アタイデ総裁と池田大作先生の対談集『二十一世紀の人権を語る』

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今年(2018年)は「世界人権宣言」採択70周年。それを記念して、3月にはブラジル文学アカデミーで『二十一世紀の人権を語る』ポルトガル語版の新刊発表会が行われました。

ブラジル文学アカデミー総裁を長年つとめたジャーナリスト・アタイデ総裁と池田大作先生の対談集『二十一世紀の人権を語る』を紹介します。

二十一世紀の人権を語る アタイデ 池田大作
『二十一世紀の人権を語る』(聖教ワイド文庫)

  

アタイデ氏は戦後まもなく、世界人権宣言が起草・採択される際、ブラジル代表として草案作りに参加、条約に署名した貴重な生き証人として知られています。

「これほど『会いたい』と思った人は、初めて」

もともとトインビー対談を通して池田先生の存在を知ったアタイデ氏は、「これまで生きてきて、これほど『会いたい』と思った人は、初めて」ともらしています。

二人の出会いが実現したのは1993年2月、アタイデ氏が94歳のときでした。
ブラジルの空港で出迎えたアタイデ氏は到着予定の2時間も前から空港で待ち続けた逸話も知られます。

一方の池田先生は、自身の師匠であった戸田第2代会長の同世代であるアタイデ氏の足跡が「二重写しに思えてならない」と語り、戸田会長の誕生日をリオデジャネイロの地で一緒に迎えることができた偶然に感慨を深くしています。

アタイデ総裁は独裁を真っ向から批判し3度投獄され、3年にわたる国外追放に遭いながらも信念を貫きました。

リオデジャネイロ連邦大学卒業後、新聞記者となり、以来、70数年間、ジャーナリスト、論説記者として、働きつづけました。新聞に綴ったコラムは実に5万本。テレビに20年、ラジオには30年にわたって毎週出演し、晩年においても日に3本の記事を書き続け、ブラジルのジャーナリズム界を育てた人物とみなされています。

困難を乗り越えて成立した「世界人権宣言」

人類の永遠の規範ともいうべき「世界人権宣言」について、アタイデ氏が18人の起草委員会のメンバーの一人として活動した日々を率直に語る場面は、貴重な歴史の記録でもあります。

世界人権宣言は全30条で成り立ちますが、検討作業を始めて一カ月たってもわずか3カ条の討議しか終了していなかったとのエピソードや、報道の自由をめぐり否定的な意見を述べる国が出るなど、さまざまな困難を乗り越えて成立した過程が詳述されています。

宣言の内容は、第二次世界大戦の悲惨さの反省から生まれ、二度と人権抑圧を許すまいとの決意と希望が満ちあふれたものです。
アタイデ氏によると、宣言の内容は「まったく変更の余地のない」ものであり、「付け加えたり、削除したりする必要もない」ほどに仕上がったといいます。

21世紀を「新たなヒューマニズムが実現した時代」に

もともとブラジルは多民族社会として知られますが、「人権」をテーマにした本書において、「差異へのこだわり」をいかに克服していくかも重要なテーマとなっています。

94歳で池田先生に出会ったアタイデ総裁は、半年かけてこの対談を仕上げ、まもなく他界しました。
そのためアタイデ氏の長女は「自分の思想を残し伝える人に巡り会えたのだから、父は幸福だったと思う」と回想しています。

アタイデ総裁は、21世紀が「新たなヒューマニズムが実現された時代として、人類の歴史に深く刻まれることになる」ことを期待して本書を締めくくっています。
21世紀は精神の力がはかりしれないほどの働きを示す世紀になるだろうと期待し、池田先生も同調しています。

今年70周年を迎える「世界人権宣言」が人類の希望と決意のもとにできたことを学べる対談集です。

  

【対談者紹介】 アウストレジェジロ・デ・アタイデ(Austregsilo de Athayde)

1898年、ブラジル・ペルナンブコ州に生まれる。リオデジャネイロ連邦大学卒業後、新聞記者となる。

第3回国連総会にブラジル代表として参加し、「世界人権宣言」の作成に重要な役割を果たす。1959年ブラジル文学アカデミー総裁に就任、逝去までつづける。

著書に『苦い歴史』『アジサイの咲く頃』などがある。1993年9月逝去。

  



  

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