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【戦争証言】広島県 福山市 三鼓照子さん(当時12歳)

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三鼓照子さんは、1933年に広島県福山市に生まれ、1945年8月8日夜、福山市中心部から北に少し離れた横尾町で福山空襲に遭いました。防空壕に逃げ込んだ三鼓さんは、焼夷弾が雨のように落ちる音があまりにも恐ろしく、生きた心地がしませんでした。戦後、食べるものもない中を、一生懸命に生き抜いてきた様子を語っています。

※本記事は、2023年7月30日に開催された第12回「福山空襲・被爆体験を聞く会」での証言を抜粋したものです。

必死に生き抜いた少女時代

福山が空襲を受けたのは、私が千田国民学校6年生の時でした。

  


当時のわが家は、両親と2人の弟と私の5人家族でした。学校へ行っても勉強はできず、空襲警報が鳴るたびに、防空頭巾をかぶり、校舎の裏庭の壁の下にへばりついて、親指で耳をふさぎ、中指で目をふさいで、サイレンがやむまで隠れました。

戦時中、街にはたくさんの標語が貼られていました。「壁に耳あり障子に目あり」「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」標語を見るたびに、どんなに苦しくてもつらくても戦争に勝つまでは、耐えて頑張ろうと自分に言い聞かせていました。

学校では、運動場で空襲の消火訓練のためのバケツリレーをしたり、「敵が来たらこうやって刺しなさい!」と竹やりの訓練を受けました。

「こんなことをしても勝てるんかなあ?」「こんなんじゃったら負けるわ~」と思っても、どこで誰が見たり聞いたりしているのか分かりません。

戦時中、日本では戦闘機の燃料が不足し、松の木から採れる松脂という油が、戦闘機の燃料になると言われていました。

夏休みには4~5人が1グループになって、朝早く山に松脂を採りに行き、松の木の幹にYの字型に傷をつけて、松脂を竹筒にためて学校に持って行っていました。

運動場に大きな防空壕が掘られていて、その防空壕を笹の木で覆って隠すために、山に笹の木を刈りに行きました。

山に行くだけでも大変なのに、笹の木を刈って束にしてくくろうとすると、笹がうまくくくれず、下に落ちていくのをやっとのことで食い止めて、引きずりながら学校まで持って行っていました。

校庭の大きな防空壕には、30人ぐらいは入れると言われていましたが、私は入ったことはなく、大阪から集団疎開してきた子どもたちが入っていました。

  


戦時中は食べ物も配給制で、限られた物資を隣組で公平に分配されていました。配給制といっても家族が食べられるほどの十分な食料はなく、だんだんお米もなくなって、たまに麦があればいい方で、いつも腹をすかせていました。

豆腐屋に並んでおからを分けてもらって、おからご飯にして食べました。味が付いていない麦や、小麦の皮を全部食べました。

なづな、よもぎなどを採って食べ、道や土手に生えているものは何でも口に入れていました。

運動場を開墾して、サツマイモを植えていました。運動場の土は栄養分もなくて、食べられるようなサツマイモはできなかったのですが、芋づるがとてもおいしかったことを覚えています。

  

37歳で出征した父

徴兵制により、17歳から40歳までの男子国民は国民名簿に登録されて、20歳になると徴兵検査を受け、検査に合格した人の中から抽選で3年間の兵役に服することが義務付けられていました。

昭和19年37歳の父も出征していきました。当時は徴兵の人数が多かったようで出征してもすることがなくて、福山の町を駆け足ばかりしていたそうです。

父は駆け足で体力を奪われ、体が弱ってしまい、胸を患って戦争にも行けず、家に帰ってきました。

家に帰っても病気を治す薬もなく十分な食べ物もないため、父は寝ていることしかできませんでした。

日本中で空襲が続き、学校や町内では「今日はどこどこがやられた」という話でもちきりで、とても不安な毎日を過ごしていました。

夜寝る時には、すぐに防空壕に逃げられるようにと、枕元には履物と、かぶって逃げるための夏布団を置いて寝ていました。

8月8日の夜、爆音が鳴り続けた福山空襲

8月8日の夜隣のおじさんが「福山に照明弾が落ちた!」と叫んでこられ、家族みんなで急いで近所共同の防空壕へ入りました。

戦時中は空襲の避難場所として各家庭に防空壕を掘ることが義務付けられていました。

わが家では寝たきりの父のために、家のすぐ裏に畳一畳ぐらいの防空壕を掘っていたので父だけはそこへ寝かせました。

防空壕に逃げ込んでも、B-29の爆音と爆撃を知らせる火の見櫓の鐘をたたく音が響いて、頭がおかしくなりそうで、焼夷弾でシャーシャーシャーシャーという雨のように落ちる音もあまりにも恐ろしくて生きた心地はしませんでした。

  


音がやんで恐る恐る防空壕から出てみると、山の向こうの福山駅の方の空が真っ赤に燃えていました。近くに目をやると真っ暗な夜道を、ゾロゾロとたくさんの人が布団をかぶって道幅いっぱいに北へ向かって歩いていました。

  


福山駅は空襲で駅舎が被災したため、福山駅の北にある横尾駅から、三次の十日市行きの下り列車に乗ろうと、翌朝はたくさんの人たちが横尾駅に来ていました。

  


私の家が横尾駅のちょうど前なので、私にも「何かできることはないか」と思い、母と一緒にバケツに井戸水をくんで柄杓を入れて、家の外に置いておりました。

バケツの水はみるみるうちに空っぽになって、2回3回と井戸水をくんできては皆さんに出しました。

「遠い親戚じゃけど駅家の方へ知り合いがおるけえ、これから行くんじゃ!」と言う人や、「いっぺんには列車に乗れんので横にならしてくれ!」と何人もわが家に入ってこられました。

福山で見た原爆の惨状

8月8日の空襲の後、福山駅はすぐに復旧し、やがて列車も通れるようになりました。その頃、8月6日に広島に新型爆弾が落とされたことを知りました。

原爆が落ちて、一週間くらいたった昼過ぎのこと。横尾駅に列車が停まり、ザザッと大きな音がしました。

横尾駅に行ってみると、担架に乗せられた人が次から次とプラットホームに降ろされていました。

みんな白衣を身に着けていましたが、係りの人が「広島で爆弾にやられた人じゃ!」と言っていました。

原爆で顔の半分が、炭のように黒くなっていた人もいました。足元がおぼつかず、「トイレへ行きたい」と言う人を、2人がかりで駅のトイレに連れていっていました。

「ここにおる人もそう長くは生きられん」と、係りの人から聞きました。15~6人ぐらいの人は、体に膿が出てきて、そこにハエがたくさんたかっていたので、私はうちわであおいであげました。

その後、大型のトラックが来て、その人たちは荷台に順番に並べられ、薄いゴザのようなものがかけられていました。

原爆で傷ついた人たちは、動き始めた列車に乗せられて、爆心地から数十キロも離れた所に何カ所も分散して運ばれ、救護されましたが、残念ながら身元も分からないまま、亡くなっていった人も多くいたそうです。

終戦後も続く厳しい生活

「必ず戦争に勝つ!」と聞いていましたが、日本は8月15日に終戦を迎えました。戦時中は灯火管制といって、夜外に明かりが漏れて、爆撃を受けないように電球に黒い布を巻いて、生活していました。

口々に「戦争は負けたそうな」「これで戦争は終わった」と言っているのを聞き、私はそんな生活からやっと解放され、「これで今晩から電気が付けられる」と思うと、少し明るい気持ちになりました。

戦争が終わってホッとしたのもつかの間、戦後は食べることにも事欠く状態で、農家の親戚から食べ物を分けてもらいに行きました。

帰り道には、警官があちらこちらに立っていて見つかると全部取り上げられるので、母と一緒に食べ物を服に隠して駆け足で帰りました。

母が嫁入りに持ってきた着物や羽織そして私の着物までも全部売ってお金に替え、病気で寝ている父の薬を買い、家族の食べ物に交換しました。

少しばかりの田畑や家の作業で母はとても忙しく、できることはやろうと下着や足袋などは、全部自分で縫っていました。

戦後義務教育が始まりました。勉強できることになっても、戦争の後始末をしただけで、帳面も紙もなく、食べていくこともままならず、学校に行けない人も多くいました。

戦争に負けた日本は、民主化を進めるために戦争に関係のある言葉や文章を、全部墨で消し、読めないようにするという命令で学校の教室では先生の指示に従って、教科書に墨を塗る作業が行われました。

私は中学校でABCが書けるぐらい英語も教えてもらい、少しだけ勉強ができました。戦後復興の混乱期の中、列車に乗って宮島へ修学旅行にも行かせてもらいました。

  

父と弟に続き、結核が見つかる

昭和22年に父が40歳で亡くなり、続いて上の弟も15歳の若さで亡くなりました。2人とも結核でした。

今では結核で亡くなる人はいませんが、当時は治療薬や予防接種もなく、結核で亡くなっていく人が多くいました。

昭和30年、会社の健康診断で私にも結核が見つかり、就職したばかりの会社を辞め、入院することになりました。

その頃、母は近所の友人から誘われて、初めて創価学会の会合に参加し、教学に裏付けられた確信あふれる信心の話を聴き、「娘を死なしてなるものか!」と入信の決意を固め、必死でお題目を唱え始めました。

入院から1年余りして、退院して家に帰ってくることができました。「元気になるように!」と祈ってくれていた母の思いに触れて、私も信心を始めました。

  


その後も何度か結核を発症しましたが、そのたびに健康になれるようにと祈り続け、次第に薬もよく効いて、だんだん元気になりました。

昭和34年には結婚もすることができ、夫も入会して夫婦で信心できるようになりました。昭和56年8月4日に、福山市保健所から結核が治ったことを証明する通知を受け取りました。

私は戦争で食べることも生きることも大変な青春時代を過ごしました。満足に勉強もできなかったけれど、創価学会の中でいろんなことを教えてもらいました。

今では友人から「あんたはいろんなことを知っとるなー」「三鼓さんが目標じゃ」と言われます。

これからも地域の皆さんと共に元気に頑張ってまいります。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。