このページの本文へ移動

本文ここから

能登半島地震から1カ月 被災地で奮闘する友 石川・輪島市、珠洲市

公開日:

●石川・輪島市 高木雅啓さん・正子さん
「心の財」胸に這い上がる

  

輪島市内の小学校で避難生活を続ける高木雅啓さん㊥・正子さん㊨夫妻と次男の智啓さん。高木さんは「同志は、本当にありがたい」と何度も語った

  

高木雅啓さん(能登圏鳳至本部、副本部長)は、日本が誇る重要無形文化財の一つ「輪島塗」の蒔絵師。漆の世界に憧れ、18歳で広島から単身、輪島市へ。今年で46年になる。
 
輪島市では、地震による火災や倒壊した建物により100人を超える命が奪われた。
 
高木さんは妻の正子さん(支部副女性部長)、2人の息子と共に自宅で被災した。激しい揺れで、ふすまやガラス戸、照明など次々に物が降ってくる。玄関に向かったが、ドアが開かない。割れた窓の隙間から、なんとか脱出した。外に出て、がく然とした。隣の空き家が崩れ、自宅にもたれかかっていた。近くに止めていた車も、倒壊した家屋の下敷きに。命からがら、近隣の小学校の体育館に避難した。
 
こんな試練はあの日以来か……。高木さんの脳裏に男子部時代の記憶がよみがえる。
 
――結婚の翌年、初めて授かった子が死産だった。正子さんの命も危ぶまれ、緊急手術に。深夜の病院の待合室。悲哀に暮れる高木さんに男子部の先輩が寄り添ってくれた。
 
それを機に、信心の姿勢が変わり、学会活動と仕事に励んだ。展覧会では輪島市長賞をはじめ数々の賞に輝いた。後に、2人の子どもも誕生。輪島塗に携わるメンバーで構成される「宝塔グループ」の一員として、幾度も師匠との原点を築いた――。

  

高木さんが手がけた輪島塗の「ぐい飲み」。葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を模写した(本人提供)

  

避難生活を余儀なくされて1カ月。高木さんの心の支えとなっているのは、同志が手渡してくれた、東日本大震災の被災者に宛てた池田先生のメッセージだ。「『心の財』だけは絶対に壊されません」との言葉に顔を上げた。
 
余震に備えつつ、妻と共に損壊した家の整理を続ける。また、避難所の掃除や灯油の運搬、食事のサポートなどに率先して取り組む。
 
「家も車も仕事も失った。私一人なら、心が折れていたかもしれない。でも、妻も子どもも、同志もいる。心に師匠がいる。どん底まで落ちたので、あとは這い上がっていくだけ。それが師匠と同志への恩返しですから」

  

●石川・珠洲市 納谷宣彦さん・正子さん
愛する郷土のために動く

  

二人三脚で地域に尽くす納谷宣彦さん㊧・正子さん夫妻。宣彦さんは「妻のおかげで頑張れます」と(珠洲市内で)

  

地震による津波などで甚大な被害を受けた珠洲市。4500戸を超える家屋が損壊し、多くの犠牲者が出た。
 
落石や土砂崩れ、地割れ等で道路が寸断され、孤立状態となった地域もある。その一つが珠洲市高屋町。納谷宣彦さん(能登圏・禄剛支部、副支部長兼地区部長)・正子さん(地区女性部長)夫妻は、この地で近隣と助け合い、自宅のガレージで生活している。
 
発災時、屋根の瓦が崩れ落ち、裏山の岩が家の前まで落下してきた。慌てて家族で逃げたが、通信障害の影響で情報がつかめず、車で不安な夜を過ごした。
 
翌朝、町内を回ると、住み慣れた町並みが一変していた。大半の家屋は損壊し、海岸も隆起。落石や土砂崩れなどで道路が寸断されていた。
 
町内会の班長を務める納谷さんは地域住民の安否が気にかかり、一人一人の元へ。停電や断水の中、皆で食料を分け合いながら、空腹をしのいだ。
 
1月3日になって、ヘリコプターが到着。負傷者や妊婦などが優先的に運ばれた。その後、狭く険しい峠道を自衛隊が整備し、同11日には、住民の大半が車両で避難した。

  

珠洲市の高屋集会所。悩みなどを語り合う、地域の憩いの場に

  

震災前、90人弱が暮らしていた高屋町も、現在は10人ほどに。納谷さんは町内会の区長代理となり、行政と密に連携を取りながら、支援物資の搬入などを行っている。
 
一方、正子さんは近隣に食事をふるまいつつ、「多くの方の支えがあって今がありますので」と語る。
 
夫妻の真心こもる声かけが、周囲の人々の心を温める。
 
高屋町に残る住民は毎日、午後になると、地域の集会所に集まり、近況を報告し、励まし合う。納谷さんは「顔を見て話すと、健康状態や困っていることなどを知ることができるんです」と。
 
停電や断水など、まだまだ厳しい状況が続く。「大変な時だからこそ、珠洲のために頑張りたい」。納谷さん夫妻は、愛する郷土のため、変毒為薬の祈りと行動を重ねる。