「自分らしく生きる」とは? ~日蓮大聖人のことば~「桜梅桃李」

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「自分らしく生きたい」
だれもがそう思う一方で、「自分らしく生きている」と実感している人は、どれくらいいるのでしょうか?

  


内閣府の若者に対する意識調査では、「自分自身に満足している」と答えたのは若者の45%にとどまりました。これは、他の国と比べて低い数字です。「自己肯定感」を持ちにくい日本の若者の姿が見えてきます。
※「子供・若者白書(令和元年版)」内閣府

日蓮大聖人が説かれた「桜梅桃李」という言葉の中に、「自分らしく生きる」とは何かを探っていきましょう。

語り手は原田教学部長です。

「桜梅桃李」とは

自分らしく、個性を活かすことを、日蓮大聖人は、「桜梅桃李」という言葉で説いています。この言葉は古くから使われており、鎌倉時代に成立した『古今著聞集』にも次のようにあります。

「春には『桜梅桃李の花』があり、秋には『紅蘭紫菊の花』がある。皆、錦繍の素晴らしい色合いであり、強い香りを放つ」

  


すなわち、桜、梅、桃、スモモ、それぞれの花々が、春に咲き薫る、華やかな様子を「桜梅桃李」と表現したのです。

「ありのまま」の姿で、仏の境涯を開き現す

日蓮大聖人は、この「桜梅桃李」という言葉を用いて、桜は桜、梅は梅と、各々の花が、それぞれの美しさで咲く様を、人が「自分らしく生きる」ことに例えて、次のように説きました。

  

桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見す

(御義口伝 御書新版1090㌻・御書全集784㌻)

無作とは、「本来、ありのまま」という意味です。また、三身とは、仏の3つの特性です。無作の三身とは、すなわち、生命に本来具わる仏の境涯のことです。

つまり、「桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見す」とは、桜、梅、桃、スモモが、それぞれ別の美しさの花を咲かせるように、妙法の力によって、その人の「ありのまま」を改めることなく、仏の境涯を開き現していくことができる、と拝せます。

  


仏といっても、何か特別な存在になることではないのです。御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えることで、その人の生命に本来具わっている、仏の境涯が花開いていきます。

その人でなければできない使命がある

それぞれの花が、咲く時季も、色や形も、香りも異なるように、それぞれの人に、その人ならではの個性があり、その人でなければできない役割や使命があります。その可能性を開いていくことが、日蓮仏法の目指すところです。

池田先生は、次のように綴られています。

  

人生は桜梅桃李である。
自分が他人になることはできない。
自分は自分らしく、
大輪を咲かせていけばよいのだ。
他人と比較する必要などまったくない。
むしろ、自分の“過去と現在”を比べて成長しているかどうかである。
誰もが無限の可能性に満ちたかけがえのない存在である。
はやく咲く人、ゆっくり咲く人、違いはあっても、
自分自身の幸福の花を必ず咲かせていけるのだ。

(『青年抄』57㌻)


仏法が説く「自分らしい生き方」。それは、今いる場所で、自分の使命を見つけ、祈り、挑戦していくこと。その、「桜梅桃李」の生き方に、勝利の花は必ず咲き薫っていくはずです。