2025.03.22
【平和の紙芝居】「黒こげの少年」聴け!声なき平和の叫びを――作・語り手:三田村静子さん
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三田村静子さん(長崎県被爆者手帳友の会 副会長)は、1941年に長崎市で生まれ、長崎に原爆が投下された1945年8月9日、爆心地から約5キロメートルの自宅で被爆しました。悲哀を乗り越えながら、手作りの紙芝居を通して、核兵器の恐ろしさ、平和の大切さを語っています。
※本記事は、爆心地付近で撮影された写真「黒焦げの少年」を題材に作り上げた、紙芝居の読み聞かせを記事にしました。(2024年7月28日に長崎市内で開催した「ピースフォーラム」にて撮影)
「黒焦げの少年」の写真
一目見て、残像の消えない写真がある。それは通称「黒焦げの少年」と呼ばれ、原爆で焼け死んだ少年が地面に横たわっており、一目見たら「かわいそう」と皆が思う写真である。
今まで謎とされていた、その写真の身元を知る手がかりが、2016年8月に分かった。
「見てください。この子どもたちに何の罪があるのでしょうか…すべての核保有国の指導者はこの写真を見るべきであります。核兵器のもたらす現実を直視すべきであります。そしてあの日この子どもらの前で起きたことを知ってほしいのです。この子どもらの(無言の)叫びを聴いてほしいのです。」
これは、1995年当時の伊藤一長長崎市長が、オランダ・ハーグの国際司法裁判所の証言です。
少年の身元が判明 「じっちゃん」の愛称で呼ばれた兄
2015年7月、被爆70周年記念「原爆写真展」の会場で、二人の女性が「黒こげとなった少年」の写真の前で「じっちゃんだ!」と近づき写真を撫でました。
二人は姉妹で、姉の西川美代子さん、妹の山口ケイさんで、その写真の身元は原爆で行方不明になったままの兄、谷崎昭治(たにざき・しょうじ)さん(当時13歳)と直感で確信した瞬間でした。
二人はこの写真については以前から知っていましたが、今回は大きく引き伸ばされた写真で、顔がはっきり確認できたのです。
翌年、姉妹は主催者であった長崎平和推進協会写真資料調査部会に複写を希望し、部会長の深堀好敏氏が専門家に鑑定を依頼。
その結果、長崎原爆資料館に展示されている「黒こげとなった少年」と呼ばれている写真の少年が、専門家の写真鑑定で昭治さんと「同一人物の可能性がある」とされました。
「71年かかりやっと会えたね」と二人は感慨深げに語り合いました。
「黒焦げの少年」兄・昭治さんの生い立ち
1945年4月に瓊浦(けいほ)中学(現在の長崎西高等学校)入学の、昭治さんの同期生によると、8月9日は一学期の期末試験の英語の試験があり、午前10時頃終了。
各クラスの掃除当番を残して、多くの生徒が下校途中に、運命の11時2分の原子爆弾投下により被爆し、死亡。
新入生の夢や希望が原爆により一瞬にして消え去り、昭治さんもその中の一人と思われます。
谷崎家は当時西彼杵郡瀬戸町(現在の西海市)で、精米業を営んでおり、両親5男5女の12人家族でしたが、後に長女と五男が死亡し、長男は海軍、次男は陸軍に従軍しており、当時は8人家族でした。
「兄だ」と名乗り出た美代子さんは三女、ケイさんは四女で、三男の昭治さんはしっかりして優しく、いつもにこにこしていました。
谷崎家は信心深い家庭で、子どももお経を暗記しており「証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)」というお経の言葉から、(昭治さんを)「じっちゃん」と愛称で呼んでいました。
原爆投下の前日
昭治さんは国民学校を卒業すると、家庭の経済状態が分かっていたので、自分から旧制中学進学の希望を父に言えずに、母に「父ちゃんに言って」と泣いて頼んで、「学校出らんば偉くなられんとよ」と言っていました。
そして憧れの瓊浦中学へ進学し、長崎市に下宿して、被爆当時は岡町に住んでいました。
その頃、瀬戸町より長崎に食料を届けに行った母が兄(昭治さん)より、米軍のビラに「長崎良い国花の国 7月8日は灰の町(※日付については諸説あり)」とあったことを聞き、心配になり、8月8日に父が迎えに行ったが、「翌日は英語の試験があり、受けないと落第する」と、とどまることを泣いて望んだそうです。
それで父は連れて帰るのを諦め、兄(昭治さん)の水筒が漏るのを修理して帰りました。その時、昭治さんを連れて帰っていればと、多分悔やんでも悔やみきれなかっただろう、と父の心中を察しています。
8月9日 見つからなかった兄
1945年8月9日、私たち(姉妹)は、自宅近くの砂浜で遊んでいたが、突然強い光を感じ、怖くて家に帰ったが、「長崎に新型爆弾が落とされたらしい」とのことで大騒ぎになりました。
その晩、父と母は土間で黙々と草履を作っていたのを覚えています。長崎では靴を履くものもないだろうと思ってのことでした。
母が鼻緒を、父が土台を徹夜して作れるだけ作り、父は朝早く長崎に向かいましたが、交通手段もなく、前夜作った10足以上の草履を履き替えながら、6時間かかりついたそうです。
原爆投下翌日、兄(昭治さん)を探しに行った父は数日後に帰宅。父によると浦上は原子野と化し、周辺には、多くの焼死体が散乱して、この世の地獄で、死の世界であったそうです。
爆心地そばの岡町の下宿の跡で、8日に父が修理した兄の水筒とこうもり傘の骨が確認でき、近くを3日間探し回ったが、昭治さんの遺体を見つけ出せず、近くで火葬している場に出会い、「遺骨の一部を分けてもらってきた」と語りました。
その後、父は、その悲惨な状況に衝撃を受け、兄(昭治さん)のことをほとんど語りませんでした。兄を見つけられず父は辛かったと思います。それから酒を飲み始めました。
その後、父は肝臓を患い、また夏になると吹き出物が出ており、それは原爆の影響ではと気付きました。
それから数年後の1966年8月13日、父は亡くなりました。その数日前、8月9日には「今日は原爆の日ぞ」と言っていました。
平和祈念式典へ参加
毎年8月9日に開催される平和祈念式典に、母と私たち姉妹は参列しました。平和を希求する人々の心を、長崎から世界へ、そして未来へと発信し続けています。
式典は被爆者の歌で始まり、被爆校・城山小学校児童の歌も披露され、「あの日を二度と繰り返してはならない」との願いの込もった歌声でした。
犠牲者の冥福と核兵器のない世界の恒久平和を、長崎の鐘が訴えていました。
昭治さんの33回忌
昭治さんの33回忌となった1977年、美代子さんの長男が長崎西高等学校に入学。入学式で校長が、「この学校は瓊浦中学を引き継いだ伝統ある学校で、同中の名簿はきちんと金庫に収まっている」と聞き、名簿を見せてもらうと、昭治さんの欄は名前以外空欄でした。
旧瓊浦中学校の16歳から17歳の上級生は学徒動員で、浦上地区に集中していた三菱兵器製作所の工場で、勤務中被爆し、同中学校全体で教職員16名、生徒1200人中約400名が犠牲になっています。
そこで名簿に連絡先などを補充し、以後瓊浦中学校の慰霊祭には昭治さんの母・スヨさんと姉妹3人で出席しました。
小さく折りたたまれたハガキ
2004年に101歳で亡くなったスヨさんが常に身に着けていた小銭入れには、小さく折りたたんだハガキが入っていました。
それは原爆前に受け取った昭治さんからのものです。葉書には「お母さま、お元気ですか。僕も元気で勉強していますからご安心ください。後でいいから帳面と水筒とハサミを持ってきてください…どうかお体をお大事に。さようなら」
それには母や、弟、妹たちを気遣う昭治さんの優しい気持ちが表れていました。
収骨堂に兄の骨があると信じて
昭治さんの妹、西川美代子さんと山口ケイさんは、毎月9日は東本願寺長崎教務所の法要に参列している。寺には身元の分からない原爆犠牲者の遺骨を集めている収骨堂がある。
姉妹はここに兄の骨があると信じており、母・スヨさんもそう思って、原爆忌には毎年訪れていた。
「非核非戦」と書かれた境内の碑の前にお経があげられ、堂の中で法要が続いた。
平和祈念像の横に、長崎市原子爆弾無縁死没者追悼記念堂があります。
ここには爆心地一帯の瓦礫の中の男女の区別のできない黒焦げの遺体や、即死者、避難途中に死亡した方、収容され治療中に死亡した者のうち、一家全滅のため身元が分からない方達の遺骨が安置されています。
怒りを永遠に忘れることはできない
東本願寺の「非核非戦」の碑の下にある原子爆弾災死者収骨所には、2万人とも言われる、爆心地周辺で収集された、名前の分からない遺骨が26個の木箱に納められています。
お寺の住職は「お骨は私たちの歩むべき道を示してくれる道しるべであり、その道は『非核非戦』だと思っています」と話されています。
私達は、愚かな戦争と非人道的な核兵器使用に対する怒りを永遠に忘れることが出来ません。
そして、長崎を最後の被爆地とし、将来の核兵器使用を許さないため、この写真の少年が残した、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ウォー」「ノーモア・ナガサキ」の声なき平和の叫びを、全世界の人に聴いてもらいたいと思います。おわりです。
紙芝居を終えて
どうでしたか皆さん。何かお聞きしたいことないですか?
今、原爆の中心地、松山町の中心地はきれいになっています。でも、あそこを黒こげの状態の人がいっぱいあったということを皆さんもご存知と思います。
今日みんな若い人ですよね。(初めて)原爆を知った人いらっしゃいます?みんな原爆知らない歳の人ですかね。被爆者の方いらっしゃいます?あー知らないか。
ちょうど今、戦争があったりするでしょ。ウクライナとロシアの。あのようなもうほんと戦争だったんです。
ただ違うのはね、原爆っていうのはあの放射線。放射線の怖さで言うと、プルトニウム爆弾。そのことを絶対許さん。
あの放射線っていうのは、体の中にも爆弾を私抱えています、被爆者は。いつも本当にまた病気が起こるかわからんという、毎日毎日がね、死と生の境なんです。
だけん、絶対原爆は落としたらいけん!ということを世界の皆さんに訴えておるんです。
この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています
●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する
●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。