2024.10.04
【被爆証言】紙芝居に込めた「ナガサキの心」ーー証言者:三田村静子さん
公開日:
三田村静子さん(長崎県被爆者手帳友の会 副会長)は、1941年に長崎市で生まれ、長崎に原爆が投下された1945年8月9日、爆心地から約5キロメートルの自宅で被爆しました。その日、降り注ぐ灰がかかったご飯をそのまま食べた三田村さんは、原因不明の病に苦しみ、体が病弱に。これまで4度、がんを発症しました。一緒に被爆した二人の姉もがんを患い、さらに最愛の娘をがんで亡くしました。悲哀を乗り越えながら、手作りの紙芝居を通して、核兵器の恐ろしさ、平和の大切さを語っています。
※本記事は2024年7月28日に長崎市内で開催された「ピースフォーラム」での紙芝居の様子と同日取材したインタビューを抜粋したものです。
灰をかぶったお米を食べた
1945年8月9日長崎に原爆が投下されました。三田村静子さんは3歳の時、爆心地から約5キロメートル離れた福田村の自宅で被爆しました。
兄弟4人でお昼に、早めに食事しようかと縁側で食事してたらピカッ!と光った。その時にお米に灰が入ってきて。
その当時は本当に食糧難で、お芋とかそんなもの食べてたもんで。「うわぁ、ゴミみたい」だったけど、もう久しぶりの(白米)ご飯だから、子供ながらに「うれしい!ご飯を食べたい」という。
それに一生懸命になって食べてしまった。そして、それ食べて、明くる日に下痢やら熱が出て。そして病院に行くにしても、1時間ぐらいかかった所にちょうど1軒ありまして。
そこで風邪薬みたいなもの熱冷ましと、下痢止めもらって帰った。「安静にしときなさい」と言われて、その薬を飲んで(みたけど)一向に良くならない。
私が一番食べてたもんで、お姉さんたちはあまり食べてなかったもんで、1カ月ぐらいで、まあ熱も治まったんだが。私がずっと低学年まで、本当に病弱な子供でした。
浦上から登ってくる人たち
私の所はまあ中心地から離れてたから、お家の方も屋根がめくれて、壁がこうした状態でちょうど今の台風(の被害)みたいで。
(避難してから)しばらくして、もう夕方ごろ、「もう家がどげんなってる分からんから、行ってみようか」って。
こう(目を凝らして)して見たら、浦上から登って来よる被害者の人たち、被爆者のその人たちが、なんかもうヤケドして、髪は振り乱して、「本当に口に言い表せないような感じやった」って。「それはもう地獄のようだったねぇ」って。
看護師の夢を叶えて
幸い、三田村さんやご家族に原爆の影響はほとんど現れていなかったため、被爆のことを意識することなく、三田村さんは夢であった看護師に。
それは、私が病院にずっと通ってた。「ナイチンゲールのようなあのような看護師さんになりたいね」と憧れた。それで(看護師に)なりました。
今の夫と知り合って結婚して、子どもが産まれまして、子どもが産まれて良かったんだけど。
被爆の脅威が家族を襲う
それからまた、ずっと身内にいろんな原爆病と思われるような症状が出始めたんですね。そして三女(3番目の姉)が亡くなったでしょ。その次は次女(2番目の姉)が大腸がんって。
私も転勤してたもんで。島からちょうど大村に来た時に、私もがんを発症。ほんとその当時のがんといったら、「がん=死」だった。
「子どもを置いて死なんばいかんかな」と思って、そうしたら運よくいい先生に当たって生かされました。
それからずっと私もがんで、2回、3回、4回目(の時)に、もう娘が20代ぐらい。
最愛の娘が癌(がん)に
平和運動に力を注いでいた頃、三田村さんを最大の試練が襲います。最愛の娘をがんで亡くしたのです。
(娘が)病気した時も気を遣って、「元気よ元気よ」って。その電話の向こうで、笑顔みたいな言葉だったものですから。安心して。
(娘が)あんな倒れた時に見たらもう、髪の毛も抜けてしまって、あの笑顔(との言葉から)想像しないような変わり果てた姿だった。
それでみんなにこんな(紙芝居)にして、原爆の放射線の怖さを話してるんですけど、つらいですね、本当に。
紙芝居を描くようになったきっかけ
三田村さんが紙芝居を描くようになったきっかけは、長崎の被爆から50年の節目に、鹿児島の知覧(ちらん)特攻平和会館を訪問したことでした。
みんな若い子どもたちが、大学生みたい有望なね、死なんばいけんかなと。あんな遺書を見たらもう苦しくて、何か自分にできないかなと思って。それが平和活動の一歩だった。
子どもたちにね、戦争とか原爆とかに関心を持ってもらおうと思って。
三田村さんが制作した作品の一つ一つは、実際に被爆者や、その遺族を訪問し、聞き取り取材を重ねながら、1作品につき半年から1年を費やし制作。
真実を伝えたいとの思いを込めて作った作品の数は現在20作品以上に及びます。しかし、始めた当初は「手法が古い」「子どもっぽい」など周囲の反応は冷ややかでした。
言葉の壁を越えて伝えていく
その前までずっと「やめようかな、やめようかな」という時もあったんです。今でこそ本当いろんな光を浴びて、認められるようになったものだから嬉しいんです。
娘がいつも気にはしていた私の活動に。だから、いい方に向かって、「ああ、娘が応援してるんだな」と思って。「導いてくれたんだな」と思って。プラス思考に考えているんですね。
三田村さんの作品は海を渡り、さまざまな国の子どもたちの前で上演され大きな反響に。言葉の壁を乗り越え伝えることができる紙芝居の持つ力を実感したと言います。
アメリカの人たちなんか、戦争は知っていても原爆を知らないんです。だから少しでも良かったかなと思って。原爆の話をしたら。
私が話した時に、みんな涙出してね。「そんな長く放射線の影響それで苦しむとは思わなかった」
人類の存続をも脅かす核兵器の脅威は、いまだ消えていません。そんな今、私たちにできることはどんなことなのでしょうか。
自分たちができることをしたらいいと思うんです。自分たちの足元から、平和のことについて語ったり、被爆の継承、私がほとんど描いてるから(紙芝居は)利用していいよって。
そして一人でするより、みんなでした方が平和になると思う。若い人たちは特に海外に行って、それでお友達をつくって、いろんな交流をしたら、絶対平和になるっていうこと。心の私は平和をいつも訴えてる。
この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています
●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する
●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。