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【被爆証言】「残酷で非情な原爆は絶対に許せない」広島県 朴南珠さん

公開日:

在日韓国人二世の朴南珠(パク・ナムジュ)(91歳)さんは、女学校1年生(現在では中学1年生)で、爆心地から約1.9キロメートルで被爆。妹と弟を疎開先に連れていくために路面電車に乗っていた時でした。すさまじい音がして車内から飛び降り、近くの川の高い堤防に上がって見渡すと、広島の街が消えていました。あまりの恐ろしさに、つま先から頭のてっぺんまで体が冷え切ったような感覚は今でもはっきりと記憶しています。「残酷で非情な原爆は絶対に許せない」との想いを語っています。

「正義の戦争」と聞かされて

皆さんこんにちは。私は在日韓国人2世です。今から自分が体験した戦争とは、戦争が起きると、私たちの生活がどんなに変わっていったか、またあの残酷で非情だった原爆の話を皆さんにしたいと思います。しっかり聞いてください。

1941年、私は小学校3年生でしたでも、41年その年に小学校から国民学校と変わりました。

そして、12月8日朝、朝礼の時間に校長先生より、「今朝日本軍は真珠湾を攻撃しましたと、ただそれだけのお話でした。

その翌日、また朝、朝礼の時間に校長先生より、「日本軍はアジアの共栄圏をつくるために正義の戦争を始めました。小国民の皆さん、いろいろと大変なこともあります。だけど勝つため、正義の戦争に勝つために頑張りましょう」というお話がありました。

ああ子ども心に正義の戦争を始めたんだ。何かうれしいような子どもながらも「正義の戦争」っていう言葉が、いまだに残っています。

もう毎日が朝の朝礼の時間に、「勝った勝った、天皇陛下万歳」というムードで、毎日がもう「勝った勝った」。「勝った」っていうのは南方諸島をどんどんどんどん日本軍が占領していったみたいです。

今でいうフィリピンとかボルネオとかスマトラとか、南方諸島をどんどんどんどん。でもそういった「勝った勝った」ムードの中で、なぜかしら私たちの生活は厳しくなっていくんですね。

忘れられない廃品回収

まず最初に廃品回収っていうのが始まりました。おうちでいらなくなった鉄類とかアルミニウム類とか、それを学校へ持っていくんですね。

私たち在日(韓国人)は当時日本の植民地下にあって、本国で生活ができないので日本へ出稼ぎに来たっていう感じですよね。

だから持っていくものがないんです、廃品が。でも私たち民族には祖先の法事に使う、今はその金属を使っていません。

当時、真鍮(銅と亜鉛を混ぜた合金)でできた器がありました。供え物のお皿とか丼どんぶりとかいろんな法事に使うスプーンとか箸とか、ほとんど真鍮でできていました。

母に「くれ」って言うと、「それは大事なものだから絶対だめ」って言われて。でも3日間泣いて頼みました。

何かを持っていかないと、子ども心にも非国民だと思われるかと思って、そして当時真鍮でできたスプーンと箸を学校の廃品回収に持っていったの。いまだはっきりと忘れることもなしに覚えてます。

当時の暮らしぶり

半年ぐらい経つと「勝った勝った」ムードは聞こえなくなった。でも何が起きてるのか分からない。いい場面だけを2カ月に1度か2、3度、学校の講堂で戦況のニュースは見たことがあります。

しばらくすると、あんまりもういいニュースは全然聞こえなくなりました。すると、かすかなうわさの中で、今まで日本軍が占領していた南方諸島を、また米英軍に奪い返されるような状況に、入っていったんですね。

私たちの生活も全てが配給制です。でも誰も文句苦情を言う人はいませんでした。正義の戦争に勝つために耐えるっていう、辛抱するっていう気持ちで、誰も不平不満を言う子もいない。

その中で唯一豊かだったのが大豆ですよね。大豆をたくさん食べました。なぜかというと、もやしがいっぱい入った給食があり、またおうちで、もやしを作っていました。

そしてまた非常食っていって、何かあった時に食べるために、今はあんまり街中で見当たりませんが、昔はお米をポカンとはじかすポッカン菓子を作る機械がずっと回ってましたよね。

ポッカン菓子を作る。そこへ大豆をはじかせる。するとすっごい香ばしくて、柔らかくておいしいんですよね。それは3日間ぐらいは非常においしいんですが、湿気がくると最悪です。

何か生臭いような臭いがするような、そういう感じでした。でも当時の私たちは戦時中はあの大豆のおかげで、何とか生きたっていっても過言でなかったでしょうね。

最後にはそんな中で厳しい中で、もう文房具屋さんでは文房具は一切もう売ってません。ノートも真っ黒になって書けるところがなくなると、担任の先生に見せる。

そして先生から配給っていう形でノートも頂き、鉛筆もちびるとこんなにちびると書けなくなると、両端へ割り箸みたいな木を当てて、そして鉛筆を使い、ノートはまた真っ黒になるまで使って、5年生になるともう教科書も新しいのがなかったです。

上級生のものを前もって約束するんですね。「あの教科書を私に譲ってください」って。そして1冊の教科書を机を並べた2人で見て勉強する。でも勉強は落ち着いて、教科書があっても落ち着いてできませんでした。

「軍都の町」ヒロシマ

そうしているうちに、暗いどんどんどんどん暗い。なぜか今までの「勝った勝った」っていう勝ち勝ちムードがなくなり暗いムードでした。

そうしているうちに東京に空襲が始まりました。5年生の時でした。そして空襲のニュースっていうのは1、2度見ました。

もうB29っていう爆撃機が編隊をなして飛来してきて、そして雨あられのように爆弾を落としていく。そういう場面を2、3度見ました。

広島は当時「軍都の町」って言われてたんですね。呉に軍港があり瀬戸内海には海軍士官学校があり。また今広島港当時宇品港って言ってたんですが、その港からは、大陸へ兵隊さんを送り出す軍港もありました。

  

  

「軍都の町」広島いつか大空襲があるだろうという危機感はいっぱいでした。絶えずB29っていう、あの爆撃機は広島に飛来してきました。

当時私たちは学校のかばんと同時に、必ず持っていなくてはならない防空頭巾っていうのを持ってました。警戒警報、空襲警報が鳴ると、授業中でも頭巾をかぶっておうちへ帰ります。

すると解除になります。解除になると学校へ復習に行ってもいいんですが、学校も遠かったので、もう復習に行った記憶はありません。本当に落ち着いて勉強できませんでした。

灯火管制の夜

また夜は夜で灯火管制といって、絶対に明かりが外へ漏れてはいけないんで、それこそ大変です。

鮮明に私が覚えているのは、当時まだ2歳にならない弟が肺炎になって、お医者さんが、「今日夜を越すか越さないか」って言われて、家族全員で弟の息を引き取るのを見守っていたんです。

電球を下へ下げて黒い布でカバーしてるんだけど、ただ顔だけが見えるくらいにしてたんだけど、何か明かりが少し漏れた。

よく知ってる警防団の人が、「お前ら朝鮮人はスパイかー!」って言って、土足のまま上がってきてうちの父を蹴ったの。

  


なぜかしらそれが、忘れられない思い出として、思い出っていうか残っています。でもそういう思いの中でも私はまだ子どもだから、学校で教わったことを純粋に、正義の戦争アジアの共栄圏のためと思って勝ってほしいと思いました。

そうすると、5年生になって東京に始まった空襲が日本全国へと広まっていきました。広島にもいつか大空襲があるだろうと思いながら、B29っていう爆撃機は何度も広島に集団をなして、飛来してきたんだけど、本当に爆弾を落としていかないの。

女学校で学んだこと

そういう感じの中で、私も6年を卒業するようになりました。本当に勉強はあまりできない新しい教科書もない。でもなぜか勉強はしたくて、女学校へ勉強したくて女学校には行ったんですが、何を習ったのか自分で振り返って、思い出として鮮明に覚えてるのは、今でいったら社会科になるんでしょうかね。

女の先生が、「アジアの文明は黄河のほとり」って言われた。黄河っていったら中国にある。一瞬「あっ先生スパイとして、憲兵隊に連れていかれる」もうその恐怖がいまだその時の恐怖っていうか、鮮明に覚えてて、先生スパイとして連れていかれると、思ったんです。

なぜ当時今は中国って言ってますが、私たちが習ったのは支那っていう国名で、「支那」「支那」って言ってたんです。

その支那は散り散りに乱れた国だって、そんなふうに聞いていたので、先生はその国を「アジアの文明は支那で始まった」って、「黄河のほとりから」って絶対に憲兵隊に連れていかれるって(思いました)。

それともう一つ(敵国の言葉とされた)アルファベットを習ってるんですよね。それがいまだ私は不思議でたまらないんですよね。それが女学校で私の記憶に鮮明に残っています。

建物疎開

あとは私たち当時中学1年生、男子も女子も建物疎開のお手伝いに出ました。当時は、今はほとんどコンクリートのおうちですが、当時はほとんどが木造のおうちなんです。

そうするとおうちが密集してると、焼夷弾が落ちた時に大火にならないように、空き地をつくるんですよね、おうちを壊して。

  


瓦をまず滑り台みたいなところへ降ろして、生徒が並んでそれを拾って隅の方へずっと重ねていきます。そして大人たちが土槌で木造の家を壊していきます。

そのまた木の木片、こっぺん(かけら)とか、そういった物を隅の方へ片付ける。それが私たち学徒隊の仕事でした。

ちょうど7月の20日、日にちも覚えてます。作業中に木のこっぺん(かけら)が飛んできて、額に当たって。額をこれはシワでなくして、当時5針を縫った傷跡なんです、左側は。学校を休んでいました。額の傷のために。

8月6日の朝

8月の6日の朝を迎えました。本当に早朝から晴れて6時半頃もう青空で、子ども心にもこの夏1番の暑さになりそうなと、思われるくらいよく晴れ渡った。

すると7時頃警戒警報空襲警報が鳴りました。なぜかすぐに解除になったんです。本来ならもう額の傷は治ってたんだけど、まだ包帯はとけてなかったと思う。

この暑い中学校に行っても、勉強はするでなしって思って、今で言うずる休みですよね。学校休みました。8月の6日の朝。

当時は疎開っていうのをさせていたんです。幼い子に。田舎に親戚がいれば縁故疎開ともいって、親戚の家へ預け、また田舎に親戚のいない人は、集団疎開とも学童疎開ともいって、学校側から疎開をさせしてたんですね。危険なので。

うちもちょうど当時3年生の妹幼稚園の弟2人、宮内(現在の廿日市市宮内)っていう、田舎の方に知り合いの人がいて、そこへ疎開をさせてたんです。

2人のきょうだいを疎開先へ連れていこうと思って、路面電車に乗りました。ちょうど爆心地から1900メートル辺りなんですが、ここに路面電車が、西へ向かう路面電車がありました。

福島っていう電停(路面電車の停留所)から、路面電車に乗って20メートルぐらい行ったかな、西へ向かったかなというくらいの時に、電車の大人の人が、「やあB29が飛んどらぁ」という声がした。

  


私一瞬思ったのが、もう空襲警報、警戒警報解除になってるのに、なぜB29って思った。かすかに爆音を聞いた。聞くと同時にピカーッと光って、何かゴーというような何かもうすっごい音がして、火の塊が電車を覆い尽くしたんですね。

何か「早よー」大人の声で、「電車から飛び降りろー飛び降りろー」っていう声を聞きました。無我夢中で2人のきょうだいは、そのまんまに置いて、自分一人で飛び降りた記憶しかないんです。

電車から降りてみると、今まであんなに明るかったのに、辺りが霧がかかったように何にも見えないんです。

ただ何か大人がいるっていう感じはしたんです。降りた時はみんな無言でした。無言で少したつと少し人影が見えるように。すると電車から降りた大人の人が、みんな頭から血を流してる不思議な感じでした。

  


時間的には5分ちょっと過ぎぐらいでしょうね。すると前を見ると前に街並みがなくなってる。そして電停から20メートルぐらい西へ向かってた電車が、目の前に焼けただれた形で目の前に止まってるんです。

何事が起きたのかまだ分かんない。すると電車から降りた大人の人が、「これは広島のガスタンクが爆発したんじゃ、帰ろう帰ろう」と言いながら、三々五々に満員電車の大人の人やみんな帰っていきました。

私も気が付いてみると、妹と弟の手をしっかり握ってるんです。家に帰ろうお母さんのとこへ帰ろうと思って、その電停から50メートルぐらい先におうちがあったんです。

まだその時点では爆心地から1900メートル辺りは、火の手は付いてなかったです。でも、おうちが全部倒壊して道が塞がれて、帰る道がないんです。ちょうど降りた電車から被爆したすぐ後ろに、今もこの太田川の堤防って高い堤防があります。

堤防から見た光景

堤防は一つになっていますが、当時は堤防が分かれていたんです。ここに電車の線路が通っていたんです。街中を通れなかったのでこの堤防の裏を通って、家がある堤防の上へ上がりました。

広島がなくなってた。本当にその時の恐怖は広島がなくなってるんです。面影も本当に足の先から頭のてっぺんまで、冷え切ってしまった。

  


血が止まったような感じでした。それだけはっきり覚えています。そうしてみると、もうあちこち火の手が上がってる。

それを見て家はどうなったのか。お母さんは?と思って、堤防の法面(斜面)を下りようとすると、髪を振り乱したおばさんたちが血だらけになって、「何事が起きたんじゃ」「何事が起きたんじゃ」言いながら血だらけになって堤防の方へ向かっていく。

堤防の法面(斜面)法面辺りに当時は空襲があると、避難するための防空壕って、皆さん聞いたことあります?防空壕っていうのはほら穴みたいな簡単なのを、空襲があるとみんな避難するために各自持っていたんです。

  


堤防の法面(斜面)辺りへみんな防空壕へって来たけど、その防空壕は何の役にも立ちませんでした。そして最初はもうけがをした人髪を振り乱して、それはもう言葉で表現ができない地獄みたいでした。

もう広島は火の海になってあちこちから燃え盛って。そうすると何か遠くの方から、たくさんの人が何か両手をこう振りながら、振り袖みたいに垂れ下がったようなみんな両手を振りながら走って来て。近くへ来てみると振り袖みたいに下がっていたのは、やけどした皮膚がむけてぶら下がっていた。

何か叫びながら来よる。聞くと、みんな「熱い熱い助けてくれ」「熱い熱い助けてくれ」言いながらどんどんどんどん堤防の方へと向かってくる。

この堤防を越せばこちらに中国山地がある。当時、私たちは茶臼山って言ってたんですが、その当時は今はもう宅地化されて、山が遠くに見えますが、被爆者がみんな山を目がけてどんどん走ってくる。

そして、この堤防の手前まで来て1度倒れます。2度倒れたら、もう起き上がることはなかった。堤防の手前でみんな「熱い熱い助けてくれ」と言いながら倒れて、人の上に折り重なるようにして倒れて、もう恐怖を通り越して、もう本当に何事が起きたのか分からない。

黒い雨が降り出す

  


30分もたってなかっただろうと思うけど、雨が降り出した。雨っていうのは水だけど、真っ黒い油のような雨が降り出した。

水で洗っても(肌に)斑点ができて、(しばらく)流れ落ちなかったです。その雨は遠くになるほど、薄くなっていったみたいだけど、2キロ以内は本当真っ黒い雨でした。浴びました。私も真っ黒い雨を。

そして黒い雨が降り出して、初めてみんなが気付いたのが、「こりゃさっきのB29、何か特殊な爆弾を落としていったんじゃ。また空襲が始まるかもしれん。逃げよう逃げよう」みんな口々に言ってましたが、力尽きて誰も逃げる人はいなかった。

最後の言葉は「水」

最後はみんな「水をくれ」っていう言葉で「お父さんお母さん」でもない。「水」「熱い」。最初「熱い熱い、助けてくれ」それからみんな「水をくれ」という。

「水くれ」「水」「水」という言葉で亡くなってった。非情にも「やけどをした人には水を飲ましたらすぐ死ぬるけー、やけどの人には水を飲ませるな」という言葉がありました。

なぜかというと、本当に被爆者は「水」っていう言葉が最後の言葉だった。「お父さんお母さん」でもなく、「天皇陛下万歳」でもなかった。

今でも私も水を思い出すと、涙が、悲しみが込み上げてくるような、目の前で「水」っていう一滴も飲ませてないんです。

あるいは水を飲んで生き延びた人がいたかもしれない。自分の中で思います。水を飲ませてない、何かいまだにその水をあげれば良かったっていう気持ちが。

死ぬるまでずっと忘れないでいるだろうと、死んでも覚えてるかもしれないくらい。その水は大切だった。そして、そんな中、広島はもう火の海になってる。

夜になると広島の空が焦げ落ちるかと、燃え落ちるかと思うくらい、それは真っ赤でした広島の燃える炎の明かりで、その(炎の)下でみんなけがをしてる。

  


でもみんな堤防の法面(斜面)辺りで人を待って、人の影がすると駆け寄る。なぜかというとどこのうちも4、5人ぐらいは、建物疎開とか学校の学徒隊とか、みんな3、4人ぐらいで行ってるんです。

そして人影がするとどこかで避難していて、帰ってきたのかなと思って見ると、他の人で。8月6日の朝、建物疎開勤労奉仕に行った。私の知ってる限り、家の近所の人、誰一人として帰ってこなかった。何日も待ちました行方不明のままです。

誰も取りに来る人がいない遺骨

夜が明けました。6日の日は真っ赤になって亡くなって、やけどをして亡くなっていた人が7日の朝見ると、もう色が変わってた。そしてちょっと膨らんでた。

でも原爆の熱線を浴び、なぜあの年の6日と7日あんなに暑かった。夏の本当の盛りでした。雲一つのないような日照りでした。

そして午前中は(遺体の色が)ちょっと青かった。お昼頃になると言葉で表現ができない。人間とは思えないような形になってた。

すると当時私たちは警防団っていってたんですが、田舎の方からたくさんの今でいえば救援隊の人がたくさん来ました。

爆心地から1.9から2キロ辺りは、6日の日は(建物が)倒壊して類炎して、どんどん燃えていったんですが、まだ焼けてない木を堤防の裏へ持っていって、そして焼き場を作って一度に4、5人ぐらいを一度に作って焼いていた覚えています。

  


焼いた後はもう7日夕方頃になって、遺体もそのまま丁寧に動かされないので、堤防の上から焼き場を作ってる火の中へ、そのまま投げ落とすようにして。誰も手を合わせる人もいない。

「もう焼く木がない」って大人たちが心配してる。その言葉だけが無情にいまだ耳から離れません。当時は私たちは、みんな名札っていうのを付けてたんですね。血液型と名前だけを。

でもその名札を見て、本当はどなたか分からんけど、1度焼いた遺骨を拾って、それが当時の救援隊の人たちの一番の誠意だったんでしょうね。

名札を見て本当は4、5体を一度に焼いてるから、どなたか分からないけど遺骨を太田川の堤防の裏に瓦河原の上に乗せて200体ぐらい。あの堤防の裏にずっと並べてあったけど、11月になっても誰一人も取りに来る人はいなかった。

  

大きな傷跡

そしてみんな一生懸命でした。生きてほしいと思った。死んでいく人が本当にかわいそうだった。朝鮮人も日本人もない。みんな助けてあげたいという気持ち。

そしてどんどんどんどん亡くなっていきました。2人の幼いきょうだいは大人に守られて、何のけがもしてなかったけど、私は少し大きかったので、木のこっぺん(かけら)みたいなのが頭にいっぱい刺さってそれが化膿しました。

今でもこの頭の上には大きな傷跡が残ってます。布で頭をぐるぐるハエがたからないようにしてたら、間からどんどんどんどん化膿した膿が流れ落ちる。

それが臭かったとか痛かったとかいう記憶は全くなく、ただ虫がわかないように、本当に被爆した人は傷口たくさんみんなウジ(ハエの幼虫)がわきました。

本当にあの太田川の避難して、堤防の上にはなんとウジ虫も肥えていました。人を食って。踏むと、ウジ虫だらけ踏むとピチピチピチピチ音がするような状況の中でも、死にたくはなかったです。

あまりにも死んでいく人が、あの原爆で死んでいく人がかわいそう過ぎて、あんな形で死にたくないと思いました。

終戦直後に襲う原因不明の病

そして終戦を迎えました。終戦を迎えた時に何かうれしい反面、悲しい気がした。アジアの共栄圏を作るための「正義の戦争」。負けたっていうのは何か子ども心にも悔しいような気持ちがして、悲しかったのを覚えてます。

また2、3日たつと、すごいうれしかったのは、明かりがついたんですね。大東亜戦争が始まって以来、夜は真っ暗でした。それが夜が明るくなりました。町が明るくなったんですね。

その中から私たちは一生懸命生きようと思って。でも、生きてたやけどの人が、毎日のように死んでいくんです。

  


そうしていたら(9月に)枕崎台風も来ました。せっかくの木を集めて、バラックみたいな掘っ立て小屋を作ってて、一夜のうちに全部吹き飛ばされて、みんな言う言葉が「神さんはおらんのかいのーどうして、わしらをこういうふうにいじめるんかいのー、踏んだり蹴ったりじゃのー」みなそう言っていました。

そうしてるうちに今まで至って元気な人が、髪の毛が抜けるんです。抜けるっていうより落ちるんですよね。頭に手をやるとバサッとバサッと。

原因も何にも病名も分からない。1週間ぐらいたつと頭がツルツルになると、そのまま亡くなるんです。

鼻血が抜けて(鼻血が出て)、それがもう生き残った人の恐怖でした。ただ髪の毛が抜けたら
もう死を宣告されたような形です。後で聞くとそれは急性白血病っていう病気なんです。

7日の日に家族を探しにみんな、爆心地に近いところに行ってるんですね。

残留放射能に当たってそして急性白血病になって、亡くなっていきました。本当に怖かったです。

帰ってこない叔父、故郷がなく行き場がなかった

6日の日のお昼過ぎごろ田舎の方からたくさんの救援隊が来ておむすびの配給がありました。

普通だったら欲張ることもできるけど、みんな欲張ることもなかったです。私は早速、あの残酷で非情だった原爆の話をしようと思いました。

だから兵器としては絶対に原爆は許せない、という気持ちで被爆証言を始めました。本当に被爆して直後は、今はみんな各自お風呂を持ってますが、当時は被爆して近くの銭湯っていうのを使えなくなって。

少し離れた2キロぐらいの所に銭湯がありました。そしてお風呂へ行くと「あんたがた」、私も今は「原爆」って言いますが、みんな広島の人は「ピカドン」「ピカドン」言ってた。今は「ピカドン」っていう言葉すら聞くことはありません。ほとんど「ピカドン」って言葉を使う人は亡くなって年齢的に。

「あんたがたピカドンで何人死んだ?」申し訳なくて「全員がそろった」って言えなかった。私が黙っていると、おじさんが、いまだ行方不明なんですが、母の兄の土橋辺りで被爆しただろうと思うけど、いまだ行方不明なんです。

「おじさん帰ってこんのよねー」「ほうよのーあのピカドンはのー恐ろしいよのーピカッと光ってのー1発で皆殺しにされたんじゃけえ」って。

(下のきょうだいは)幼かったから疎開っていう形。母も今みたいにコンクリートだったら、絶対に助かってないだろうけど、以前は木造だったので下敷きになったけど、かろうじて弟と母は生き延びて。

父はもっと被爆地私らよりももっと近い1.8キロメートル辺りの作業所で被爆したんですが、コンクリートの塀が、父のいる場所だけが反対側へ塀が壊れて、そして父は生き残ったみたいです。

そして特に在日の私たちは、ふるさとがないんで行き場がなかったんですよね。

被爆した1.9キロ辺りそこでずっとお家があった。そこへ小さな小屋を建てて過ごしました。終戦になりました。本国へ帰る人もいたけど、うちは母の兄が行方不明のままだから、兄を置いて母が頑として帰れないって、頑張ったんですよね。

そして落ち着いて振り返ってみると、右を見ても左を見ても同級生っていうか、当時中学1年生の子どもたち、誰一人もいないんです。

みんな学徒隊勤労奉仕へ行って、行方不明のままなんです。後から核がもとで、がんになって、たくさん亡くなっていきました。

うちの父も肝臓がんで亡くなりました。きょうだいたちは皆田舎の方に親戚に避難して行ったんです。

でも私はずっとその爆心地、今のこの場所ですね、ここの場所へずっといたんです。なぜかというと母の兄になるおじさんが、どっかで避難していていつ帰ってきて、誰もいなかったらいけないから、「あんたここで(留守)番しとりんさいや」って。

「おじさんが来るのをね番しとりんさい」って。似島(広島市南区)へ、たくさん被爆者を収容したって聞いて、いろんな所へ父と母は探して、私は1.9キロで、ずっと何にもない所で野ざらしでずっと家の番。何の番もないです。家も何にもないからね。でも「おじさんが帰るのを番しとりんさい」って。

本当に残酷で非情な爆弾

おじはいまだ行方不明のままですが、なぜかその時にあまり良くなかったのかしら、たくさんがんを患いましたよね。

乳がんを患い、口内血腫、今でも話してたらこの辺り、いっぱい唾が溜まったような不愉快な感じなんです。硬膜下出血って耳の後ろ、頭の手術をしたりしました。

でも子どもがまだ幼い時は、そういう病名を聞くと本当ちょっと悲しかった。子どもを置いて死にたくないっていうか、今はちっとも何ともありません。

ここまで生きてきて感謝といったら、ちょっと言葉が当てはまらないけど、でもここまで生かされて。

せんだってロシアのプーチン大統領さんが、ウクライナ問題で「核をも辞さない」って聞いた時に、一晩中眠れませんでした。

何てひどい言葉恐ろしい言葉が出たなと思ったら、核がどんなに非情で残酷なのか知ってるだろうにね。

「それをも辞さない」って言うとは、どういう人かなと思って。夜一晩中眠れませんでした。本当に残酷で非情な爆弾です。

世界平和、本当大切です。大事です、貴重です。でも地球のどこかで何か、いつも争い事が絶え間なく起きてます。でも、核は兵器として絶対使ってはいけないと、あまりにも残酷で非情でした。

ただ私が1人で止めることもできないけど、でも核の怖さ残酷さ、これだけは伝えていきたいという気持ちです。

私はいつも被爆証言の後に生徒さんに、最後の私の言葉がね、「今日本は平和です。豊かです。でもこの平和と豊かさは、たくさんの命悲しみの上に築かれた平和なんです。だから皆さんでこの今の平和を守ってください。日本の平和を。平和を守るには、人を大事にする、人を優しくすることが、真の平和につながるんではないかなと、私はそう思います」最後にそうやって話してます。

言葉足りないかもしれませんが、それが精いっぱい私の思いです。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。