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マンガで学ぶ日蓮大聖人の御生涯 第2話(竜の口の法難〜佐渡流罪)

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日蓮大聖人の御生涯ーーそれは、全人類の不幸を根絶し、すべての人々に仏の境涯を開かせたいとの誓願と慈悲に貫かれた妙法弘通の御一生でした。そして、民衆の幸福を阻む一切の悪を責め抜き、大難に次ぐ大難の御生涯でもありました。

創価学会は、民衆の幸福を願い救済し続けた日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、その御生涯をあらゆる機会に学んでいます。

第2話では、「竜の口の法難」から「佐渡流罪」までを、アニメでわかりやすく紹介します。(全3話)

第1話(誕生〜「立正安国論」)はこちら
第3話(身延入山〜ご入滅)はこちら

  


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波と日蓮大聖人の絵。タイトル。マンガで学ぶ日蓮大聖人の御生涯 第2話(竜の口の法難〜佐渡流罪)

法華経には末法に法華経を弘める者には3種類の強力な迫害者(三類の強敵)が現れるととかれています。三類の強敵のイメージ。

文永8年(1271年)夏、日照りが長く続いていました。この大旱魃に対して雨乞いをするこになったのが極楽寺の良観でした。

大聖人と良観のイメージ。良観に対し大聖人は申し入れをされます。7日のうちに雨を降らせたら良観の弟子になろう。もし降らなければ法華経に帰伏しなさいと。

祈雨する良観のイメージ。良観が祈雨をおこなった7日間、一滴も雨はふりませんでした。

大失敗した良観のイメージ。さらに7日たっても雨は降らず、暴風が吹く始末でした。

悪巧みをする良観のイメージ。良観は敗北を認めずさまざまな手をつかって大聖人の弾圧を企てます。良観は人々から徳のある高僧と崇められていました。しかし、実際は権力と結託し権威におごっていたのです。

平左衛門尉頼綱の尋問に臨まれる大聖人のイメージ。文永8年(1271年)9月10日。幕府に呼び出せれ平左衛門尉の尋問を受けます。

平左衛門尉頼綱の幕府内の役職のイメージ。平左衛門尉頼綱は侍所の所司(軍事・警察を扱う役所の次官)を務める幕府の実力者でした。

日蓮大聖人に対する平左衛門尉頼綱の尋問のイメージ。大聖人は平左衛門尉に対して仏法の法理のうえから、国を治めていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諫められました。

日蓮大聖人をとらようとするる平左衛門尉のイメージ。2日後のことです。る平左衛門尉が兵を連れて松葉ヶ谷の草庵を襲いました。

日蓮大聖人の顔を法華経第五の巻で打ちすえる兵のイメージ。この時、平左衛門尉の供の者が大聖人の持っていた法華経の経巻で大聖人の顔を打ちすえます。

竜の口の刑場に向かう大聖人のイメージ。夜、鎌倉のはずれにある竜の口へ連行されます。平左衛門尉らが、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。

日蓮大聖人に駆け寄る四条金吾のイメージ。護送される大聖人に命懸けで駆け付け従ったのが中心的な弟子の四条金吾でした。

日蓮大聖人の首に刀を振り下ろそうとする兵のイメージ。

光りものと怯える兵のイメージ。まさに刑が執行されようとしたその時、突然大きな光りものが夜空を走りました。兵士たちはこれに恐れおののいて、刑の執行は不可能となりました。

発迹顕本のイメージ。この法難を機に凡夫という迹(仮の姿)を開いて、凡夫の身に、生命にそなわる本源的な、慈悲と智慧にあふれる仏という本来の境地(本地)を顕されました。

弾圧に怯える門下のイメージ。法難の後、門下に対しさまざまな弾圧が行われました。一方、大聖人の処遇は決められず相模国の依智にある屋敷に留め置かれました。

依智を出発される大聖人のイメージ。結局、佐渡に流罪されることになり10月10日に依智を出発されました。

佐渡に到着された大聖人のイメージ。11月1日極寒の佐渡へ到着されます。

塚原三味堂のイメージ。佐渡での住まいは塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂でした。衣類や食料も乏しく生き抜くのも厳しい環境でした。

佐渡の念仏者のイメージ。また、佐渡は念仏者の多い土地でした。

塚原三味堂に集まる諸宗の僧らのイメージ。文永9年(1272年)1月、佐渡だけでなく北陸・信越などから諸宗の僧ら数百人が集まりました。

塚原問答の様子。次々と諸宗の僧らを論破される大聖人。

二月騒動のイメージ。塚原問答の直後に鎌倉や京都で北条一門の内乱が起こります。

大聖人のもとに向かう阿仏房と千日尼のイメージ。佐渡の地にも大聖人の人格に触れて大聖人に帰依する人々も出てきました。

佐渡を訪れた四条金吾のイメージ。また弾圧に屈しなかった弟子の中には大聖人を求め、遠路佐渡を訪れる者もありました。

一谷のイメージ。文永9年(1272年)塚原から一谷へと配所は移されます。

お手紙や御書をしたためる大聖人の様子。苦難の中でも同志に励ましのお手紙や重要な御書を書かれました。

なかでも重要なのが開目抄、観心本尊抄、この二つの書です。

大聖人を支える日興上人のイメージ。佐渡への流罪の間、常に大聖人を支えていたのが弟子の日興上人でした。