【被爆証言】「胎内被爆という宿命を使命に変えて」広島県 篠原美保子さん

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篠原美保子(しのはら・みやこ)さん(78)は、生まれる2カ月前の1945年8月6日、広島に疎開していた母親のお腹の中で被爆。12歳の時に突然、原爆の影響による病気に襲われました。
再発の恐怖、いわれのない差別や偏見、出産への不安――数々の困難と戦いながら、原爆の恐ろしさを語り継いできた篠原さん。その体験はアメリカの教科書でも紹介されました。
生命あるかぎり平和の種を植え続けていきたいと、証言活動を続けています。

※本記事は2024年7月6日に撮影した上記動画の内容を記事にしたものです。

  

  

宮崎に住む、篠原美保子さん。12歳の時、突然、原爆による病気に襲われました。美保子さんが生まれる2カ月前の1945年8月6日、お母さんのおなかの中で被爆していたのです。

ショックでした。なんでこんなにしょっちゅう病気になったりするんだろうかって。「いっそ死んだ方が楽だなって」っていう方が、どうしても先に来るんですよね。胎内被爆っていう烙印(らくいん)をつけられたから、いろんな意味で差別されたりとか、絶対に私はもう駄目だなっていう。

この苦しみをつづった手記は、アメリカの教科書にも掲載されました。
美穂子さんは78歳になった今でも、被爆の体験を語り続けています。

被爆の恐ろしさ、後遺症、そういうものを知らせていく、私は使命があるんじゃないかな。

歯茎から出血、手足に無数の斑点が

私は原爆投下から2カ月後の1945年10月2日、東京の板橋で生まれました。その後、私が4歳の頃に両親が離婚。

母と私、弟の3人で、広島の祖母の元に帰ることになりました。毎年8月6日になると、祖母は当時の様子を話してくれました。

東京で生まれた私は、当初は他人事のように聞いていました。しかし中学1年の10月、学校で文化祭の劇の練習をしていると、担任の先生から「歯茎から血が出ているよ」と言われ、拭き取って見てみると、お肉のレバーのような血の塊が取れたのです。

  


拭き取っても、またじわっと歯茎にこびりついてきました。手や足には無数の斑点が出ていました。かかりつけの病院に行き、注射を打ちました。すると、その注射の小さな穴から出血して、白いブラウスが赤くなりました。

翌日、比治山にあるアメリカの原爆傷害調査委員会、ABCCの車が迎えにきました。すぐ帰れるものだと思っていましたが、即入院、絶対安静となり、トイレに行くにも車いすでした。

  


「一体、何の病気?」と母に聞いても答えてくれません。やっと教えてくれた病名は「紫斑病」でした。私は「このまま死ぬのではないか」とベッドで泣きました。

8月6日、母親のおなかの中で「胎内被爆」

美保子さんの両親は、東京の空襲から逃れ、1945年7月ごろ、広島中心部の楠木町にある祖母の家に身を寄せました。

そして8月6日広島に原爆が投下されました。

原爆の威力はすさまじく、その熱線と爆風が一瞬にして街を破壊し、人々を死に至らしめました。

  

  

特に爆心地から半径2km圏内は、壊滅的な被害に見舞われました。両親が身を寄せていた楠木町は、そのエリアにあり、美保子さんはお母さんのおなかの中で胎内被爆したのです。

  


8月6日の朝、買い物に出かけた母は、晴天なので洗濯をしてからにしようと思い直し、そして途中で引き返しました。洗濯を始めたその時、「ピカッ」と光ったと同時に「ドン」という大きな音がしたそうです。

母がどのくらい気を失っていたのか分かりませんが、気が付くと家の窓や戸、垣根が飛ばされていたそうです。外に出てみると、多くの家が倒れ、火の手が上がっていました。

  


母と祖母が疎開先の白木町に逃げる途中、太田川にはたくさんの人が浮いていたそうです。
すれ違う人の洋服は焼け、手や足の皮膚が垂れ下がり、また亡くなった子どもを抱いた母親は体中がやけど。まさに「この世の地獄」だったそうです。

  

再発する病

さらに原爆から放たれた放射線は、生き延びた人々まで苦しめ、たくさんの命を奪いました。美保子さんのように胎内で被爆した子どもの中には、死産となったり、小頭症や重度の知的障害などを発症する人も多く見られました。

千羽鶴を折れば治るかもしれないと、毎日祈りを込めて折りました。1カ月半かけて千羽鶴を折り終えたころ、斑点も消え、退院の許可が下りました。しかし投与された薬の副作用で顔や体が大きく膨れ、薬が効かない体になっていました。

  


夜になると、寝たらそのまま目覚めないのではないかと不安に襲われている毎日。手や足に斑点が出ていないか見る癖がついていました。それでも時がたつにつれ、次第に病気のことは忘れていきました。

ところが高校2年生の時、手を見ると斑点が現れたのです。足には大きな内出血があり、思わずその場に座り込んでしまいました。鏡を見ると歯茎に血の塊がべっとりとついていました。

  


再発だ――。“生まれてこなければ、こんな思いをすることはなかったのに”と母を憎み、毎日けんかが絶え間なくなりました。次第に「死にたい」と思うようになりました。

山に登ったり、太田川の縁にたたずんでみたりしましたが、死ぬことはできませんでした。医者も信用できず、かといって自分で自分をどうすることもできませんでした。

いわれのない差別と偏見

さらに被爆者を苦しめたのは、いわれのない差別や偏見でした。

年頃になり、結婚も考えるようになっていた23歳の時、東京出身の方とお付き合いをしていました。私が胎内被爆と知って、「元気な子どもを産むことができるのか?」と聞かれました。

「大丈夫です」と答えましたが、結局、一方的に断られてしまいました。胎内被爆の烙印が結婚にまで影響するとは思ってもみませんでした。相手を憎むというより、“一体、私に何の罪があるのか”と、原爆を憎まずにはいられませんでした。

その後、28歳の時に夫と出会いました。夫の家族は猛反対でしたが、夫は「自分で遭いたくて原爆に遭ったのではない。再発したら一緒に乗り越えていく」と両親を説得してくれ、1974年9月に結婚しました。

7カ月後に妊娠が分かりましたが、「被爆者の人は小頭症の子どもが産まれる」といううわさを聞いていたので、不安が募りました。夫の母から「どんな子どもが産まれても、びくともしないこと」と声をかけられても、不安は拭えませんでした。

1976年2月に無事、元気な⾧男を出産。78年には⾧女、80年には次男と、3人の子どもに恵まれていました。不思議なことに、子どもが産まれるごとに元気になっていきました。その間、2年に一度、検査のためABCCに通っていました。

1990年2月に検査した時のことです。ドクターが「入院した時は血小板の数が3000でした。今回調べたら21万に増えています。一体、何をされたのですか?」と言われたのです。初めて数値を聞き、びっくりしました。

喜びもつかの間、6カ月後の8月6日「原爆の日」に夫が突然倒れ、脳出血で翌7日に42歳でこの世を去りました。胸にポッカリと穴が空いたようで、どうにも埋められませんでした。

語り部としての転機

夫を亡くして10年目、美保子さんに転機が訪れます。

通訳ボランティアをしている友人から、「留学生に被爆体験を話してほしい」と頼まれたのです。人には話したくないと思っていましたが、役に立てるのならばと、勇気を出して「語り部」の活動を始めました。

活動を始めて2年後、思いがけず私の体験がアメリカの歴史の教科書に掲載されました。
その教科書を見せながら通訳を通して留学生に話をしていましたが、自分で話せるようになりたいと決意し、62歳の時に英語の勉強を始めました。なかなか大変でした。

  


カタカナで振り仮名を書き、半年かかってやっと原稿が読めるようになりました。息子に聞いてもらったところ、「日本語みたいな英語じゃね」と言われました。

2005年、アメリカ、イリノイ大学の留学生の前で30分間、下手な英語でスピーチをしました。ちゃんと通じたかどうか不安でしたが、「よく分かりました」「感動しました」と言ってくれました。

  


ある核保有国出身の学生は「国が核兵器を持っていることを誇りに思っていましたが、広島に来て、資料館や原爆ドームを見て、体験を聞き、核は悪だということが分かりました」「核保有国のリーダーは一度広島を訪れるべきだ」と話してくれました。その言葉を聞いた時、話して本当に良かったと心から感動しました。

「胎内被爆」という宿命を、平和を語る使命の人生に

  

  

悲しみをバネに、舞踊家として精力的に活躍するかたわら、平和運動にも積極的に取り組んでいった美保子さん。しかし、60歳を過ぎたころから、甲状腺の手術、硬膜下血腫、ぼうこうがんなど次々と病魔が襲います。

広島から宮崎に転居して4年になりますが、3年前には乳がんで右全摘となり、昨年はぼうこうがんが再発。幸い、早期発見で軽く済みました。原爆が他の爆弾と違うところは、放射線を出すことです。

人の体に入ると病気になったり、死んでしまったり、ずっと後になって病気になったりします。いまだに病気で苦しんでいる友人もたくさんいます。

次から次へと病気が降りかかってきますが、使命があるうちは全て乗り越えていくと決めて祈り、頑張っています。

私は「胎内被爆」という烙印によって、母を恨み、差別を受け、悩み、苦しみ、泣いてもきました。

しかし、人生の師匠である池田先生に出会い、励まされ、一つ一つ壁を乗り越える中で、「胎内被爆」という宿命を、平和を語る使命の人生に変えることができました。

ユネスコ憲章の前文(まえぶん)に「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあります。

誰もが生存の権利を持っています。現在、世界には約1万2000発もの核兵器があります。いまだ戦争が行われている状況に怒りを感じます。

一度きりのこの人生を、命のある限り、対話を通して、平和の種を植え続けてまいります。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。