「エスプリのための闘い」ルネ・ユイグと池田大作

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ヨーロッパを代表する美術史家ルネ・ユイグ氏。
ルーブル美術館の絵画をナチス・ドイツから守り抜いた闘士であり、多彩な分野で功績を残した。
池田先生との10度を超える交流で語られた「エスプリ(精神)のための闘い」。
それは精神の復興--「人間革命」を目指したものだった。

※本記事は、動画の内容を抜粋し記事にしたものです。

  

あの日の光景を、名画のように今、思い出す。
パリ会館の窓越しに、夕日がきらきらと輝いていた。
出会いから一年後、私たちは「対談集」の打ち合わせをしていた。

“エスプリ(精神)のための戦い”を始めましょう!
私は、大きく両手を広げた。「大賛成です!」

氏の白皙(はくせき)の顔に、若々しい朱みが差していた。


『世界の指導者と語る』 フランスの「知の巨人」故ルネ・ユイグ氏より


池田SGI会長とヨーロッパを代表する美術史家ルネ・ユイグ博士。2人は1974年の出会いから、1997年の博士の逝去まで四半世紀に及ぶ友情と信頼の交流を重ねました。

ユイグ氏の功績

パリの中心部セーヌ川の右岸にそびえる「ルーブル美術館」。
3万5千点の展示品、6万平方メートルの展示面積を持つ世界最大級の美術館です。
このルーブルの発展を語る上で欠かせない貢献をした人物がルネ・ユイグ氏です。
21歳でルーブル美術館に入ったユイグ氏は、1937年、30歳という異例の若さで、絵画部長に抜擢されます。
ユイグ氏の最大の功績は、開館以来続いていた館内の展示方法の抜本的な改革です。
作品を壁全面に並べる従来の展示方法を廃止。視線に合わせて一列に並べることで、ストーリーを演出する方法を考案しました。これが現在のルーブルの基礎となっているのです。

この頃、ルーブルを取り巻く環境に緊迫した空気が漂ってきます。
ドイツでヒトラーが再軍備を開始。戦争の影が忍び寄ってきたのです。

  

ユイグ氏の子息で歴史・社会学者のフランソワ=ベルナール・ユイグ氏

フランソワ=ベルナール・ユイグ氏:絵画部長であった父の役割は絵を避難させることでした。
父はこれらを戦争の前から準備していました。戦時中、フランス南西部にあったさまざまな城に、これらの作品を分散して守ることにしたのです。


1940年6月フランスはドイツに降伏。
ルーブルの絵画は、ロワール渓谷のシャンボール城、さらに南の非占領地域にあったモンタル城に移されます。
ユイグ氏は、モンタルの総責任者として、執拗に絵画の引き渡しを要求するナチスとの交渉の矢面に立ちました。
「ルーブルの宝には絶対に指一本触れさせない」
若き絵画部長は、受け入れ不可能な交換条件を示すなど、自身を危険にさらすぎりぎりの交渉によって、引き渡しを回避し続けました。これよってルーブルの絵画はナチスから守られたのです。

1951年、ユイグ氏はフランス屈指の学術教育機関であるコレージュ・ド・フランスに移り、本格的な美術史の探究に打ち込みます。それは、従来の枠組みを大きく超えるものでした。
その成果は、モネやゴッホ、セザンヌなど、19世紀にフランスで生まれた印象派の研究にもあらわれました。
こうした卓越した業績でルネ・ユイグ氏は1960年フランス学術界の最高権威であるアカデミー・フランセーズの会員に選ばれます。

ユイグ氏と池田SGI会長の出会い

そのユイグ氏と仏法を基調に世界的な活動をする池田SGI会長。
二人の初めての出会いは1974年のことでした。
4月19日、日本初の「モナ・リザ展」の開催のために来日したユイグ氏と、池田SGI会長の会見が初めて実現しました。この時ユイグ氏67歳、SGI会長46歳。
ユイグ氏は後年、テレビ番組に出演のおり、この出会いを振り返っています。

  

ユイグ氏:日本に行ったときのことです。日本の仏教指導者である池田会長にお会いした。意見を交わし始めると、(精神の復興を目指すという)互いの哲学や考え方が同じ方向を目指していることに気付いたのです

  

この会見に同席していたリディ夫人

リディ夫人:夫が池田会長にお会いしたあと、「芸術を愛し、私のように芸術を分かち合いたいと思っている人だ」と言っていました。すぐに池田会長に魅了されたんですよ。
一目惚れというのは、友情でもあり得ます。私は、それが池田会長と夫の間に起こったことだと思います。彼らは出会うべくして出会って、お互いを認め合ったのでしょう。


以来、ユイグ氏は、SGI会長に深い信頼を寄せ交流を重ねていきます。その語らいは、パリで、東京で、大阪で、10度を超えました。

ユイグ氏と池田SGI会長の友情

SGI会長とユイグ氏2人の語らいは、対談集『闇は暁を求めて』として、大きな結実を見ました。
そして2人の友情は、日本とフランスの文化交流への大きな貢献につながっていきました。
その一つが1988年、ユイグ氏が館長を務めるパリのジャックマール・アンドレ美術館で開催された「永遠の日本の名宝展」と「池田大作写真展――永遠の日本」です。
「名宝展」は同美術館の学芸員でもあったリディ夫人が、「写真展」は81歳のユイグ氏自らが展示・構成の陣頭指揮を執りました。

この展覧会は、写真文化の普及に先駆的な役割を果たすものとなりました。

  

リディ夫人:あの展覧会は大成功だったんです。訪れる人が絶えませんでした。各方面から高く評価していただきました。
第一あれは、フランスでは、写真展の先駆けにあたっていたんです。
あの頃から写真の展覧会を開くようになったんですよ。


芸術と文化を通してエスプリ(精神)の復興を目指し、共に歩んだルネ・ユイグ氏と池田SGI会長。
ユイグ氏はSGI会長が進める人間革命を根本とした民衆運動に限りない期待を寄せていました。

  

結局、私が最も要請しているのは「人間革命」です。私は、この人間革命の夜明けへ、一人の「ヨーロッパの義勇兵」として戦います!


『世界の指導者と語る』 フランスの「知の巨人」故ルネ・ユイグ氏より


東京富士美術館。ここに、SGI会長が友情の証しとして植樹したユイグ桜があります。年を重ねるごとに、桜は、満開の花を咲かせています。「エスプリのための闘い」は今も受け継がれているのです。

  

  

池田大作先生の足跡