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【戦争証言】平和への願いをこめて-沖縄-

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第2次世界大戦中、熾烈な地上戦が展開された沖縄。沖縄戦は、「鉄の暴風」とよばれた集中砲撃、捕虜になることを恐れた島民たちの「集団自決」、10代の少女たちを従軍看護婦に動員し、死に追いやった「ひめゆり部隊」など、多くの悲劇をうみました。

棚原富士子さん(当時8才)

1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸。棚原富士子さんは、もっとも激戦地であった沖縄本島の南部を家族16人で逃走。家族が相次ぎ亡くなる中、一人血まみれになりながら逃げました。

古波蔵重子さん(当時18才)

古波蔵重子さんは、沖縄戦の当時、18才でした。米軍の激しい攻撃の中を家族と共に逃走し、目の前で母親を亡くしました。

山田信子さん(当時20才)

山田信子さんは7人家族で山の中や谷底を逃げ続けましたが、上陸したアメリカ軍の攻撃により目の前で両親と弟を亡くしました。

比嘉アキさん(当時31才)

比嘉アキさんは宮崎に子どもたちを疎開させるため“学童疎開船”に乗り、翌日、アメリカ軍の潜水艦の魚雷を受け船は沈没。学童737人を含む1,484人(沖縄県援護課資料)が亡くなり、比嘉さんの子どもも犠牲になりました。

大泊ミツフさん(当時24才)

八重山地域の住民は、マラリア有病地帯へ強制疎開させられたといわれています。その結果、波照間島の島民の約30%(沖縄県援護課資料)がマラリアを発病して亡くなりました。大泊ミツフさんは家族を次々と亡くし、たった一人生き残りました。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。