原田会長が談話を発表 1・26「SGIの日」に誓う

公開日:

 

1975年1月26日、グアムの地で結成されたSGI(創価学会インタナショナル)――。

当時、その場に集ったのは51カ国・地域のメンバーだったが、仏法を基調にした創価の民衆運動の連帯は、今や世界192カ国・地域にまで大きく広がっている。

池田大作先生はSGI会長として、世界平和や国連強化のための行動を続ける中、83年から、1・26「SGIの日」に寄せる形で平和提言の発表を40回にわたって続けてきた。

またSGIも、国連NGOとして軍縮・人権・環境・人道などの分野で積極的に活動を続ける一方、メンバー一人一人が世界各地で信頼と友情の輪を築き上げてきた。

 

画像 あらゆる差異を超えて、全ての人々の尊厳が輝く「生命の世紀」の建設を!――世界五大陸から集い、SGI青年研修会に参加した友が、時代変革の波動を共に力強く広げゆくことを誓い合った
あらゆる差異を超えて、全ての人々の尊厳が輝く「生命の世紀」の建設を!――世界五大陸から集い、SGI青年研修会に参加した友が、時代変革の波動を共に力強く広げゆくことを誓い合った(2023年9月、東京・新宿区の創価文化センターで)

 

こうした意義深き原点の日を迎えるに当たって、原田会長は「1・26『SGIの日』に誓う」と題する談話を発表した。

 


〈原田会長の談話〉1・26「SGIの日」に誓う

 

1995年1月26日、ハワイの東西センターで講演する池田先生。直前の17日に阪神・淡路大震災が発生する中、先生はハワイへの出発を延ばし、被災者への励ましに全力を。提言を24日に発表し、日本を出発したのは25日の夜だった。先生の毎年の提言は、こうした激闘の中で続けられてきたものにほかならなかった

核兵器のない世界を築き 人類の未来を開く
40回に及ぶ提言を重ねてきた池田先生

 

 きょう1月26日で、SGI(創価学会インタナショナル)の結成から50年目の日を迎える。
 あの日あの時、池田先生はスピーチを結ぶに当たって、「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」と呼びかけられた。
 以来、先生はその先頭に立って、二度にわたる世界大戦のような惨劇を再び起こさせないために、各国の指導者や識者と対話を重ね、世界の分断や対立の深まりに対して“防非止悪”の歯止めをかける挑戦を続ける一方で、民衆が連帯して「平和の文化」を築くための潮流を広げてこられたのである。

 

第3次世界大戦を起こさせない

 その中で、池田先生が各国の指導者や識者と重ねられてきた対話は1600回以上に及び、対談集は80点にものぼる。この第1号となったのが、1972年に発刊された、“欧州統合の父”リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯との対談集だった。
 ベトナム戦争が激化していた67年に出会って以来、先生と何度も会談したクーデンホーフ=カレルギー伯が、“世界の分断がこのまま進めば、第3次世界大戦によって全文明の決定的な崩壊につながりかねない”と警鐘を鳴らしつつ、こう述べたことがある。
 「新しい宗教波動だけが、この趨勢を止め、人類を救うことができる。創価学会は、それ故に、偉大なる希望である」と。
 この言葉は、“地球上から悲惨の二字をなくしたい”との戸田先生の熱願を果たすため、東奔西走を続ける池田先生の烈々たる気迫を、強く感じ取ったからこそ発せられたのではないかと思えてならない。
 
 その先生の信念の骨格を物語るエピソードが、『法華経の智慧』で紹介されている。第3代会長就任の翌年(1961年)に起きたベルリン危機に続いて、キューバ危機が62年に勃発するなど、その衝撃がさめやらぬ中で、先生が「撰時抄」の講義(64年発刊)を執筆されていた折の話である。
 ――御文の一文一句から、現代の世界が顧みるべき日蓮大聖人の精神をくみ取るべく、全力で取り組まれる中、執筆の作業が「前代未聞の大闘諍、一閻浮提に起こるべし」(新165・全259)の箇所にさしかかった。
 この一節に対し、教学部の間では“第三次世界大戦が起こるとの意味ではないか”との考えを抱くメンバーもいた。しかし先生は、断固として言われた。
 「もし本当に第三次世界大戦が起これば、原水爆等によって、人類は滅亡してしまう。かつての大戦以上の悲惨と苦悩を、人類は、また味わわなければならないのか。それでは仏法者として、あまりに無慈悲ではないか。われわれは、第二次世界大戦をもって、『前代未聞の大闘諍』と決定しよう。どんなことがあっても、第三次世界大戦は起こさせない」「広宣流布という世界の恒久平和、人類の幸福を、必ず達成しようではないか」と。
 
 この信念のままに池田先生は、冷戦対立などが激化する中で、SGI結成の前年(1974年)に、中国とソ連を相次いで初訪問された。6月に初訪中を終えて、時を置かずして初訪ソの準備に当たられたが、共産主義国に続けて足を運ぶことに対し、懸念の声や心ない非難の声もあった。それでも、先生の信念は全く揺るがなかった。
 「私は、なんのためにソ連に行くのか。それは、なんとしても第三次世界大戦をくい止めたいからです。だから中国に続いて、ソ連に行き、それから、アメリカにも行きます。日蓮大聖人のお使いとして、生命の尊厳と平和の哲学を携えて、世界平和の幕を開くために行くんです」と訴えられたのである。

 

核兵器禁止条約の実現にかけた信念

 さまざまな批判の嵐を打ち払って、池田先生は初訪ソ(74年9月)を果たし、中国を再訪(同年12月)した後、年明け早々の1月6日からアメリカに向かい、青年部が集めた「核廃絶1000万署名簿」を国連本部に届けられた。
 そして、1月26日に、太平洋戦争の激戦地でもあったグアムにおいて、SGI結成の会合に臨まれたのである。この1975年のSGIの結成を機に、先生は一段と力強く平和のメッセージを世界に発信されるようになった。
 
 同年11月に広島での本部総会講演で、核全廃を実現するための優先課題の一つとして「核兵器の先制不使用」の必要性を訴えたのをはじめ、78年5月には、第1回国連軍縮特別総会への提言を行い、「あらゆる国の核兵器の製造、実験、貯蔵、使用を禁止し、最終的には地上から、すべての核兵器を絶滅する」との年来の主張を訴えられた。
 この池田先生の呼びかけは、時を経て2021年1月に発効した核兵器禁止条約の主眼と、まさに重なり合うものだった。
 
 さらに先生は、1982年6月の第2回国連軍縮特別総会にも提言を寄せられた。
 そして、83年1月、「SGIの日」に寄せる形で最初の平和提言を発表され、以来、2022年まで毎年、のべ40回に及ぶ提言を重ねてこられたのである。
 1回目の提言の柱となっていたのは、まさしく核兵器の問題であり、40回目の提言に至るまで、紛争防止や人権、環境や人道問題など多岐にわたる地球的課題が論じられる中、毎年のように繰り返し取り上げられてきたテーマもまた、核兵器の禁止と廃絶への道を開くための提案にほかならなかった。
 
 池田先生が毎年の提言をはじめ、あらゆる機会を通じて、核兵器禁止条約の制定を強く呼びかける中、ついに2017年7月7日、条約は国連で採択をみた。
 その採択の翌月、池田先生は戸田先生とお会いして70周年となる日(8月14日)に執筆された一文で、条約の採択が実現したことへの真情を、こう綴っておられる。
 「私が、具体的な提案を呼び掛ける上で、特に重視してきたのが、次の四点である。
 ①市民社会が連帯して声を上げる
 ②核兵器の非人道性を議論の中軸に据える
 ③国連を舞台に条約づくりを進める
 ④被爆者の思いを条約の基本精神に刻む
 二〇〇七年からは、SGIとして、『核兵器廃絶への民衆行動の十年』の取り組みを進め、核兵器廃絶国際キャンペーンなど多くの団体と協力して連帯を広げてきた。
 こうした核廃絶への四つの潮流を国際社会で押し上げる努力を続けるなかで、『核兵器禁止条約』が一二二カ国の賛成を得て、ついに採択されたのである。
 あの日、三ツ沢の競技場で誓った先生との約束を、大きく果たしゆく歴史が刻まれたことは、弟子として無上の誉れである。『核兵器禁止条約』への各国の署名は、奇しくも『原水爆禁止宣言』六十周年と時を同じくして、九月の国連総会の開幕を機に始まることになった」と。

  

画像 「原水爆禁止宣言」30周年を目前に控えた1987年5月、モスクワで行われた“核の脅威展”。開幕式で池田先生は、核兵器の悲惨さを訴え続けることは、「日本人として、また平和主義者、仏法者としての使命であり、責任であり、義務であるとともに、偉大なる権利でもある」との信念を語った
「原水爆禁止宣言」30周年を目前に控えた1987年5月、モスクワで行われた“核の脅威展”。開幕式で池田先生は、核兵器の悲惨さを訴え続けることは、「日本人として、また平和主義者、仏法者としての使命であり、責任であり、義務であるとともに、偉大なる権利でもある」との信念を語った

 

三代の会長の精神を受け継ぎ
地球的課題に立ち向かう挑戦を

 

 戸田先生の「原水爆禁止宣言」以来、池田先生が師弟共戦の行動を重ねてこられた信条は、最後の平和提言となった2022年の提言の結びの言葉にも凝縮されている。
 私たちは、以下の結びの言葉を、創価学会の社会的使命の根幹をなすものとして受け継ぎ、力を合わせて果たしゆくべき池田先生との誓いとして行動を広げてまいりたい。

 

 「核兵器の非人道性は、その攻撃がもたらす壊滅的な被害だけにとどまりません。
 どれだけ多くの人々が、“社会や世界を良くしたい”との思いで長い歳月と努力を費やそうと、ひとたび核攻撃の応酬が起これば、すべて一瞬で無に帰してしまう――。あまりにも理不尽というほかない最悪の脅威と、常に隣り合わせに生きることを強いられているというのが、核時代の実相なのです。
 私どもが進めてきた核廃絶運動の原点は、戸田第2代会長が1957年9月に行った『原水爆禁止宣言』にあります。
 核保有国による軍拡競争が激化する中、その前月にソ連が大陸間弾道弾(ICBM)の実験に初成功し、地球上のどの場所にも核攻撃が可能となる状況が、世界の“新しい現実”となってまもない時期でした。
 この冷酷な現実を前にして戸田会長は、いかなる国であろうと核兵器の使用は絶対に許されないと強調し、核保有の正当化を図ろうとする論理に対し、『その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい』と、語気強く訴えたのです。
 一人一人の生きている意味と尊厳の重みを社会の営みごと奪い去るという、非人道性の極みに対する戸田会長の憤りを、不二の弟子として五体に刻みつけたことを、昨日の出来事のように思い起こします。
 私自身、1983年以来、『SGIの日』に寄せた提言を40回にわたって続ける中で、核問題を一貫して取り上げ、核兵器禁止条約の実現をあらゆる角度から後押ししてきたのも、核問題という“現代文明の一凶”を解決することなくして、人類の宿命転換は果たせないと確信してきたからでした。
 時を経て今、戸田会長の『原水爆禁止宣言』の精神とも響き合う、核兵器禁止条約が発効し、第1回締約国会合がついに開催されるまでに至りました。
 広島と長崎の被爆者や、核実験と核開発に伴う世界のヒバクシャをはじめ、多くの民衆が切実に求める核兵器の廃絶に向けて、いよいよこれからが正念場となります。
 私どもは、その挑戦を完結させることが、未来への責任を果たす道であるとの信念に立って、青年を中心に市民社会の連帯を広げながら、誰もが平和的に生きる権利を享受できる『平和の文化』の建設を目指し、どこまでも前進を続けていく決意です」

 

具体的な提案をSGIとして発信

 私たちは、SGIの結成に当たって池田先生が呼びかけられた言葉とともに、この最後の提言の一節を、「人道的競争」を提唱した牧口先生の思想や、「原水爆禁止宣言」に脈打つ戸田先生の精神と合わせて、創価学会の平和運動の礎に据えて、志を同じくする人々や団体と連帯し、「核兵器のない世界」と「戦争のない世界」の実現を目指していきたい。
 そして、核廃絶や戦争の防止はもとより、環境や人権、気候危機や人道問題など、人類が直面するさまざまな課題を解決するための提言を、SGIとして継続的に発信していくことを、ここに誓うものである。
 
 かつて池田先生は、平和提言の発表をたゆむことなく続けてきた信念の支えになってきたものとして、次のような戸田先生の言葉に言及されたことがあった。
 「人類の平和のためには、“具体的”な提案をし、その実現に向けて自ら先頭に立って“行動”することが大切である」
 「たとえ、すぐには実現できなくとも、やがてそれが“火種”となり、平和の炎が広がっていく。空理空論はどこまでも虚しいが、具体的な提案は、実現への“柱”となり、人類を守る“屋根”ともなっていく」
 
 私たちも、池田先生の弟子として、三代の会長の“平和と人道の闘争”に一分なりとも連なるべく、それぞれの使命の舞台で「平和の文化」の担い手として行動し、人類の悲惨の流転史を変革するための「民衆のスクラム」をどこまでも力強く広げていきたい。

 


 

 〈引用文献〉 クーデンホーフ=カレルギーの言葉は、齋藤康一著『写真 池田大作を追う』(講談社)所収。2017年8月の池田先生の言葉は、創価学会神奈川青年部編『受け継がれる平和の心』(潮出版社)所収の特別寄稿から。