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マンガで学ぶ日蓮大聖人の御生涯 第1話(誕生~「立正安国論」)

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日蓮大聖人の御生涯ーーそれは、全人類の不幸を根絶し、すべての人々に仏の境涯を開かせたいとの誓願と慈悲に貫かれた妙法弘通の御一生でした。そして、民衆の幸福を阻む一切の悪を責め抜き、大難に次ぐ大難の御生涯でもありました。

創価学会は、民衆の幸福を願い救済し続けた日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、その御生涯をあらゆる機会に学んでいます。

第1話では、日蓮大聖人の誕生から「立正安国論」の提出までを、アニメでわかりやすく紹介します。
(全3話)

第2話(竜の口の法難〜佐渡流罪)はこちら
第3話(身延入山~御入滅)はこちら

  


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太陽と日蓮大聖人の絵。タイトル。マンガで学ぶ日蓮大聖人の御生涯 第1話(誕生~「立正安国論」)。

鎌倉時代のイメージ。今をさかのぼること800年ほど昔。鎌倉時代のことです。兜と甲冑。

上総国と安房国の地図の絵。貞応元年(1222年)2月16日、日蓮大聖人は安房国で誕生されました。

漁村の絵。漁業で生計を立てる庶民の出身でした。

幼い頃の日蓮大聖人の絵。12歳から安房国の清澄寺で、教育を受け「日本第一の智者となし給え」と請願を立てられます。父母、そして民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越える仏法の智慧を得ようとされたのです。

日蓮大聖人の出家後、各地を回られたイメージ。16歳の時、道善房を師匠として出家されました。各地を回って比叡山延暦寺などの諸大寺で勉強されました。

経典を学ぶ日蓮大聖人のイメージ。その結論として、法華経こそが仏教のすべての経典のなかで最も勝れた経典であり、南無妙法蓮華経こそが、万人の苦悩を根本から解決する法であることを確認されました。

遊学を終え戻られる絵。そして、南無妙法蓮華経を末法の人々を救う法として弘める使命を自覚し清澄寺に戻られます。

信徒の前で講義をするイメージ。建長5年(1253年)4月28日、清澄寺で念仏などを破折し、南無妙法蓮華経こそが、末法の民衆を救済する唯一の法だと宣言されます。

東条景信やその手先が日蓮大聖人を追いかけるイメージ。念仏の強信者だった地頭の東条景信ははげしく憤りました。大聖人はかろうじて迫害を免れ、やがて政治の中心、鎌倉へ赴かれます。

弘教をしているイメージ。鎌倉では名越あたりに草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。この弘教の初期に、富木常忍・四条金吾(頼基)・池上宗仲らが入信しました。

火事や飢饉によって人々が苦しむイメージ。大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。

度重なる災害の年表とそれに苦しむ人々のイメージ。改元も繰り返されましたが、効果はありませんでした。

正嘉の大地震のイメージ。正嘉元年(1257年)8月には大地震が起こり、鎌倉中の主な建物が壊れます。

倒れた人や建物を見て手を合わせる大聖人の絵。この災難の原因は何だろうか。なぜ、民衆は苦しまなければならないのか。人々の不幸を根絶するためにはどうすればいいのか。

考察を深めながら何かを書きを進める大聖人のイメージ。駿河国岩本の実相寺に赴き、一切経をひもといて考察を深められます。こうして書き上げられたのが「立正安国論」です。

北条時頼と巻物の絵。文応元年(1260年)7月16日、時の権力者・北条時頼に「立正安国論」を提出されます。

立正安国とは。立正、正を立てと読み下し、人々が人生のよりどころとして正法を信受し、仏法の生命尊厳の理念が社会を動かす基本の原理として確立されること。安国、国を安んずと読み下し、社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現すること。

法然他、浄土宗の僧侶たちのイメージ。天変地異の原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じること(謗法)にあり、最大の元凶は法然が説き始めた念仏の教えにある。

自界叛逆難、他国侵逼難のイメージとそれらに警鐘をならす大聖人のイメージ。悪法への帰依を続けるなら、経文に説かれている三災七難のうちまだ起こってない自界叛逆難と他国侵逼難が起こると警告されました。

第1回の国主諫暁のイメージ。「立正安国論」の提出は大聖人にとって初めての国主諫暁となりました。国主諫暁とは、国の主権者に対してその誤りをただし、正義を明らかにして諫めることです。

国主諫暁をしているイメージ。どうして国主諫暁を行ったのか。「立正安国論」で大聖人は次のように仰せです。汝すべからく一身の安堵を思わばまず四表の静謐を禱るべきものか。

祈っている人のイメージ。ただ自身の成仏を祈るだけの利己的な姿勢は、信仰者として正しいといえるのでしょうか。

大聖人の精神が民衆に広まるイメージ。仏法の理念・精神を根本に、積極的に社会の課題に関わっていくという仏法者のあり方を、大聖人は身をもって示されたのです。

幕府が「立正安国論」を黙殺したイメージ。大聖人の提出した「立正安国論」を幕府は黙殺しました。

念仏者たちが大聖人への迫害を企てているイメージ。幕府要人の内々の承認のもと念仏者たちは、大聖人への迫害を図ります。

念仏者たちが大聖人の草庵を狙っているイメージ。松葉ヶ谷の法難。文応元年(1260年)7月または8月、鎌倉弘教の拠点だった草庵を念仏者が襲います。

大聖人が海を眺めている絵。伊豆流罪。翌年の弘長元年(1261年)5月12日、伊豆の伊東へ流罪となりました。

手を合わせる大聖人の絵。所を追われることも経文に説かれている法華経の行者が遭う難の一つです。弟子と共に安房に向かう大聖人の絵。伊豆流罪を赦免された翌年、病気の母を見舞いに安房に赴かれます。

大聖人が襲われ傷を負うイメージ。小松原の法難。文永元年(1264年)門下の所へ向かわれる大聖人を地頭・東条景信が襲撃。大聖人は、額を切られ、左手を骨折。門下には死者も出ました。

蒙古の指導者が進軍を示唆しているイメージ。文永5年(1268年)蒙古からの国書が鎌倉に届きます。「立正安国論」で予言した他国侵逼難の到来です。十一通御書のイメージ。大聖人は、幕府要人、諸大寺の僧ら、11カ所に書状を送り、予言の的中を明示して、公開の場での法論を迫りました。

大聖人の提案を黙殺するイメージ。しかし、幕府も諸宗も大聖人のはたらきかけを再び黙殺します。真言宗の僧らが祈禱を行うイメージ。こうした時代の中で影響力を強めてきたのが、蒙古調伏の祈禱を行う真言僧でした。