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【戦争証言】平和への願いをこめて-引き揚げ-

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1945年8月9日、ソ連軍が参戦すると満州と朝鮮半島にいた日本人は日本を目指して、数百キロにわたる過酷な逃避行を開始しました。

黒澤民子さん(当時22才)

黒澤民子さんは、父親が満州鉄道に勤務することになり、チチハルに渡りました。終戦からわずか半年の間に、母、夫、父を相次ぎ亡くしながらも、2人の子どもと共に帰国することができました。

澤田茂子さん(当時22才)

澤田茂子さんが、満州の新京に渡ったのは結婚のためでした。終戦と同時に身重の体で逃避行を開始し、朝鮮半島の平壌の避難所で出産。多くの人に助けられ、奇跡的に子どもと共に帰国しました。

中尾シズカさん(当時29才)

中尾シズカさんは、引き揚げの過酷な状況の中、誰もが自分の身を守ることで精一杯でした。中尾さんは満州からの引き揚げの過酷な状況のなかで2人のお子さんを亡くした体験を語ります。

加藤レイさん(当時19才)

営林署の署長として赴任した父と共に朝鮮半島に渡った加藤レイさんは、終戦の翌年、38度線を目指して200キロもの道のりを歩き通し、その道中、祖母を亡くしました。

中野つや子さん(当時11才)

戦前、低迷する日本経済を背景に多くの農民が満蒙開拓団として満州国へ渡りました。全国で最も多くの満蒙開拓団を送った長野県の出身である中野つや子さんは、子ども心に戦争の悲惨さを刻み付けました。

明正尚美江さん(当時12才)

明正尚美江さんは、朝鮮半島から日本へ向かう引き揚げ船の中で、多くの人が栄養失調や病気による衰弱で、祖国を目の前にして亡くなっていったことが今も忘れられないと語ります。

この記事の取り組みは、以下の目標に寄与することを目指しています

●目標4. 質の高い教育をみんなに
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し生涯学習の機会を促進する

●ターゲット4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。