2024.09.06
〈特集 師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年〉② 民衆凱歌へ 不惜の激励行
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どこまでも「一人」のために 全国の同志と結んだ共戦の絆
池田大作先生の巨大な足跡を6回にわたって特集する「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」。第2回は「民衆凱歌へ 不惜の激励行」と題し、第3代会長就任以来、北は北海道・稚内から南は沖縄・石垣島まで、日本全国の津々浦々に刻まれた同志との励ましのドラマを追う。
青年会長の誕生
1960年(昭和35年)5月3日の午前10時半過ぎ。池田先生が車から降り立った。場所は東京・両国の日大講堂(当時)。黒のモーニングは戸田城聖先生の形見である。
第3代会長就任式は正午に開会した。音楽隊による学会歌の演奏が轟く中、池田先生が入場。途中、先生は歩みを止め、前方に高く掲げられた戸田先生の遺影を見上げた。
壇上に立った池田先生は、力強く第一声を放った。
「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」
参加者は、場内外で2万余人。雷鳴のような拍手が包む。全同志が待ちに待った、32歳の青年会長の誕生であった。
席上、池田先生は、戸田先生の遺言である300万世帯を、4年後の七回忌までに成し遂げようと呼びかけた。
これは、「第五の鐘」の具体的な目標となった。
「七つの鐘」構想
7年ごとに広布前進のリズムを刻む「七つの鐘」――池田先生がこの構想を発表したのは、戸田先生の逝去から1カ月後の1958年(昭和33年)5月3日。当時、一部マスコミは「壊滅寸前の創価学会」などと書き立てていた。
そうした中、悲しみに沈む同志にどうやって希望を送ればいいのか。池田先生はただ一人、思索を深めていた。
当時の日記には、こう記されている。
「ひとり二十年後の学会を、考えゆく。心労あり。苦衷あり」(4月30日)
そして、5月3日の「七つの鐘」構想の発表となる。
これは、戸田先生が生前、「7年を一つの区切りとして広宣流布の鐘を打ち、『七つの鐘』を打ち鳴らそう!」と語っていたことから、池田先生が着想したものであった。
「第一の鐘」は、30年(同5年)の学会創立から創価教育学会が正式に発足した37年(同12年)までの7年。
「第二の鐘」は、44年(同19年)の牧口常三郎先生の逝去までの7年。
「第三の鐘」は、51年(同26年)の戸田先生の第2代会長就任まで。
「第四の鐘」は、戸田先生が生涯の願業であった会員75万世帯を成就し、逝去するまでの7年である。
その上で、我らは、このリズムのままに7年また7年、未来を見据えて「第五の鐘」「第六の鐘」と勇気と確信をもって進み、「第七の鐘」が鳴り終わる21年後を目指して戦おうとの宣言である。
この壮大な指標は、同志が前を向く力となった。
そして学会は「第五の鐘」の目標である300万世帯を62年(同37年)に達成。「第六の鐘」で750万世帯を突破し、「七つの鐘」が鳴り終わる79年(同54年)には、日本の広布の基盤が完成する。
一期一会の励まし
「学会がここまで発展してきたのは、なぜでしょうか」
ある識者の質問に、先生は「一人を大切にしてきたからです」と答えている。
それは、池田先生の人生そのものであった。
先生は未来への指標を示すだけでなく、全同志が幸福勝利の人生を歩めるよう、渾身の励ましを送った。民衆凱歌の時代を切り開くため、一人一人と共戦の絆を結んだ。
1965年(昭和40年)3月22日、宮城・仙台市で地区部長会が開かれた後のこと。その日、先生の手は赤く腫れ上がっていた。約600人の参加者全員と、2時間にわたって握手したのだ。手に痛みが走り、万年筆を握ることすらできなくなった。
8日後には、長野の地区部長会が予定されていた。
“生涯の原点となる出会いをつくってあげたい”
その一心で握手に代わる激励として考えられたのが、記念撮影だった。
のちに、先生はこうつづっている。「できうるならば、全国の地区の柱として立つ、壮年・婦人・男子・女子・学生の中心者の方々全員と握手をして、励ましたい。しかし、それは、時間的にも次第に困難になっていった。そこで智慧を絞り、せめてもの思いで発案した」
聖教記者の調べによると、先生が65年からの8年3カ月で記念撮影した相手は、少なくとも延べ71万8550人に及ぶことが分かっている。
それも、ただ写真に納まるだけではない。“もう会えないかもしれない”との一期一会の思いで撮影の合間に真心の声をかけ、一人一人の悩みにも耳を傾けた。高熱を押して出席したこともあった。何回もフラッシュを浴び、目を痛めることも。まさに不惜身命の激励行だった。
72年(同47年)7月14日、岩手県営体育館では12回に分けて3600人との記念撮影を行った。疲労困憊で、出された食事も喉を通らない。それでも時間になると力強く立ち上がり、同志のもとへ駆け寄った。
この日、撮影を終えた先生は盛岡の会館に向かい、かつて小学生たちと交わした“約束”を果たしている。
きっかけは、先生のもとに将来の夢などがつづられた子どもたちの手紙が届けられたこと。その時、先生は“岩手に行った時に会いましょう”と伝言していたのだ。
会館に着いた子どもたちを「よく来たね」と出迎え、本の見返しに励ましの言葉を認めた書籍を贈っている。
「もう心配ないよ」
第1次宗門事件の嵐の中の1979年(昭和54年)4月24日、池田先生は宗門僧の理不尽な攻撃に終止符を打ち、会員を守るために一切の責任を負って第3代会長を辞任。師弟分断を画策した悪侶と反逆者らは、先生に“会合で指導してはいけない”“聖教新聞に出てはいけない”と押しつける一方、かさにかかって学会を攻撃し、同志を苦しめていた。
この79年のある日、神奈川文化会館で会合が行われた。その声を会場の外でじっと聞いていた先生は、会合の進行を妨げないよう、会場前方の扉から、そっと入場した。
先生の姿に気付いた友が、歓呼の声を上げる。すると、先生は「私は話してはいけないことになっているから」と口に人さし指を当てた。
そして、会場内にあるピアノの方へ。「熱原の三烈士」「厚田村」など数曲を弾くと、静かに会場を後にした。
この頃、同会館で幾度となく見られた光景であった。
この第1次宗門事件で、大分は、悪侶の圧迫に最も苦しんだ地域の一つである。寺に行くたびに聞かされるのは、先生や学会への悪口ばかり。同志は歯を食いしばり、理不尽に耐えに耐えた。
先生は、81年(同56年)秋から本格的な反転攻勢を開始した。“最も苦しんだ同志のために”と12月12日、大分・竹田市の岡城址を訪れている。
「もう心配ないよ!」
駐車場に降り立った池田先生のもとに駆け寄る学会員の安堵の表情、そして涙……。
その場に居合わせた未入会の友がいる。当時、学会が大嫌いだった。妻に「この日だけは」とお願いされて参加したものの、「宗教の指導者なんて、どうせ威張り散らしているんだろう」と決めつけていた。しかし、先生の振る舞いを目の当たりにし、3カ月後に信心を始めている。
その友は、先生の姿をこう振り返る。「庶民の海の中に飛び込んでいくようでした」
この出会いの後、先生は語った。「会った人も大事だが、会わなかった人は、もっと大事だ」「旅の無事を祈り、真剣に題目をあげ続けてくださったんだ。その方々と、私は心で会った。その方々のおかげで、学会は勝ったんだ」
広布の大ロマン
全国の友に希望の灯をともし続けてきた池田先生は折に触れ、21世紀が開幕する2001年(平成13年)の5月3日から第二の「七つの鐘」を打ち鳴らすことを念願してきた。
1997年(同9年)5月には、関西で23世紀後半までの壮大な新しい「七つの鐘」の構想を示している。
第二の「七つの鐘」となる21世紀前半の50年では、アジアをはじめ世界の平和の基盤を築き、第三の「七つの鐘」となる21世紀後半では「生命の尊厳」の哲学を時代精神、世界精神へと定着させる。
第四の「七つの鐘」となる22世紀前半には、世界の「恒久の平和」の崩れざる基盤をつくる。その基盤の上に、第五の「七つの鐘」となる22世紀後半には絢爛たる人間文化の花が開き、それが実現すれば第六の「七つの鐘」、第七の「七つの鐘」と進み、日蓮大聖人の立宗1000年(2253年)を迎える23世紀の半ばごろから、新たな展開が始まるであろう――と。
現在は第二の「七つの鐘」の前進の途上にある。先生はこの鐘が鳴り終わる学会創立120周年(2050年)を展望し、こうつづっている。
「その時、仏法の人間主義の哲学が、どれほど世界を照らす太陽と輝き、我ら創価の大連帯が、どれほど人類の平和の柱と仰がれていることか。私の胸は熱くなる」
この広布の大ロマンはつまるところ、「一人の励まし」に徹し抜く行動によってのみ実現する。その方程式は全て、池田先生の行動の中に示されている。