善き友と励まし合って進んでいく ~大聖人のことば~「善知識」

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「仏道修行」と聞くと、どんな光景を想像しますか?

山にこもって瞑想する。座禅を組んで精神統一する。
そのような、俗世間を離れ、ひとり悟りを目指すというイメージをもつ方が多いかもしれません。

たしかに、仏教の中には、人里を離れて孤独な修行を行う宗派も存在します。
一方、日蓮大聖人の仏法では、仏道修行とは、人とのつながりを大切にし、励まし合いながら、仏の生命境涯を開いていくことであると教えています。

分断や孤立とは無縁の、人とのかかわりの中で実践する仏道修行。
日蓮大聖人は、仏法で説く「善知識」を通して、その意義を門下に教えられています。

  


大聖人のことばを通して、石田男子部教学部長が解説します。

正しく導いてくれる「善知識」の大切さ

「知識」という言葉に、漢語で「友人・知人」の意味もあるということをご存知でしょうか。
もともと、サンスクリットの「ミトラ(友人)」を漢訳する際、「知識」という訳語を当てました。仏法では、仏の教えに正しく導いてくれる人のことを「善知識」といいます。

日蓮大聖人は、この「善知識」の大切さについて、門下へ送ったお手紙の中で次のように綴られています。

  

夫れ、木をうえ候には、大風ふき候えども、つよきすけをかいぬればたおれず。本より生いて候木なれども、根の弱きはたおれぬ。甲斐なき者なれども、たすくる者強ければたおれず。すこし健げの者も、独りなれば悪しきみちにはたおれぬ

(三三蔵祈雨事 御書新版1940㌻・御書全集1468㌻)


植えたばかりの木であっても、強い支えがあれば、大風が吹こうと倒れることはない、と仰せです。

この喩えを通して、仏道修行にあっては、善き信仰仲間や正しく導いてくれる師匠、すなわち「善知識」が不可欠であると教えられています。加えて大聖人は、その善知識に巡り合うことは容易ではないため、すすんで善知識を求めていくよう促されました。

少し強い者でも、独りであれば、悪い道では倒れてしまうと仰せのように、
独りよがりにならず、善知識と共にいればこそ、正しく仏道を歩むことができるのです。

  

善き友と共に歩むことが仏道のすべて

  

仏教の創始者である釈尊の、このようなエピソードが残っています。  

  

ある時、阿難という弟子が釈尊に尋ねました。

私どもが善き友をもち、善き友と一緒に進むことは、すでに仏道の半ばを成就したに等しいと思われます。この考え方は正しいでしょうか

   

阿難は、半分でも多いと感じていたかもしれません。しかし、釈尊は明確に答えます。

阿難よ、その考え方は正しくない。善き友を持ち、善き友と一緒に進むということは、仏道の半ばではなく、仏道のすべてなのである」と。

   

 

善き友と一緒に進むことは仏道の全てである――。ゆえに日蓮大聖人は、先ほどのお手紙で「仏になる道は善知識に勝るものはない」(1940ページ)と仰せになっているのです。

互いに包み合い、励まし合う“創価家族”の絆

創価学会は、善知識の集まりです。地位や立場を問わず、年齢や性別も関係なく、お互いの悩みや挑戦を語り、励まし合って活動しています。

池田大作先生は、次のように綴られています。

  

皆が楽しさを満喫して信心に励んでいくために、善知識である同志の連帯が、創価家族がある。家族ですから、悩みも、弱さも、ありのままの自分をさらけ出していいんです。上下の関係もありません。何でも語り合いながら、真心の温もりをもって互いに包み合い、励まし合っていく──それが創価家族なんです。

(小説『新・人間革命』第18巻 「広宣譜」の章)


善き友と支え合い、励まし合っていく。その連帯の中にこそ、真実の幸福の道は開かれるのです。