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〈教育本部が提言を発表〉 誰もが担い手になれる「教育のための社会」に

公開日:

「不信」の連鎖を「信」の連鎖へ


教育本部が8・12「教育本部原点の日」を迎えるに当たり、「提言」を発表した。タイトルは「誰もが担い手になれる『教育のための社会』に」。山積する教育課題の克服を目指し、昨夏から始動した「教育元気プロジェクト」の一環である。
  
“原点の日”の淵源は1975年、池田大作先生が出席した教育部(当時)の夏季講習会にある。先生は“この日を「教育革命」の日と定め、毎年意義をとどめる日に”と提案。心からの期待を寄せた。さらに創価教育の原点をたどれば、1930年11月18日に牧口常三郎先生と戸田城聖先生が発刊した『創価教育学体系』に行き着く。同書は、教育の目的を子どもの幸福に置く思想を世に問うた。約1世紀を経た今も、子どもの幸福より社会の要請が優先される構図は、なお根強く残る。
  
今回の提言は教育の原点から今日の課題を見つめ直し、誰もが担い手になれる「教育のための社会」への道を示すものである。

8・12「教育本部原点の日」に寄せて

  

1975年8月12日、東京・八王子市の創価大学で行われた教育部の夏季講習会。池田先生は「教育革命の大情熱の火を」「未来社会を潤す人間教育の、豊かな水脈を」と呼びかけた

【教育本部提言】

教育は、いったい何のためにあるのでしょうか。
  
「子どもの成長のため」「自立して生きる力を育むため」「社会の担い手を育てるため」――いずれも、大切な目的です。しかし、ここでもう一歩、問いを進めます。
  
これらは全て、子ども自身の幸福と結びついているでしょうか。何より、教育・保育の現場には、子どもの幸せな育ちを支える時間と環境が、十分に保障されているでしょうか。
  
子どもや教育者・保育者を取り巻く課題が山積し、複雑化する今、私たち創価学会教育本部は教育の原点に立ち返り、「何のため」を問い直したいと思います。成長も、自立も、社会への貢献も、学びの主体である子ども一人一人の幸福に結びついてこそ、本来の意味を持つからです。
  
私たちが考える「子どもの幸福」とは、「自分はここにいていいんだ」と安心でき、「学ぶことは楽しい」と実感し、自分を信じて、背景や考え方の異なる人々とも関わりながら、自他共の幸福を築いていけることです。
  
教育の目的を問い直すならば、子ども、教育者・保育者、保護者、地域を結ぶ関係性にも目を向けなければなりません。しかし今、その間には、不安と不信が互いに深まっていく「負の連鎖」が生じています。
  
この「不信」の連鎖を、いかにして「信」の連鎖へ転じるのか。社会には何が求められ、一人一人に何ができるのか。
  
本提言では、その一つの道筋を示します。

  

■日本の現状

日本の子どもたちを巡る状況には、看過できないものがあります。
  
2024年度の小・中学校における不登校の児童・生徒数は35万3970人に上り、2025年に自殺した小・中・高校生は538人と、いずれも過去最多となりました。
  
ユニセフ(国連児童基金)が本年5月に公表した報告書でも、日本は学力面で高い水準にある一方、15~19歳の自殺率は44カ国中4番目に高く、15歳の生活満足度も低い位置にあります。
  
学力の高さが、そのまま子どもの幸福につながるわけではない、という現実が浮かび上がります。
  
もちろん、その背景を教育現場だけに求めることはできません。それぞれ家庭の状況や、経済的な困難、社会の変化、SNSの影響など、多様な要因が絡み合っています。

  


では、子どもの幸福を支える基盤の一つは何か。アメリカの哲学者ジョン・デューイは、「満足と平和とに満ちた幸福は、他のひとびととの永続的なきずなの中にのみ発見される」(阿部齊訳『公衆とその諸問題――現代政治の基礎』筑摩書房)と述べました。
  
この言葉は、幸福が孤立した個人の内面だけではなく、人との持続的なつながりの中で育まれることを示しています。子どもの幸福を考えることは、その子を取り巻く“人間関係の在り方”を考えることでもあります。
  
果たして日本の教育政策は、こうした子どもの幸福を一貫して中心に据えてきたでしょうか。実際に国家や経済、社会が求める人間像が、子ども自身の幸福に先立って語られてきた局面は少なくありません。

  

■目的か手段か

日本の教育は戦前の国家的要請、戦後の経済成長、今日のグローバル化・AI(人工知能)時代への対応まで、社会が求める人材育成と結びついてきました。
  
社会の担い手を育むことは、確かに教育の重要な役割です。しかし社会への適合が子どもの幸福より優先されれば、教育の「目的」と「手段」は逆転し、子どもは大人や社会に有用な人材へと形づくられる対象になってしまいます。
  
さかのぼること約100年前の1930年、国家主義的統制が強まる日本で、この転倒に正面から異を唱えた教育者がいました。創価教育学会(創価学会の前身)を創立した、初代会長の牧口常三郎先生です。
  
牧口先生は、弟子の戸田城聖先生(第2代会長)の協力を得て『創価教育学体系』第1巻を発刊し、「教育の目的は児童の幸福にある」と明言しました。将来の社会のために今の子どもを犠牲にせず、成長と発展を「幸福な生活」の中で実現する教育を訴えたのです。

  

『創価教育学体系』第1巻


この理念は戸田先生、そして第3代会長の池田大作先生へ受け継がれました。池田先生は1961年、教育者のネットワークとして教育部(現・教育本部)を結成。2000年の教育提言では「社会のための教育」から「教育のための社会」への転換を訴えました。教育を国家や経済発展の手段とせず、子どもの幸福を第一に据える――それが「教育のための社会」です。
  
こうした方向性は今日、国内外で共有されつつあります。第4期教育振興基本計画(2023年)では、「日本社会に根差したウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)の向上」が掲げられ、子どもと学校関係者の健康や生きがいを社会で支える重要性が示されました。
  
また、OECD(経済協力開発機構)が2025年に公表した「ティーチング・コンパス(教師の羅針盤)」も、教育と学習は、教師、家庭、地域、行政など多様な主体の関わりで、より良くなると提唱しています。
  
今、問われているのは、「教育のための社会」という理念を、制度や方針にとどめず、人と人との関係の中でどう実現するかです。

  

■深刻化する要因

教育・保育を取り巻く課題は、教員や保育士の人材不足、不登校、いじめ、学力格差、保護者の孤立など多岐にわたり、一つの原因では説明できません。
  
しかし、人間関係に目を向けると、課題が深刻化する要因が見えてきます。それが「不信の連鎖」です。
  
教育者・保育者が多忙になれば、子どもの小さな変化や言葉にならない声を受け止めにくくなります。子どもは「分かってもらえない」と感じ、本音をのみ込んでしまいます。
  
また、子ども同士のトラブルでは、保護者は「わが子を守りたい」と思うあまり、不安や怒りを募らせ、学校や保育園、相手の子どもや保護者に対して、過度な要求を向けてしまうことがあります。
  
一方、教育者・保育者も十分な対話の時間を持てないまま、対応を急ぎ、誤解を恐れて伝えるべきことも伝えにくくなる。保護者は「真剣に向き合ってもらえていないのではないか」と不信感を抱く。
  
やがて大人同士の対立へ広がり、その緊張を感じた子どもは、ますます本音を語れなくなる――。
  
誰か一人が悪いのではなく、皆が懸命なのです。それでも、時間と心の余裕が失われれば、相手に耳を傾け、互いを信じることが難しくなります。文部科学省によれば、2024年度に精神疾患によって病気休職した公立学校の教育職員は7087人に上りました。

  


牧口先生は『創価教育学体系梗概』で、「信の確立」を先決問題とし、自他共の「信用」を基礎とした学校と社会の構築を訴えました。教育とは「個人と全体との共存共栄を実現し得る人格へと高める営み」であり、その出発点は「教師が子どもを信じること」にあると考えたのです。
  
ただし、この言葉を、疲弊する教育者・保育者に新たな責任を負わせるものにしてはなりません。子どもの可能性を信じ、支えるには、社会も教育者・保育者を信じ、その実践を支える必要があります。

  

■自分が変わる

20世紀ドイツの教育哲学者オットー・フリードリヒ・ボルノーも、教育における最も重要なキーワードに「信頼」を挙げ、「不信」を人間の内にある善い力の発達を窒息させる「毒」に例えました。
  
しかし人を信頼し、自分を信頼することは難しい。不信の時代に、私たちはどう信頼を育むのか。
  
人は、誰かに信じてもらう経験を通して、人を信頼することを学ぶ――これがボルノーの洞察でした。そこにこそ教育の重要な役割があるというのです。
  
一方、彼は、信頼はたいてい裏切られるとも述べています。それでも大切なのは、信頼し続けようとする意志であり、忍耐だと主張しました(浜田正秀訳『人間学的に見た教育学』玉川大学出版部)。

  

では、その「意志」を支えるものは何か。私たちが信奉する仏法は、一つの人間像を示しています。法華経に登場する不軽菩薩です。


不軽菩薩は、出会う一人一人に、あなたには尊い仏の生命が具わっていると敬意を表し、礼拝し続けました。罵られ、杖や石で追われても、相手の尊厳を見限りません。

  


その礼拝行を支えたのは相手からの好意や理解ではなく、“全ての人に尊極の可能性があると信じ、人を決して軽んじまい”と自らが立てた「誓い」でした。
  
不軽菩薩は、人を敬う実践を貫く中で自らの生命を磨き、仏の境涯を開いたと説かれています。
  
ここには、教育への重要な示唆があります。
  
教育では、ともすれば、「子どもをどう変えるか」に目が向きます。しかし、人を育てることは、働きかける側が変わらずに相手だけを変えるのではなく、相手と向き合う中で自らも変わっていく営みです。子どもの可能性を信じようとする時、大人も自らの決めつけや諦め、焦りや支配の心と向き合うことになります。
  
子どもや保護者を信じることは、相手のためだけではありません。信を貫く中で、教育者自身の人間性も開かれていきます。自分の自信になります。他者の尊厳や可能性を信じることと自らがより良く生きることは、切り離せないのです。

  

■19万の実践事例

「信じる」と言っても、現実は、そう単純ではないのでは? そう思う人もいるでしょう。
  
その疑問に、理念だけでは答えられません。教育本部は教育・保育の実践を記録し、その知見を社会と分かち合ってきました。池田先生の提案で1984年に始まった実践記録運動には現在、19万事例を超える蓄積があります。
  
それは、迷いなく子どもを信じた成功談ではありません。心が通わず、自信を失い、「もう無理かもしれない」と感じながらも、仲間に支えられ、捉え方と関わり方を問い直した末に、子どもたちと心を結んだ成長の記録です。

  

第2総東京教育本部の実践報告大会(昨年11月、都内で)


2010年、神奈川の教育本部が約3000事例を分析し、そこに共通する五つの関わりを見いだしました。それは――
  
「①信じ抜く」「②ありのまま受け容れる」「③励まし続ける」「④どこまでも支える」「⑤心をつなぐ」――です。
  
さらに、2025年度には許諾を得た5314人分の記録を、個人情報に配慮し、秘匿性の高いAIで探索的に分析しました。教育の法則を証明するものではなく、繰り返し表れる傾向性を探り、人間による検討を深める試みです。分析結果を踏まえた検討から浮かび上がったキーワードは、「一人を大切にする教育」でした。
  
表面の行動だけで子どもを判断せず、背景にある思いや生活に目を向ける。安心して話せる関係を築く。保護者、同僚、専門機関、地域の人々とつながる。そして子どもだけを変えようとせず、まず自らが捉え方と関わり方を変える――共通していたのは「信頼を行動で伝える姿」です。

時間の余白を創出して
教育現場に豊かな対話を

「信じ抜く」には、相手の声を聴かなければなりません。「ありのまま受け容れる」には、その人を知る必要があります。「励まし」「支え」「心をつなぐ」には、自分の考えを一方的に伝えず、相手の思いを受け止め、自らの捉え方も問い直す必要があります。
  
それが「対話」です。
対話は、五つの関わりに加える6番目の項目ではなく、五つの全てを貫く基盤です。相手の言葉に耳を傾け、自ら心を開き、捉え方を問い直すことによって五つの関わりに命を通わせ、「一人を大切にする教育」を現実のものとします。それは、互いがより良く変わる営みでもあります。
  
アメリカのジョン・デューイ協会の元会長であるジム・ガリソン博士は、池田先生とラリー・ヒックマン博士(同協会元会長)とのてい談の中で「本来、『対話』の半分を占めるべきは、相手の言い分に耳を傾けること」だと指摘しています。互いに相手の言葉を聴かずに、自分が話す順番を待つだけなら、対話をしているようでも、実際には「独白」に過ぎない――と。
  
これに対し、池田先生は「対話を手放すことは『人間への信頼』を手放すことです」と応じました(『人間教育への新しき潮流』第三文明社)。対話を手放すことは、「人は共に変わり得る」という可能性を見限ることでもあります。反対に、相手の声を聴こうとすることは、その人の尊厳と可能性を信じる実践にほかなりません。

  

米ジョン・デューイ協会元会長のジム・ガリソン博士(左端)とラリー・ヒックマン博士(左から2人目)が、池田先生と共に。デューイの哲学や創価教育を巡って語り合った(2008年8月、長野で)


しかし、その対話ができないほど、教育・保育の現場から時間と人のゆとりが失われているとすれば、それを個々の教育者・保育者だけの責任に帰してよいのでしょうか。今こそ社会の責任として、子どもと向き合い、対話を重ねるための「時間の余白」を取り戻す必要があります。

  

■保障すべきこと

次期学習指導要領に向けた議論でも、教師と子どもの双方に「余白」をつくり、豊かな教育活動につなげる方向が示されています。私たちは、余白を理念に終わらせず、実質的に保障すべきだと考えます。
  
すでに多くの識者や教育者も、改革を提案しているように――教育課程・学習内容・業務を精選し、標準授業時数や教師の持ち授業時数を減らすこと。教員基礎定数の「乗ずる数」や保育者の配置基準を改善し、支援スタッフや欠員時の代替要員を確保すること。小・中学校の35人学級を到達点とせず、高校や幼児教育・保育でも少人数化を進めることが必要です。
  
子どもの幸福を第一に、教育・保育を政策の優先課題に据え、財源にも反映すべきです。また、改革を授業時数や配置人数だけで評価してはなりません。
  
教育者・保育者が子どもと向き合い、自らを高める余白は生まれたか。子どもは「声を聴いてもらえた」「信じてもらえた」と感じているか。その声を受け止め、支援や改善につなげる仕組みは機能しているか。こうした実感と変化を、改革の評価指標の一つに据えることを求めます。
  
同時に、余白を真に教育の力へ変えるには、教育者・保育者自身の成長が欠かせないことを忘れてはなりません。私たち教育本部が「子どもたちにとって、最大の教育環境は教師自身である」との池田先生の指針を大切にするのは、教育者・保育者の人格と知恵の深まりこそが、子どもを触発し、信頼を育む対話を実らせ、一人一人の可能性を引き出す源泉になることを実感してきたからです。

  

■今いる場所で

「教育のための社会」の主体は、教育者や行政だけではありません。保護者も地域の人も、子どもに心を寄せる誰もが、その担い手となれます。
  
子どもの話をさえぎらずに聴く。悩む保護者に声をかける。子どもと関わるあらゆる教育現場の方々の苦労に思いをはせ、時に感謝や励ましを伝え、孤立させない――いずれも特別な資格は要りません。誰もが今いる場所で実践できます。
  
その一つ一つは、「小さな行動」かもしれません。しかし、対話で「あなたを見ている」「あなたは独りではない」という信頼が手渡される時、人は誰かを信じる力を取り戻します。子どもが信頼され、保護者が支えられ、教育者・保育者が勇気づけられる。その経験が、次の誰かを信じる力となり、「信」の連鎖が広がっていくのです。
  
私たち教育本部は「子どもの幸福」を願う人々と手を携え、一人を信じ、大切にする営みを重ねながら、“創価教育100周年”となる2030年へ、教育の目的を問い続けます。

  

子どもたちの笑顔のために

  

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