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【被爆証言】広島県 濱本松子さん(当時8歳)

公開日:

濱本松子さんは8歳の時に、友だちと登校中、爆心地より約4キロメートルの地点で被爆。逃げる際に刺さったガラス片は、今でも足の裏に残っています。
これまで、どうしても人前で被爆体験を語ることが出来ませんでした。しかし、昨今の報道で戦禍に苦しむ多くの女性やこども、罪のない市民が犠牲になる様子や、核兵器の使用さえも示唆される状況に濱本さんは「今こそ伝えなければ!」と、当時の恐ろしい光景を語っています。

※本記事は、2022年8月6日に開催された第19回「被爆体験を聞く会」(広島女性平和委員会主催)での被爆証言を抜粋したものです。

原爆が落とされる前の広島

濱本松子さんは、1937年(昭和12年)生まれで現在85歳。幼い頃は呉市の倉橋島に住んでいましたが、小学校に入学した後、広島市の宇品に引っ越してきました。
その頃は、お父さん、2度目のお母さん、3歳年上のお兄さん、双子のお姉さんと濱本さんの5人家族でした。お父さんは港に荷物を運ぶ船乗りでした。濱本さんは8歳の時、爆心地から4.1キロメートル離れた宇品で被爆しました。

  


(父が)船乗りで、私たちがまだ7歳とか、8歳くらいの時期には、船に乗っていて、船というのは素敵なもので、朝ご飯を父が炊いてくれて、食べようとしたら、朝日がぶわーっと出て、それは新鮮だった。それは船乗りでないと味わえない。そういうのをよく見た。

  

  

原爆が落とされる前の広島は、空襲が比較的少ないということで、広島に逃れてくる人もいたようです。しかし次第に「広島も危ない」「いつか大変なことが起きる」と言われるようになり、濱本さん一家も船に乗って倉橋島の方まで疎開場所を探しに行ったことがありました。濱本さんはこの時、アメリカのB-29爆撃機に狙われ、追いかけられるという体験をしています。

  


(船で)倉橋へ疎開する時に、B-29(アメリカの爆撃機)に追っかけられて、船を(岸に)着けて父は私たちに布団かぶらせて、それでバリバリバリと撃たれたんだけど、船はつないでおらず、父も撃たれたらいけないので私たちが(かぶっていた)一枚の布団の中に入ってきた。

そのすぐそばをバリバリバリと撃たれて、その後、飛行機がどこかへ行ったので(海を)見たら、船が遠くに行ってしまっていたので泳いで取りに行った。それから倉橋へ帰った。

原爆が投下された時

あれはね、8歳(小学)2年生の時に(分散学校へ)「行こうや」と4人くらいで誘い合って歩いていたら、私の3歩前に歩いていた友達が、ピカ!ドカーン!と音が鳴った時に、原爆が落ちた時に、クルクルと回ったかと思ったら倒れた。

その後は知らない。私たちも逃げたから。たぶん死んだんじゃないかね。そうしたら父が「鶴子!松子!」と探しに来て、「昨夜行った防空壕に行け」と言うんで、ガラスなどが倒れた所を歩いていく途中に、私は左足を突っ込んだ。その時に足を切った。

  


でも逃げるのに夢中で、だからそれはもう痛いと思ったけど、防空壕へ行った。そして防空壕の前に行ったら足が(血で)真っ赤になっていて。

原爆は爆発と同時に、強烈な熱線と放射線を放出し、さらに高熱によって周りの空気が膨らみ、爆風となって広がりました。これにより爆心地から2キロメートル以内の全ての木造家屋が破壊され、焼き尽くされました。

広島では原爆が投下された年の12月までに、約14万人が亡くなったと推定されています。
直接被爆しなかった人でも、家族を探すためや、救護のために爆心地近くに行って、残留放射線で被爆した人もいました。

そうした人たちの中には直接被爆した人と同じように病気になったり亡くなる人もいました。原爆投下より5、6年たった頃から白血病や甲状腺がん、乳がん肺がんといったさまざまながんを発症するなど、放射線は長期にわたり被爆者に深刻な影響を与えています。

原爆投下の翌日、市内に入った濱本さんは一面焼け野原となった広島の悲惨な光景を目にしています。

  

  

原爆投下の翌日に市内へ

(原爆投下の)次の日からは船の生活。家は天井が落ちて(住めなくなって)しまったから。私たちは船で生活をしていた。私たちをよくしてくれたお姉さんが倉橋にいて、そのお姉さんが、広島に行ったということで、それで「探してくれ」と父に連絡があった。

(父が)「(探しに)行ってくるから」と言うので、「おまえは足をけがをしているから行ってはいけない」「おまえは家にいなさい」と言われた「いやよくしてもらったから行く」と言って、(父と一緒に)焼け野原を歩いた。

それは見た人じゃないと分からない。親子であろうと思うんだけど、お母さんと娘なのか分からないけど、親子が手を伸ばしてそのまま死んでいた。犬や猫も人間ももちろんそう。みんな焦げていて、焼けた所をお父さんと(歩いた)。

  


「帰ろう、怖いから帰ろう」と言うと、父が「もうちょっと行ったら倉庫があるから。たぶんみんなそこにいるんじゃないか」と言って、倉庫に行った。倉庫にはいなかったので、「歩いて帰ろうか」と言って帰った。その時に御幸橋の川があって原爆が落ちた次の日だから、そこにいっぱい死体が浮いていた。

水あげたら死んでしまう。だけど川へ飛び込んだら、水が飲めると思って、皆飛び込んでいた。皆死んでいた。むしろの上に焼け焦げた女の人、男の人もみんな横に寝かされていた。

「水ください水ください」と言う。「お父さん水くださいと言っているよ」と言うと、「水を飲ませたら、すぐ死んでしまう」「やけどしたら(水を)飲ませたら、いけない」と父に言われた。

  

亡くなった人たちを火葬する兵隊

普通のやけどじゃないから、ござの上に寝かされていて、もうそれはすごいものです。今の埋め立て地(現在の宇品)、そこに穴を掘っていた。そこの穴にいっぱい兵隊さんが、何かを投げ込んでいた。死んでいるから、何をしているのかと、じっと見ていたら兵隊さんが(死体)を入れていた。

  


そしてそれが山盛りになる、そこに石油か灯油をかけて火を付けていた。「あれ何を燃やしているの」と父に聞くと、「死んだ人を焼いている」と。父親らしい人が赤ちゃんを抱いて、穴を掘って埋めていた。死んだのだと思う。埋めていた、それはすぐ分かった。

赤ちゃん(の死体)を埋めているんだろうなと思った。原爆のおかげで食べ物には、ほとんどの人が(困っていた)。裕福な人も皆ほとんどの人が、そういう目に遭っていると思う。

物を拾って食べ歩く生活

私たちだけじゃない。姉と2人で宇品の道を(歩いた)。私たちは(家を)出ていって物を拾っていた。3、4歳の子どもが2階から四角い白い石みたいなのを投げていた。何でもいい、この石でもくわえようと思って。くわえてみたら甘くて角砂糖だった。

(当時は)知らなかった。3、4歳の子がいっぱい投げる。それをいっぱい拾って、それを姉と2人で食べた。あれはおいしかった。今でも角砂糖を見ると、これであの時助けられたなと、思いながら見る。

その当時は(占領政策の)外国の人たちが日本に入ってきた頃だから、倉庫からいろんなものを出してくれた。その中にビスケットがあって、それをよくもらって食べた。日本の兵隊さんもいて、外国の兵隊さんは、ガムやチョコレートをくれた。

歩いていたらビスケットが落ちていたりした。「ビスケットだわ」と姉と2人で小さいのを半分にして食べた。

働き、必死に生き抜いた少女時代

呉のスケート場に働きに行かされていた。その時、懐中電灯と鉛筆と帳面(ノート)とを持って、夜12時にならないと寝かせてもらえない。(字を覚えるために)12時になったらすぐに布団に入って、自分の名前を一生懸命に書くの。

他の字も書いて、でも全部は書けない。1行か2行ぐらい。それでもう寝てしまうわけ。朝まで懐中電灯がついている。今日もできなかった。今日もできなかったという日が何度も続いた。幼い頃から苦労して生きてきた。

40年後に見つかった足に残ったガラス片

濱本さんは、そんな頃、創価学会と出あいます。

(18歳の時)「まっちゃんいい話をしに来たよ」と、「何?」と聞いたら「ちょっと聞いて」と言うから、「上に(家に)上がって」と言って、そこに父もいた。「信心したら幸せになるよ」と。

「それなら信心する」と言って、それで(折伏をされてから)3分。それで信心をすることにした。だから御本尊様に縁がなかったら、今の自分はない。苦しいことばっかりだったから。

それが(原爆から)40年もたった今ごろ、(足に)ガラスが入っているのが分かった。それまで足の傷は治っても、足はいつまでも正座して座ると痛かった。

おかしいなと、傷は治っているのにと思って。そして(ある日)足をくじいた。40年ぐらい前にね、その時に病院でレントゲンを撮って初めて分かった。ガラスが入っていると、すぐ原爆病院に行ったら、「これは間違いない」と言われた。

まだ(ガラスは)入っている。「取り出すなら来てください」と言われたけど、私は傷つけたくないこれ以上、だからもう取らない。

今、体験を語ろうと決めたのは

  

  

その後、濱本さんはお好み焼き屋さんを30年余り続けながら友好を拡大してきました。またその間、家族5人を看病しみとってきました。これまでの人生で被爆体験をほとんど語ったことのない濱本さん。
今回悩みながらも引き受けてくださった、その思いを聞きました。

原爆の話をしてほしいという話を聞いた次の日だった。(ロシアとウクライナの)戦争が始まったのは。本当に驚いた。まずここ(心)が痛くなった。なんで戦争なのかと思って。実際に胸がすごく痛くなった。

絶対に戦争はいけない。人を恨んでもいけない。だから絶対に戦争はしてはいけません。家族が別れ別れになって、どんなにつらいことか。悲しいことよ。(戦争は)してはいけない。

濱本さんは語ります。「今は幸せ」「一人残らず家族の面倒を見てきたおかげで、息子一家や姉たちが、みんな良くしてくれる。友達にも恵まれている。仲間と歌を歌う、その時に心から思う。自分がつらかったことは全部宝になっている」と。

「人が人、自分は自分だから、自分の精神は自分で育てていくしかないから。何があっても負けないでほしい。他人ではなく自分に負けないこと。
私は学校に行かせてもらえず、勉強することができなかったから、その分、見て覚え挑戦してきた。まだまだ頑張る。朝起きると今日一日頑張るぞと自分で自分を励ますの。生命力を出して、自分を明るくして生きましょうよ」と。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。