2024.09.06
【被爆証言】広島県 中瀬百合子さん(当時15歳)
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1929年、アメリカ・サンフランシスコで日系二世として生まれた中瀬百合子さんは、2歳の時、母と帰国し、叔母夫婦の養女となりました。15歳の時、爆心地より約3キロメートルの学徒動員先の糧秣支廠(りょうまつししょう)で被爆。大きなけがはありませんでしたが、2、3ヶ月間、下痢がとまりませんでした。戦後、アメリカの兄に呼ばれて渡米し、同じ日系二世の夫と結婚。その後、家を継ぐため、夫と2人の子どもと共に帰国しました。地獄のようだった原爆の悲惨な状況を、インタビュー形式で語っています。
※本記事は、2021年8月6日に開催された「被爆体験を聞く会」(広島女性平和委員会主催)での被爆証言を抜粋したものです。
アメリカと広島で過ごした幼少時代
――中瀬さんは今おいくつですか?
91歳ですかね。
――生まれた場所はどちらですか?
アメリカのカリフォルニアのセバストポールという所だと思います。
――中瀬さんのお父さんお母さんはどちらのご出身ですか?
出身は宇品です。やはり長いことアメリカにおりましたんでね。
――アメリカで中瀬さんが生まれた時には、お父さんは既にいらっしゃらなかった。どうしてお父さんはいらっしゃらなかったのですか?
さあね。貧乏じゃったからじゃないかと思うんです。でも私が生まれた2週間前に、亡くなっているようなんですよね。父のことなんかね全然聞いたことないんですよ。
――2歳になる前に広島に中瀬さんは来られましたけど、その時はどなたと一緒にアメリカから日本に来られましたか?
(7人きょうだいのうち)下3人を連れて帰ったということは聞いているんですけどね。ですから、私と兄と姉とね、そこで兄弟が離れ離れになってしまったということですね。
――広島に4人で帰ってきました。それからの生活はどうでしたか?
それからはね、私は母の元を離れて母の妹の所に養女に来たんでしたね。それが現在なんですけれど、養女に来た所の母は学校の教員をしていましたんで、父の方は軍事の方の仕事をしていましたんで、両親とおばあちゃんと、私で4人暮らしでした。
――末っ子の中瀬さんだけがお母さんの妹さん、叔母さんに当たるわけですけれども、叔母さん夫婦に子どもさんがいらっしゃらなくて、そこに養女に入られたというわけですね。少女時代、小学校ぐらいまでの間で何か楽しい思い出とかエピソードとか残っていたら教えていただけますか?
年に2回くらいですけど、振り袖を着せてもらってね。それでお花見時分には、お弁当を作ってもらって、それを持ってお花見に行くのがね、近所のね、友達と。
昔はね、お正月とお花見の時と、それからお盆はまた別ですけど、振り袖を着せてもらっていたんですよね。それが楽しかったですね。
それが少女時代の楽しい思い出ですね。当時の晴れ着というのは特別なものがきっとあったんでしょうね。
なぜ戦争をするのか、いつも悩んでいた
――そういう少女時代を過ごされた中瀬さんですが、1941年(昭和16年)ですね、中瀬さんが当時の国民学校、今でいう小学校6年生の時12歳の時に、太平洋戦争が始まったわけですが、その時のことを何か覚えていますか?
戦争の時のことよね。やっぱりつらかったですね。アメリカは私の生まれた所でしょう。それと戦争をするって、何でそんな戦争しなきゃいけないのかなと。一人で悩んで、人に口外して言うわけにもいかないし、つらかったですね。
――戦争が始まって、その翌年ですね、国民学校を卒業されて。その後は中瀬さんどうされましたか?
学校行って(勉強する)というのは、あまりないんですよね。戦争ばっかりね、戦争のことばっかりですわ。なんで戦争をしたんじゃろかってね、一人でね、いつも悩んでおりました。
――広島女子高等師範学校附属の山中高等女学校に進学をされたということですね。女学校に入学されて、1年生のうちは、まだ授業があったけれども、2年生14歳くらいからは、戦争がどんどん激しくなって、授業がなくなっていったということなんですけれども。授業がなくなった分、勤労奉仕が始まったと。具体的にはどのようなことをされましたか?
私は勤労奉仕に行ってて、牛肉の缶詰を作っていたんですよね。その牛肉の缶詰も初めは、流れ作業で、どんどん出てくるんですよね。缶詰の肉を押さえて、お汁をぱっと掛けて、それで次へ回して。というような感じで、缶詰を作ってましたよね。
(戦争の)終わりごろは、牛肉がなくなって、その缶詰を作るあれ(作業)もなくなって、農作業に埋立地の方へね、行ってました時に、だんだん戦争が激しくなって、勉強をすることなく。
当時の暮らし向き
――戦争のためのそういう作業をしていたということですが、では中瀬さんご自身とか当時の一般市民の人の暮らしは、どういう感じか覚えていらっしゃいますか?
暮らし向きは大変でしたね。これくらいのかぼちゃを、何日に1回か母がね、湯がいてくれるんですよね。でも普通の食事は、全然していませんでしたね。
これくらいのかぼちゃ一切れをね、2、3日ぐらいに1回ぐらいでしたっけね、頂くのがね。それでおなかが、キュンキュン鳴っても仕方がないね。
それで今思えばね、道の草を取って、今でも思い出しますけど、それを食べていました。それが楽しみなんですよね。猫のしっぽのみたいなのがあるんです。それをね手に持って、遊びながら食べてましたね。
――おいしいんですか?
それはおなかがすいとるからね、楽しくておいしかったですよ。
――珍しいものも取って、食べたと聞きましたが。
バッタを取って長い茎に刺して、かわいそうにね、それを持って帰って焼いて食べるんですね。そんなこともしていました。
――(戦争中の)特に記憶に残っているような風景とかありますか?
私は糧秣支廠ですけど、今は資料館になっていますけどね、埋め立てでね、(周りに)何もなかったんですよね。埋め立てた所はそこに上がって、いろんなことを見ましたけど、戦争中の飛行機がカラスのようにね、もう編隊になって「呉に行くんだ」って言っていましたけどね。Bー29(アメリカの爆撃機)がほんまにカラスのようでしたね。それが印象に残っていますね。
原子爆弾が投下された時
――広島に原子爆弾が投下された1945年昭和20年の8月6日月曜日ですけども、この日朝、中瀬さんはどこにいましたか?
月曜日なので勤労奉仕に行ってましたね。だから勤労奉仕っていうのがね、今の資料館ですよ。資料館でぺちゃくちゃしゃべってましたね。きっとその瞬間、8時15分に原子爆弾が落ちて。
――その瞬間はどうでしたか?
瞬間はね、なんか様子が、照明弾じゃってね、ピカって光ったもんでね。照明弾しか思いつかないんですよね。同級生は、「あー、照明弾じゃ!」言うて、机の下にもぐったと思うんですよね。
もぐって、こうしてもぐって、そしたら旋風がビャーっとね、部屋の中をね、流れてきましたからね。ずっとこうやって押さえて、その机の下にもぐってたんですよね。
それは一時で静かになりましたんで、外に出てみたら、みんな同じように手をやってたところ、手が黒くなっているし、顔がね、指の跡でこうなってるんですね。
それで「はっはっは」言うてみんなで大笑いしてね。したようなことを覚えていますけどね。
――すごい爆風、旋風とおっしゃいましたけど、爆風が起きて、中のほこりとか土とかが舞い上がって、それをみんなかぶったということですね。
その時に着替えの途中だったから、制服とかいろんなものが、飛ばされてたということですね。あの天井にぶら下がってたりしてね。「あそこにぶら下がってる制服誰~?」言うてからね。
――糧秣支廠の建物は、とても頑丈だったので、壊れることもなく、だから中にいた中瀬さんたちのグループは、けがをする人もいなかったということですね。
ええ、いなかったんですよね。ですからね、その旋風が済んでから、みんなね、てんでに外に出て、そんで空を眺めた時に、もう帰ってもよろしいということで帰ったんですけれども。
その時に市内の様子を見に、ちょっと小高い所が埋め立てられて高くなってましたんで、そこに行ってみまして、家はあるけれども柱だけになってましたね。帰る所はあるねと思って、こう見てましたからね。
「家に帰ってもいいよ」と先生に言われて帰ったんですけども、帰ってから両親がね「ああ無事だったか」言うてからね、喜んでくれました。建物の中は大丈夫だったけども外は家が崩れていたりとか。
――中瀬さんの家も柱だけに?
瓦をみんなくちゃくちゃと混ぜたようにね、どこの家も瓦だけ残ってるんですよね。柱と4本、建物の4本柱と瓦だけ残って。その瓦がごちゃごちゃと混ぜたような感じで残ってましたよね。一回それで家に帰られたんですけども、それから友達と学校、千田町にある女学校に行ってみよう、ということで向かったわけですよね。
「見たらいかん」、御幸橋で見た光景
――その途中見た街の様子はどうでしたか?
友達は、「学校に着くまでいろんなことが起きてるけど、それを見とったら切りがないし、もう黙々と学校に行こうね」と言ってね。「はいはい~」言うて御幸橋を渡ろうとしたんですけれども、そこの御幸橋の所に、ずらーっと両方にけがした人が、寝かされてるんですよね。
その中に、私が行こうとしとった時に、同級生が教壇と何やらに挟まれて、こう胸をぱかっと出てるんだっていう話をね、「見たらいかん」と言われたんですけど、やっぱりこうね、御幸橋にずらーっと並べられとる患者が目について、同級生がね、それで「えー」って話ししたら、「実はこうこうで教壇とあれで挟まれて」って「お水ないかね」と言われるけど、お水は探しても、探してもなかったんですよね。
それからどうなったか、ちょっと記憶になかったんですけど、学校に行けるようになって、その人に会ったら元気そうだったんで、安心したということだけは覚えてますけどね。
それで御幸橋は完全に患者さん(被爆者)でいっぱいでしたね。被爆してけがした人が並べられていて、寝かされてね。
――寝かされてたんですね。御幸橋を渡っていった先が学校なんですけども、結局、学校まで行かずに、御幸橋を引き返して家に帰ったんですよね。
でしょうね。そこのところね、はっきりね、思い出そうとしても、思い出せないんですよ。
――その時は何を見ましたか?
街の家の中から外を見た時は、地獄の行進ですね。目が飛び出した人やらね。それこそ地獄の行進はあんなものかなと思いながら、私の家の窓からこうずーっと見てましたけど。
もうそれが市内の人が全部、宇品に行って、港から船に乗ってどっか行くようにということだけをね、聞いたらしくってね。
もうその髪の毛が、がーっとなったような。もうほんまあれは地獄へ行くような感じ。言葉は悪いですけどね。
実の母との再会
――実のお母さんはどうでしたか?
それがね、いろいろな所から勤労奉仕に行ってたんですよね。カワノママというのが、産みの親なんですけども、鶴見橋へその日ちょうど勤労奉仕で出たわけですね。
――実のお母さんが帰ってこないということで、どなたが探しに行かれたんですか?
私は今の家の養女で、大切な娘でしたんで、うちの育ての母と姉と一生懸命、市内を回ってその母を探したんですよね。探したら結局、県病院にいたんですよ。
そして対面して、目はつぶれるようになっているし、分からないので、姉が「やーお母ちゃん!」と言うたら、「おーヒサコ!」ということでね。声とあれで、やっと本人同士も分かって、抱き合って泣いたような感じでした。
――今「県病院」とおっしゃったんですけど、当時の陸軍共済病院でお姉さんが、お母さんを見つけたと、その時に声と、あと歯並びで分かったということなんですね。そのくらい顔が分からなくなっていたと。お母さんは陸軍共済病院から次にどちらに移されたんですか?
共済病院から、島のね、似島ですかね。似島の方で、一応みんなと一緒にいたんですけれど、姉がずっと付いて看れる状態でしたからね。母は違う所へ送られて、鯛尾っていいますね。
そこに行きまして、そこで姉が一生懸命看たような感じです。似島はね、講堂に全部やられた人、市内から全部行かれる人は、一緒にいっぱい講堂に寝らされて、原爆に遭った人ね、寝らされて。
「お母さーん」って寝とった人が「お母さーん」って立ったら、またぱたーんって倒れてね、というような感じでしたよね。
――お母さんは安芸郡坂町の鯛尾という軍の臨時救護所に移されていたと。そこでやっと中瀬さんはお母さんに会ったわけですよね。その時はお母さんに久しぶりに会って、どんな気持ちがしましたか?
母に会ったのはうれしかったけれども、その母は大変な状態でしたからね。足が膨れとるんですよね。足は膨れとるんで、もう皮膚は死んどるんですよ。
それで姉がね、皮膚をこう切って、そのこうちょっと盛っとるんです。その皮膚がもう死んでるからね。これをぐじゃぐじゃ切って、はぐったら、そこにウジがわいていて、足にウジがいっぱいあって、膨れとったということなんですね。
そうなんですよ。私はそれを見た時に、あげそう(吐きそう)になってね。姉は姉で一生懸命それをこさげて、私はようやらんかったね。気絶してしもうて。気を失ってそれが2カ所くらいありましたね。そういうところが。
――お姉さんがそうやって懸命に看病されて、お母さんも何とかその後、家に帰ることができたんですよね。
はい。
原爆投下後のこと
――原爆が投下された後の街の様子を少しお聞きしたいんですけども。
街の様子はもうぐちゃぐちゃで、私はそんななんと言いましょうか。街の様子まで覚えてないんですよね。それがいっぱいあちこちで、遺体を焼いていたということですね。
――その時のことを教えてもらえますか?
御幸通りをご存知ですかね?御幸通りがね西側と東側うちの方は東側なんですよ。西側が全部疎開になって、家がなかったんですよね。そこで亡くなった人を焼いてましたね。
焼いてましたが、その焼く木がなくてね。なんだかんだ拾ってきて、トタンかぶせて、焼いて、その臭いがまたたまらなかった。その空気がね、どこ行っても、その臭いがするんですよ。
イワシを焼いたわけじゃない。魚を焼いたわけじゃない。人間を焼いているんですからね。まあそりゃあ地獄ですね。そういう強烈な臭いが、鼻をつまんで、どこか行きたいんですけど、その空気のもうね、あれになってるんですよね。えらいこっちゃでしたよ。
――原爆の後の中瀬さんの体調に変化は?
体調の変化?そりゃあね、広島中の人が下痢。ひと月中くらい。みんな誰に聞いてもね、下痢で、それからね、疥癬という病気になってね。つぶつぶ。皮膚病ですね。
それがね、なってない人は珍しく、痛いようなかゆいような湿疹が、かゆいもうどこもかもかゆいの。そういう時期がありましたねえ。
終戦後、アメリカへ
――戦争が終わりました。山中高等女学校の校舎が焼けたんですけども、無事、中瀬さんは女学校を卒業されて、それから洋裁学校に行って和裁を勉強されて、お仕事をされ始めたわけですね。社会人になられたんですね。それから原爆が落ちて10年後、戦争が終わって10年後の1955年25歳の時に、アメリカに一人で渡られたわけですけども、この時はどうしてアメリカに行かれたんですか?
行かれるチャンス。長男(兄)がやっぱり心配していましたんでね。「来ないか?」ということで「行くわ!」というような感じで行ったと思います。
――戦後お姉さん夫婦も、アメリカに行かれてそして実のお母さんもアメリカに渡られたわけですけども、お母さんは原爆で顔に大やけどを負って、人相が変わるくらいの大やけどを負っていたとのことなんですけども、アメリカではお元気でその後過ごされましたか?
うん、まあね。
――そして(お母さんは)アメリカで終生、最後までアメリカで過ごされたということですが、原爆のこととかですね、アメリカで話をされることはありましたか?
いやアメリカではね、原爆の話は、私はアメリカで母と一緒に生活をしたわけではないですからね。原爆の話をするような人じゃないんですよ。
もうどう言うかね、自分が生まれた所だし。育った所だし、アメリカを憎んでもしょうがない。日本を憎んでもしょうがないような感じの母でしたからね。一切戦争の話はね、しなかったです。
――中瀬さんはアメリカに渡って、また10年後に広島に帰ってこられたわけなんですけれども、それはどうして帰ってこられたんですか?
その間に結婚し、子どもができてましたんでね。それで私を養女にもらって、跡取りということで、育ててましたんでね。
それで両親が元気なうちに帰ってあげて、役にも立ってあげたいと思って、帰ってきたんですね。
――養父母さんのお世話をするため、また家を継ぐために広島にご家族で帰ってこられたということですね。
はい。
どちらも私が愛する国、平和であってほしい。
――中瀬さんはアメリカで生まれて、日本で育って、アメリカが落とした原子爆弾を受けました。戦争が終わってまた再びアメリカに渡って10年間過ごして、そして日本に帰ってきて、今に至るわけですけども、この話を聞いていらっしゃる皆さんに、中瀬さんからぜひメッセージをお願いしたいと思います。
戦争をしないことですね。
――中瀬さんはアメリカと日本両方で暮らしたことがあるわけですけども、どちらが自分の国とか思ったことはありますか?
それが思ったことがないんですよね。どっちもどっちも愛する国です。平和であってほしいねえ。戦争なんかしないでほしいねえ。ただただそれを感じます。
――今こうやって元気にずっと生きてこられて皆さんに戦争をしないこと平和である大切さを伝えていきたいということでこうやってお話をしてくださっているということですね。日本に帰ってこられて1969年8月20日、40歳の時に創価学会に巡り合って入会されたということですね。
やっと本物の宗教に巡り合えて、自分はこれをやらせていただくということを思いましたね。
――そして今日までずっと信心を根本に、強情な信心を貫いてこられたということですね。一番の喜びとか確信といったら何になりますか?
自分が南無妙法蓮華経。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏。(胸を指しながら)ここの中にあるということを自覚できたということが一番ですね。
一人でも多くの人に(信心の喜びを)しゃべりたいんですけど、でも今やっと一家和楽になりましたんで、うれしく思います。
この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています
●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する
●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。