをしている状態でした。そして、だんだんと人が帰ってき始めました。
 
しかし、(原爆投下から)約10年後、新しい核兵器開発競争が始まりました。世界で水爆実験が始まった。そして世界中に核被害者が生まれました。
 
私たち被爆者の思いは、自分たちが経験した恐怖を他の人たち、未来の子や孫に二度と味わわせてはならないということです。
 
私は長い間、皆さんと一緒に核兵器について考えてきました。拙い話ですが、真実を知ることは第一歩です。今日お話ししたのは、ほんの一部ですけれども、それをもとに自分たちなりの方法で、何かをスタートしていただきたいと思います。

  

■英語版は下記リンクより視聴できます

https://youtu.be/GNh1ceijtig

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。