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きょう聖教新聞創刊75周年 原田会長が談話

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池田先生が撮影した世界聖教会館(2019年9月、東京・信濃町で)。「『生命凱歌』の言論城」たる聖教は、世界へ人間主義の希望の哲学を発信し続ける


聖教新聞はきょう2026年4月20日、創刊75周年を迎えた。

戦後の混乱と経済的苦境の中、第2代会長・戸田城聖先生は広宣流布の未来を展望し、池田大作先生に広布の原動力となる「新聞」の構想を語った。

そして、恩師・戸田先生の会長就任直前の1951年4月20日、聖教は創刊。きょうで2万2539号を数えた。

恩師の心を胸に池田先生は、小説『人間革命』『新・人間革命』の執筆・連載をはじめ、広布と正義の言論戦を大きく展開し、同志への励ましのペンを執り続けた。創価の師弟の魂が脈打つ聖教は今、世界の人々へ希望と勇気を送る「人間の機関紙」として一段と充実を期す。

  

内田健一郎氏が描いた「聖教創刊原点の誓い」

  

世界聖教会館の入り口にある「聖教新聞 師弟凱歌の碑」には「一人一人に励ましの手紙を綴る思いで、ペンの闘争に挑み抜いてきた」との池田先生の真情が刻まれている

原田稔会長談話
創価の正義を言論で宣揚


池田先生が逝去された2023年11月15日付の聖教新聞に掲載された、最後の随筆に記されていました。
 
「なぜ私たちは戦うのか。なぜ人材を育てるのか。それは、この世から『悲惨』の二字をなくしたいとの遠大な夢があるからだ」
 
この「遠大な夢」とは戸田先生の熱願にほかならず、池田先生は生涯をかけて、真の弟子の生き方を示してくださったように思えてなりません。
 
聖教の75年の歩みを振り返ると、それは師弟共戦の歩みそのものだと痛感します。
 
1950年8月24日、戸田先生は自身の事業が窮地に陥る中で、広宣流布の将来を見据え、機関紙発刊の構想を、まな弟子の池田先生に託しました。それからわずか8カ月後の51年4月20日、聖教新聞は産声を上げました。
 
池田先生は以来、寸暇を惜しんで自ら筆を執り、記事や見出し、写真の一つに至るまで揺るがせにせず、たびたびスタッフを指導しながら、日々の紙面に魂を入れてくださったのです。

  


私も64年に聖教新聞に入社し、翌年から小説『人間革命』の編集担当になりました。
 
当時の新聞は活版印刷で、原稿を工場に届けると、活字を拾うために切り分けられ、失われてしまいます。私は先生の直筆原稿を残すため、自分で書き写したものを工場に渡すようにしました。すると1回分を書き写し終える前に、次回分、次々回分と、先生から、すごい勢いで原稿が届くことが幾度もあり、師の言論闘争にかける「闘魂」を肌身で感じました。

連載開始時、週3回の発行だった聖教は、半年後に日刊化し、小説の連載も2倍以上に。国内はもとより海外指導にも赴き、激動の毎日を送る中での執筆がいかに至難であったか。先生は、体調を崩した際も口述筆記を行うなど、文字通り不惜身命のペンを執り続けてくださいました。


かつて先生が語られた言葉が、今なお私の脳裏に焼き付いています。映画「人間革命」のロケ地を訪れた帰りの車中で先生は、「牧口先生、戸田先生を宣揚するとはいっても、また、牧口門下がいかに多しといえども、牧口先生、戸田先生を現実に宣揚しているのは、誰もいないじゃないか! だから、私は、先師、恩師の偉業を書き残さなければならない。それが弟子の道じゃないか!」と。
 
その崇高な闘争は、終生変わることはありませんでした。
 
世界聖教会館の「聖教新聞 師弟凱歌の碑」に刻印された池田先生の言葉に、「永久に師弟共戦の師子吼が放ちゆかれることを信ずる」とあります。創刊75周年から100周年、そしてさらにその先へ、創価の師弟と正義を宣揚する聖教の使命はいや増して大きい。私もその発展に全力を尽くしていきます。
 
最後に、読者をはじめ聖教新聞を支える全ての皆さまに、衷心より感謝申し上げます。