〈池田先生のご功績〉1 恩師を守り死身弘法の青春

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画像 創価学会第三代会長就任時の池田大作先生

 

「広宣流布」即「世界平和」の大長征は、峻厳なる師弟の出会いから始まった。1947年(昭和22年)8月14日、当時19歳の池田先生は、東京・大田区での座談会に出席。戸田先生の確信と人柄に触れ、10日後の8月24日に入信した。
 
50年(同25年)8月、戦後の混乱期で事業が窮地に陥った戸田先生は学会の理事長を辞任する意向を発表。多くの同志が戸田先生のもとを去る中、池田先生は、不退の誓いを一首の和歌に託した。
 
 「古の 奇しき縁に 仕へしを 人は変れど われは変らじ」
 
師恩を忘れて変節する者が大勢いようとも、私は絶対に変わらない――真正の弟子の覚悟を定めた若き池田先生の死身弘法の激闘によって、師弟は難局を打開していく。51年(同26年)5月3日、窮地を脱した戸田先生は第2代会長に就任。「75万世帯の弘教」を高らかに宣言し、学会は新たな飛翔を開始した。

 

画像 逝去1カ月前の戸田先生と語り合う若き池田先生(1958年3月1日)。この日、戸田先生は愛弟子に語った。「大作、あとはお前だ。頼むぞ!」。そして3月16日――恩師が後継の青年たちに一切の後事を託す“広宣流布の記念式典”が挙行された
逝去1カ月前の戸田先生と語り合う若き池田先生(1958年3月1日)。この日、戸田先生は愛弟子に語った。「大作、あとはお前だ。頼むぞ!」。そして3月16日――恩師が後継の青年たちに一切の後事を託す“広宣流布の記念式典”が挙行された

 

当時の会員数は約3000人。誰もがはるか先の“夢物語”と捉えていたが、師の構想の実現に燃えていた池田先生は自ら折伏を実らせ、75万世帯への第一歩をしるす。そして、東京の蒲田や文京、札幌、大阪、山口などで拡大の金字塔を打ち立てた池田先生の奮闘によって、57年(同32年)12月、ついに学会は75万世帯を達成したのである。
 
一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる! 池田先生は訴えた。「私も青年部の時代、戦いに戦った。戸田先生を守り、学会を守りぬいた。これが真実の師弟の姿である」「創価の三代の師弟は、身をなげうって戦い、そして勝ってきた。師弟の道を外れて、栄光はない」