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終戦80年に寄せて 原田会長が談話を発表 「不戦の世紀へ 時代変革の波を」

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2025年8月15日の「終戦の日」を前に、原田稔会長が「不戦の世紀へ 時代変革の波を」と題する談話を発表した。
  
その中で原田会長は、第2次世界大戦による犠牲者に哀悼の意を述べた上で、現在も各地で紛争による一般市民の犠牲が広がっている状況に対し、深い憂慮の念を表明。ウクライナや中東のガザ地区を巡る紛争の早期終結とともに、国際人道法の遵守を強く呼びかけている。
  
また、創価学会の平和運動の源流が、戦時中に軍部政府の弾圧によって投獄された、初代会長・牧口常三郎先生と第2代会長・戸田城聖先生の獄中闘争にあることに言及。
二人の師の信念を受け継いだ第3代会長の池田大作先生が、戦時中に日本が甚大な被害をもたらしたアジア太平洋地域の国々との友好を広げる努力を重ねてきた歴史を振り返りつつ、戸田先生の「原水爆禁止宣言」の意義に触れて、創価学会の社会的使命は世界の民衆の生存の権利を守り抜くために「核兵器のない世界」を築くことにあると訴えている。
  
その上で、「青年交流」「宗教間対話」「グローバルな民衆の連帯の拡大」の三つの取り組みを基軸にしながら、192カ国・地域に広がるSGI(創価学会インタナショナル)のメンバーと共に「不戦の世紀」の建設を目指すことを表明している。

  




 多くの国の民衆を巻き込む総力戦が広がる中で、6000万人以上に及ぶ犠牲者を出した第2次世界大戦が終結して、本年で80年になります。
 犠牲者は当時の世界人口の3%を超えたともいわれ、しかも、その大半が女性や子どもを含む一般市民にほかなりませんでした。
 第2次世界大戦によって尊い生命を失ったすべての国の方々に、哀悼の意を表するとともに、仏法者として衷心より追善の祈りを捧げます。
 また、日本人の一人として、アジアと太平洋の国々に甚大な被害と苦しみをもたらした歴史への反省に立って、アジア太平洋地域の平和はもとより、世界の平和を築くために行動を続けることを、改めて固く誓うものです。

三代の会長を貫く「平和への信念」

  

8月15日の長編詩

 日本にとっての「終戦の日」である8月15日を前にして、私が思い起こすのが、創価学会の第3代会長である池田大作先生が、長編詩「黎明の八月十五日」で綴っていた言葉です。
 10代の頃に戦争に巻き込まれ、兄を亡くし、家も2度失った池田先生は、21世紀が開幕した年の夏(2001年8月)に、戦時中の悲惨な体験を歴史の証言として詩に残す中で、こう叫ばれました。

  

 「一家を滅茶苦茶にされ
 一族を不幸のどん底に
 陥れられた。
 いな
 無数の方々が
 不幸と地獄と慟哭の
 涙を流した。
 この八月十五日を
 迎えると
 怒りの心が燃える」

 その上で池田先生は、民衆が経験した塗炭の苦しみは「世界のあらゆる天地」に広がっていたものであり、“世界中の民衆の苦しみを、指導者たちは永遠に断じて忘れてはならない”と長編詩で訴えたのです。
  
 私たち創価学会の平和運動の源流は、日蓮大聖人の仏法の「生命尊厳」の思想に基づいて平和と人道の主張を貫き、軍部政府の弾圧によって1943年7月に投獄された、初代会長の牧口常三郎先生と第2代会長の戸田城聖先生の獄中闘争にあります。
 日本が太平洋戦争に突入する前月(1941年11月)に生まれた私にとっても、戦時中の体験は決して忘れることができません。
 東京の下町である浅草橋に生まれた私は、3歳の時に約10万人が犠牲となった東京大空襲に遭いました。
 1945年3月10日の未明に大量の焼夷弾が投下されて、あたり一面に火災が広がる中、母に守られながら逃げ回った時の恐ろしさは今も胸に焼き付いています。

  

紛争の早期終結を

 第2次世界大戦が終結してから、第3次世界大戦のような最悪の事態はかろうじて防がれてきましたが、戦争の惨劇は何度も繰り返されてきました。
 また今日においても、ウクライナや中東のガザ地区を巡る悲惨な情勢をはじめ、各地で武力衝突や紛争が続いており、一般市民の犠牲の拡大や人道状況の悪化が強く懸念されます。
  
 国や民族は違っても、愛する家族や大切な人の命を奪われる悲しみに変わりはない――。この事実は、第2次世界大戦で各国の民衆に襲いかかった悲劇であっただけでなく、次元は異なりますが、近年に起きた新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)を通じて、多くの人々が痛感した思いだったのではないでしょうか。
 戦火に巻き込まれて命を失った方々と、そのご家族のことを思うと胸が痛んでなりません。
  
 6月に勃発し、世界を震撼させたイスラエルとイランの戦闘は、拡大することなく収束をみました。
 紛争が長引くウクライナやガザ地区を巡る情勢においても、関係諸国を含めた対話と外交努力を粘り強く重ねる中で、本格的な停戦と紛争終結への道が一日も早く開かれることを心から願うものです。
  
 二度にわたる世界大戦の反省に基づいて、1945年に創設された国連の憲章の前文には、次のような誓いが刻まれています。
 われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う――と。
 しかしながら、この80年間において「戦争の惨害」と無縁であり続けることができた国は、いったい、どれだけあったでしょうか。
 その意味では、国連憲章が目指す平和な世界の建設は、いまだ道半ばと言わざるを得ません。

  

小説『人間革命』の直筆原稿。冒頭の一節は、池田先生が熟慮を重ねた末に、書き記したものだった

「人間革命」の冒頭の一節
「戦争ほど、残酷なものはない
戦争ほど、悲惨なものはない」

  

近隣諸国との友好

  

 思い返せば、第2次世界大戦後の紛争において極めて多数の犠牲者を出した、ベトナム戦争が激化し始めた1964年12月――。
 聖教新聞の記者であった私は、池田先生から、ある原稿を手渡されました。
 小説『人間革命』の最初の13回分の原稿です。
 「戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない」

 日本における“地上戦の最大の激戦地”となった沖縄で、池田先生が小説の冒頭に書き起こした言葉を目にした時、池田先生の戦争に対する強い憤りが胸に迫ってきました。
 翌1965年の元日から始まった、小説の新聞掲載にあたり、私は挿絵画家との窓口などの仕事に携わりました。小説の行間ににじみ出る“「戦争のない世界」への道を開くために、崩れざる民衆の連帯を何としても築かねばならない”との池田先生の深い覚悟を、連日のように感じてなりませんでした。

  

 私がその仕事を担当したのは第3巻まででしたが、連載が第5巻の「戦争と講和」の章に入る前(1969年4月)、池田先生が雑誌に寄せた一文に、次の言葉が記されていたことを鮮烈に覚えています。
 「あの泥沼のごときベトナム戦争の報道をみて、数ある写真の中で、銃弾を避けて逃げまどう母と子の姿ほど痛ましく、胸に迫るものはない」
 「戦争さえなければ、おそらく幸福な毎日を送っていたであろうに、なんのために、何の目的で、その幸福を奪おうとするのか――」

 写真に写っていた“母と子”の姿は、まさに私自身も戦争で体験し、周囲で起きていた光景と重なるものだったからです。
 当時、池田先生は、ベトナム戦争の即時停戦と和平実現を求めて提言を行っていました。提言を通して、国際政治の面から外交努力を通じて解決を図ることを呼びかけるだけでなく、何よりも一人の人間として、“戦争下の民衆の苦しみ”に目を向けて、悲劇を終わらせることを訴えてやまなかったのです。


 池田先生は、日本が戦時中に多くの民衆を苦しめた国々を訪れ、犠牲者に追善の祈りを捧げてきました。第3代会長就任の翌年(1961年)に訪問したビルマ(現・ミャンマー)、タイ、カンボジア、インドをはじめ、中国、韓国、フィリピン、シンガポール、マレーシア、オーストラリアに足を運び、友好を結ぶことに全魂を傾けました。
 こうした国々に加えて、ベトナムやインドネシア、太平洋地域の国々の識者と対話を重ねる中で、日本が引き起こした悲劇に対する思いを真摯に受け止め、その言葉の一つ一つを歴史の証言として聖教新聞の記事や対談集に残す努力を続けられてきたのです。
  
 私自身、そうした対話の場に立ち会わせていただいたことが何度もあります。
 池田先生が中国を初訪問した時(1974年5月~6月)にも同行しました。
 訪中団の秘書長として準備にあたった私に池田先生が教えてくださったのが、過去の歴史に対する痛切な反省を忘れることなく、隣国との友好を築いていかなければ、世界平和への道も開けないとの信念でした。
 その信念を胸に、香港を経て北京に向かい、表敬訪問した中日友好協会で池田先生が提案したのが、青年や女性による交流を進めるための計画だったのです。
 第2次訪中(同年12月)で周恩来総理と会見した時、病身の周総理が強く望んでいたのも、世々代々の友好を築くことでした。
 「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどんなことをしても必要であるということを何度も提唱されています。そのことが、私には、とても嬉しい」と。
 この2度の訪中が淵源となって、現在にいたるまで両国の間で青年交流をはじめ、文化交流と教育交流が重ねられてきたのです。

  

池田先生の初訪中から50年を迎えた昨年5月、原田会長を総団長とする「創価学会代表訪中団」が、北京大学で行われた中日友好青年交流会に参加。終了後、訪中団の青年メンバーが、北京大学、中国人民大学、北京外国語大学の学生と記念のカメラに納まった

民衆の生存の権利を断じて守り抜く

  

国際人道法の遵守

 戦争の悲劇を地球上からなくし、どの国の民衆も平和に生きられる世界を築きたい――。池田先生のこの信念は、小説『人間革命』で浮き彫りにされていたように、戸田先生から受け継いだものでした。
 1957年の9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表した時、高校1年生だった私もその場に参加していました。
  
 競技場に集まった5万人の多くは青年でしたが、周囲を見渡すと、子ども連れの母親をはじめ、あらゆる世代の人たちがいました。そこで戸田先生は、“世界の民衆の生存の権利”を守り抜くために、いかなる理由があろうと核兵器の使用を絶対に許してはならないと訴えました。
 その後、歳月を経て、この宣言を読み返すたびに胸に去来するのは、次のような思いであります。
 広島と長崎で起きた核兵器による惨劇を、地球上のどの場所であろうと絶対に起こしてはならない。「核兵器のない世界」を築く行動を貫くことに創価学会の社会的使命がある――と。
  
 翻って現在の世界でも、紛争や内戦に加えて核兵器の脅威が再び高まる中で、一人一人の「生命の尊厳」がなし崩し的に脅かされようとしている現実が広がっていることに、憂慮を感じてなりません。
 第2次世界大戦がもたらした甚大な被害を踏まえて、国際人道法が整備されたのは、“一般市民をいかに戦争から保護するか”という強い共通認識が背景にあったからでした。

  

 池田先生は2019年の平和提言で、この国際人道法の中核をなすジュネーブ諸条約が採択に至った経緯に言及しながら、こう強調していました。
 「多くの人々が目の当たりにした戦争の残酷さと悲惨さが、交渉会議の参加者の間にも皮膚感覚として残っていたからこそ、国際人道法の基盤となる条約は、強い決意をもって採択されたのではないでしょうか。
 私は、この条約の原点を常に顧みることがなければ、条文に抵触しない限り、いかなる行為も許されるといった正当化の議論が繰り返されることになると、強く警告を発したい」

 極めて遺憾なことに、現在の紛争においては、“国際人道法の条文そのものに抵触する”との懸念の声も上がるような事態が、しばしば起きています。


 この世界から一切の戦争を即座になくすことは困難であるとしても、“子どもや女性、高齢者や病人を保護する安全地帯の設置”を求めることからジュネーブ諸条約の検討が始まった歴史の重みを想起しつつ、終戦80年を機に、各国が共に国際人道法を遵守することを改めて誓約すべきではないでしょうか。

  

「青年不戦サミット」の参加者が、原爆死没者慰霊碑に献花(昨年9月、広島市の平和記念公園で)。このサミット(青年平和連絡協議会)は、池田先生の提案を受けて1989年に始まり、広島・長崎・沖縄の青年部によって続けられてきたもの。2017年からは全国の代表も参加し、平和構築の連帯を強めてきた

  

悲惨をなくす誓い

 その上で、私たちが強く呼びかけたいのは、分断や対立が生じても、それを軍事力による全面衝突という事態にまで至らせないための「不戦の防波堤」を、民衆の連帯によって堅固にしていくことの重要性であります。
 池田先生が、1983年から2022年まで40回にわたって平和提言を続ける中で、繰り返し訴えていたのも、この点にほかなりませんでした。

  

 先生は2回目の平和提言(1984年)で、「軍縮への努力と同時並行的に『世界不戦』という意志の流れを深く、大きくしていく」ことが重要であると力説したことがあります。
 当時、こうした二つの潮流――国際政治のレベルにおける“軍縮の機運の高まり”と、各国の民衆レベルでの“平和を求める声の高まり”が相まって、冷戦終結に向けた流れが急速に生み出されていきました。
 世界で今、一般市民を巻き込む軍事力の行使が半ば日常化しつつある中で、再び押し上げていく必要があるのは、この二つの潮流ではないでしょうか。


 池田先生がこの「不戦」の重要性を巡って、終戦70年の2015年に創価学会青年部に呼びかけた印象深い提案がありました。
 広島・長崎・沖縄の青年部が「3県平和サミット」の名で継続的に開催してきた青年平和連絡協議会を、新たに「青年不戦サミット」との名称で行っていくことを提案したのです。

  

 なぜ「平和」ではなく、「不戦」という言葉をあえて掲げたのか――。
 その真意を示すような言葉を、池田先生は同年1月に発表した平和提言の中で述べていました。
 「差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。
 しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、“彼らが悪いのだからやむを得ない”といった判断に傾く場合が少なくない。事態のエスカレートを問題の端緒で食い止めるには、何よりもまず、集団心理に押し流されずに、他者と向き合う回路を開くことが欠かせません」
 「(相手の立場を互いに理解する)努力を欠いてしまえば、緊張が高まった場合などに、自分たちにとっての『平和』や『正義』が、他の人々の生命と尊厳を脅かす“刃”となる事態が生じかねません」
と。


 つまり現代の世界では、「平和」という言葉が、本来そこに込められていた意味から離れて、“攻撃や暴力を正当化するための口実”のように用いられてしまう場合も少なくない。
 そうではなく、“戦争が引き起こす悲惨事を地球上の誰にも経験させてはならない”との信念を骨格に据えながら、「不戦」という明確な誓いを立てることによって、「平和」を求める思いをさらに強固なものにしなければならないというのが、池田先生の主張の眼目だったのです。
 まして、核兵器の脅威が常態化している今、「核兵器の不使用」を求める国際世論を高め、そこから「核兵器の禁止と廃絶」への流れを力強く生み出していく努力とともに、人類が共に「不戦の世紀」の道へ踏み出すことが急務となっていると思えてなりません。

  

「皆、未来の大指導者です。偉大な使命をもつ方々です」――創価大学の創立者である池田先生が、33カ国・地域からの留学生と記念撮影(2001年12月、創価女子短期大学で)。記念撮影会に集った創価学園生や短大生に、「どうか、日本の皆さんは、留学生の皆さんを大切にし、深い友情を結んでいっていただきたい」と呼びかけた

「青年交流」と「宗教間対話」を促進し
地球的課題に取り組む連帯を拡大

  

三つの挑戦を推進

 私たち創価学会は、「不戦の世紀」の建設を民衆の手で進めるために、以下の三つの挑戦に今後も全力を注ぐことを、ここに宣言するものです。
  
 第一の柱は「青年交流」です。
 戦争を起こすのも人間であれば、対立や分断を食い止めて、戦争を防止するのも人間です。
 そこで大切になるのが、集団心理や暴力的な扇動に押し流されない社会を築くことです。
 私たちは、中国や韓国などの隣国をはじめとするアジアの国々との間で、民衆レベルでの交流――なかんずく青年交流を重ねてきました。次代を担う青年たちが友情を結ぶことこそ、何よりの「不戦の防波堤」の礎となるものと信じてやみません。
 そうした交流を体験した「世代」の厚みを増していくことが、他国との戦争を戒める社会の構築につながると考えるのです。
  
 第二の柱は「宗教間対話」です。
 人類の歴史を振り返れば、残念ながら、宗教の違いがしばしば深刻な分断を生む原因となってきた面があることは否定できません。
 しかしその一方で、多くの宗教が、平和と尊厳を求める人々の精神的支柱となってきたことも事実です。
 この両面を見据えながら、より良い世界を築くために宗教者が行動することが求められており、分断の轍を踏まないためにも、相互理解を深める対話を広げることが欠かせません。
 私も昨年5月、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(当時)と会見し、“戦争と核兵器のない世界”の実現が強く求められることについて語り合いました。
 また本年6月には、マレーシア国際イスラム大学の国際イスラム思想・文明研究所のアブデルアジズ・ベルグート所長と、仏法とイスラム教の平和思想を巡って意見を交換しました。
 創価学会やSGI(創価学会インタナショナル)としても、国連の活動に関わる会議などの場で、さまざまなFBO(信仰を基盤にした団体)と対話を進め、宗教者としての共同声明をいくつも発信してきました。
 今後も、こうした宗教間対話に積極的に取り組んでいく決意であります。
  
 そして第三の柱は、地球的な諸課題の解決を目指して共に行動する「グローバルな民衆の連帯」の輪を広げていくことです。
 同じ目標に向かって一緒に行動することは、国や民族の違いを超えて信頼関係を築く上での最良の土台となるものです。
 私たち創価学会とSGIは、国連の取り組みへの支援を軸に、人権や気候変動の問題をはじめ、地球的な諸課題を巡る活動を進める中で、このことを強く実感してきました。
 今こそ、国際社会の流れを、“互いの国が不信を募らせて軍事力を強化する時代”から、“人類共通の脅威や課題を取り除くために協力し合う時代”へと転換する必要があります。
 そのための努力を重ねる中で、おのずと「不戦の世紀」への道も、眼前に大きく見えてくるのではないでしょうか。

  

 かつて池田先生は、釈尊の「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波書店)との言葉を通しながら、こう訴えられました。
 「私たちには、同じ人間である以上、『己が身にひきくらべて』他者の苦しみに思いをはせることができる『内省』という名の心の音叉があり、誰に対してもどこにでも架けることのできる『対話』という名の橋がある。そして、どんな荒れ地も耕すことのできる『友情』という名の鍬があり、鋤がある」と。
 この精神に基づいて、私たちは世界192カ国・地域の同志と共に、すべての人々が平和で尊厳をもって生きられる「不戦の世紀」を建設するために行動を続けることを、終戦80年の節目に改めて強く決意するものです。