2024.11.01
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〈特集 師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年〉⑤ 命を削るペンの闘争
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文の生命に限りはない
11月18日付の学会創立記念日を飾る聖教新聞の1面には、池田大作先生が生前、全同志に詠み贈った和歌が掲載された。20日付には創価学園生へのメッセージ、21日付には「御書と未来へ」――命の燃え尽きるまで、師子吼の言葉を放ち続けられた先生。特集「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」の第5回は「命を削るペンの闘争」。時に法悟空として、時に桂冠詩人として展開された、言論闘争の足跡をたどる。
燃え上がる信仰で無辺の言葉をわれはつくる
「燃えあがる信仰で 無辺の言葉をわれはつくる」
池田大作先生は、そう詠んだことがある。
友を励ますためには、わが身を惜しまない。しかし、直接会える人には限りがある。ならば、ペンの力で励まそう。
人間の命は有限であるが、言葉の命は無限である。時代を超える普遍の仏法哲理を、師弟の真実をつづり残そう。
それが池田先生の決意であり行動であったに違いない。その言論闘争は、戸田城聖先生のもとで薫陶を受けた青春時代に始まっていた。
未来からの使者たちへ 池田大作 輝く童話の世界
山本伸一郎の名で
池田先生が、恩師の経営する出版社・日本正学館に初出勤したのは1949年(昭和24年)1月3日。21歳になった翌日である。
同年5月には、少年雑誌「冒険少年」(のちに「少年日本」)の編集長に就任。“日本一の少年雑誌を!”と、夢中で取り組んだ。
東京・西神田の小さな出版社で、連載の企画や原稿の依頼・受け取り、挿絵の依頼、レイアウトなど、一人で何役も担った。書き手の都合がつかない時は、「山本伸一郎」の名で自らペスタロッチやジェンナーの伝記も書いた。
しかし、ドッジ・ラインがもたらした戦後不況のあおりで、戸田先生の出版事業は挫折。会社は信用組合に業態を変え、池田先生も編集の仕事を離れることになった。
しかし、その組合の事業も50年(同25年)夏にはいよいよ行き詰まり、戸田先生は絶体絶命の苦境に陥る。その中で師弟は、新聞創刊の構想を語り合った。
この頃、戸田先生は池田先生に「なぜ、日蓮大聖人の一門は、あれほどの大難の連続も勝ち越えることができたのか」について論じている。
「大聖人は、お手紙を書いて書いて書き抜かれて、一人ひとりを励まし続けられた。だから、どんな人生と社会の試練にも、皆、負けなかった。この大聖人のお心を体した新聞を、大作、大きく作ろうではないか!」
池田先生の陰の闘争ありて窮地を脱した戸田先生は51年(同26年)5月3日、第2代会長に就任。その直前の4月20日、聖教新聞が創刊された。恩師は自ら健筆を振るった。創刊号の1面を飾った「信念とは何ぞや?」の記事も、コラム「寸鉄」も手がけた。
弟子も懸命にペンを握った。「これでは、人の心は打たぬ!」「論旨が不明瞭である!」と、師の訓練は厳しかった。戸田先生の膝下で池田先生は、広宣の闘士の腕を鍛えるだけでなく、ペンの剣をも磨き上げていった。
妙悟空と法悟空
戸田先生は「妙悟空」の名で連載小説も書いた。タイトルは『人間革命』。主人公の「巌九十翁」は、小説の後半から自身がモデルに。牧口常三郎先生と共に投獄された獄舎で、“われ地涌の菩薩なり”と自覚する「獄中の悟達」の場面で小説は終わる。
それでは、戸田先生が「巌窟王」となって、獄死した牧口先生の仇を討たんと広宣流布に一人立ち、75万の地涌の菩薩を呼びいだした後半生を誰が書き残すのか――。
小説「人間革命」「新・人間革命」 恩師と学会の真実を綴る
池田先生が、恩師の伝記小説をつづる決意をした主な契機が3度あった。
51年(同26年)春。戸田先生が、小説『人間革命』の原稿を見せてくれた時。
54年(同29年)8月。恩師の故郷、北海道・厚田村(当時)に同行した時。
そして57年(同32年)8月。戸田先生と最後の夏を過ごした長野・軽井沢での語らいである。
「先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の、私への期待であり、弟子としての私の使命であろう」と、先生は固く誓ったのである。
60年(同35年)5月、その弟子は第3代会長に。
64年(同39年)4月、戸田先生の七回忌法要の席上、恩師の伝記小説である『人間革命』の執筆を宣言する。
会長就任から4年。恩師の遺言である300万世帯を既に62年(同37年)に達成し、青年会長のもと、学会は日の出の勢いで躍進を続けていた。
64年12月2日、先生は沖縄の地で執筆を開始。翌65年(同40年)1月1日付から聖教新聞で連載がスタートした。ペンネームは「法悟空」。仏法の原理に則れば、“妙”が師、“法”が弟子となる。半世紀を超える“師弟の物語”が始まった。
激闘の中で
「新聞の連載小説は過酷な作業である」と、池田先生は記している。まして、広布のため平和のため、東奔西走の日々。それでも、海外訪問や地方指導の折にも小説の構想を練り、原稿用紙に向かった。
69年(同44年)11月末ごろからは、いわゆる「言論・出版問題」が勃発。先生は一切の矢面に立った。
70年(同45年)2月9日付の聖教新聞から、第6巻「七百年祭」の連載が始まっている。当初は戸田先生の生誕日である「2月11日」開始を予定していたが、「一日も早く再開してほしいとの全国の読者の強い要望等もあり」掲載が早まった、と記事にある。土曜、日曜は休載の予定だったが、読者の要望に応えて、日曜のみ休載になったとも。
学会丸を荒波が襲う中で、懸命に操舵しながら、先生はただ同志のために執筆を続けた。
体調を崩し、ペンを握ることができない日には、口述し、テープに吹き込んだ。
第9巻「発端」の章の原稿には、欄外に「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と記したものがある。この時、夫人が使用した小さな机は「香峯子机」と呼ばれた。
しかし、これほどの執念で続けた連載も、一時は休止を余儀なくされた。79年(同54年)4月、第3代会長を辞任。宗門の悪侶と退転・反逆の徒らが結託し、学会から師弟の精神を消し去ろうと画策していた。先生は行動を制限され、聖教の紙面からも先生の指導の掲載が消えた。同志にとっては、暗夜をさまようような日々であった。
「このままでは、同志がかわいそうだ。励まそう。勇気を送ろう。『人間革命』の連載を開始しよう。そのための非難は、私が一身に受ければよい」
翌80年(同55年)7月、先生は2年間休載していた『人間革命』の再開を決意し、第11巻の執筆を始める。体調が優れず、何度も体を横たえながら、担当記者に口述して、連載を続けたこともある。その一文字一文字は、同志の希望の光となり、反転攻勢への勇気の炎をともしていった。
永遠に指揮を
小説『人間革命』は、93年(平成5年)2月11日、恩師の生誕93周年の日に連載が完結。11月18日からは続編となる『新・人間革命』の連載が開始された。
執筆を開始したのは同年8月6日。恩師と最後の夏を過ごした、あの軽井沢である。
第1巻の「はじめに」で、先生はつづっている。
「『新・人間革命』の執筆をわが生涯の仕事と定め、後世のために、金剛なる師弟の道の『真実』を、そして、日蓮大聖人の仰せのままに『世界広宣流布』の理想に突き進む尊き仏子が織りなす栄光の大絵巻を、力の限り書きつづってゆく決意である」
小説だけではない。98年(同10年)1月からは随筆「新・人間革命」の掲載も始まった。第1回のタイトルは「日に日に新たに」。そこに先生は、80歳以降を展望して「このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとる」と記した。
2018年(同30年)8月6日、先生は『新・人間革命』の筆を置き、9月8日に全30巻の連載が完結。連載回数は『人間革命』『新・人間革命』を合わせて7978回。400字詰め原稿用紙で2万枚を超えた。日本の新聞小説史上、最長の金字塔である。
最終章には、2001年11月の本部幹部会で、先生が呼びかける場面が描かれた。
「どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です」
場所は東京戸田記念講堂。先生の創価学会葬が営まれた師弟の殿堂である。
随筆の掲載は1998年から今月まで、25年間続いた。最後の掲載は11月15日、読者のもとに届いた。霊山へ旅立つその日である。
先生は、その最後につづった。
「『世界青年学会』の礎は盤石である。いやまして地涌の青年の熱と力を結集し、地球民族の幸福の価値創造へ、『人材の城』を築き、『平和の園』を広げようではないか!」
聖教を主戦場に
「私は聖教新聞を主戦場として、創価の師弟の真実を永遠に刻み残す決意で、一人一人に励ましの手紙を綴る思いで、ペンの闘争に挑み抜いてきた」
世界聖教会館の「聖教新聞 師弟凱歌の碑」には、池田先生の碑文が刻まれている。
まさに池田先生ありての聖教新聞。先生は自ら筆を振るうだけでなく、記者の育成にも力を尽くした。
かつて、ある宗教社会学者は「聖教新聞を見るたびに、私には池田名誉会長が『この記事で会員が本当に納得し、喜ぶか、満足するか』等とスタッフを厳しく叱咤しておられる声が聞こえてくるようです」と語ったことがある。
小説『新・人間革命』には、随所に聖教新聞の使命がつづられ、記者・職員を励ます場面が描かれた。
日刊化当時の奮闘を描いた第10巻「言論城」の章に、会長の山本伸一が、紙面を講評し、厳しくも温かいアドバイスを送る場面がある。
「最初の入り方が平凡だ。冒頭で、人の心をつかむことだよ」「体験談の文章というのは、生き生きとした状況の描写が大事だ」「ともかく、新聞の生命は正確さだ」
記者だけではない。写真部員や整理記者、さらに広告や輸送・配達担当など、聖教を支える全ての職員に“聖教魂”を打ち込んでいった。
「聖教らしさ」とは何か。先生は書き残している。
第一に、どこまでも、広宣流布のための機関紙。民衆の幸福と平和のために立ち上がろうという思いが湧き起こる新聞。
第二に、すべての人が、真実の仏法とは何かを、よく理解することができる新聞。
第三に、読者に勇気と希望を与える“励ましの便り”。
その範は、先生の言論と行動の中に示されている。
今や聖教電子版も220カ国・地域で閲覧される時代に。「聖教新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい」という戸田先生の熱願は、池田先生のもとで現実になった。
聖教新聞は、師の薫陶のままに「人間の機関紙」の言論を届け続ける。何より池田先生の真実を伝え、友に勇気と希望を送る「師弟の機関紙」であり続けたい。
“一人”を励ます
小説やエッセーに加えて、先生のペンは数限りない句や歌、短文や長編詩を紡ぎ出してきた。それは「なんとか、わが友が、苦境を乗り越えて、その人らしい成長と逞しい自信をもってくれればという、悲願にも似た心情から、できるだけ、一人一人に適するように書き送ったまでである」。
1976年(昭和51年)7月、先生は新しい学会歌の制作に取り組んだ。一部のマスコミや宗門僧らによる、学会への攻撃が始まっていた頃。
その中で誕生した「人間革命の歌」は、戸田門下にとっての「同志の歌」と同様、池田門下が生涯の師弟共戦を誓う魂の歌となった。
宗門事件の嵐が激しさを増した78年(同53年)には、次々と各部や各方面の歌が生まれた。
学生部歌「広布に走れ」、未来部歌「正義の走者」、東京の歌「ああ感激の同志あり」、東北の歌「青葉の誓い」、中部の歌「この道の歌」、中国の歌「地涌の讃歌」。そして関西の歌「常勝の空」――先生の魂は、これからも同志の「正義の闘魂」を呼び覚ますに違いない。
桂冠詩人の衝撃
詩を通じた人間交流は、同志だけに限らない。国境を越え、民族や宗教を超えて、先生の詩は人々の心を打った。
インドのセトゥ・クマナン議長が創価池田女子大学を設立したきっかけも、クリシュナ・スリニバス博士から贈られた書籍で先生の「母」の詩を読み、「雷光を目にしたような衝撃」を受けたからだった(聖教新聞11月17日付インタビュー)。
スリニバス博士とは、先生に「桂冠詩人」の称号を贈った世界芸術文化アカデミーの事務総長であり、「世界桂冠詩人」賞を贈った世界詩歌協会の会長である。
クマナン議長「師匠とは弟子が一番苦しんでいる時に力を与えてくれる人」
クマナン議長は語る。
「池田先生を師匠と決めたのは、先生の『詩』を読んだ瞬間です。詩人と詩人は、すぐに共鳴するものです」「先生の詩は、どんな人にも分け隔てなく力を与えています」
「私は知りました。師匠とは、弟子が一番苦しんでいる時に『力』と『幸福』を与えてくれる存在なのだと」(同)
先生に「桂冠詩人」の称号が贈られることが決まったのは81年(同56年)7月1日。
先生が桂冠詩人として始めて作詞した学会歌は「紅の歌」であり、初めて詠んだ長編詩は「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」であった。いずれも、宗門の迫害に苦しみに苦しみ抜いた地で、青年よ立ち上がれと、青年と共につくった共戦の歌である。
「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」は12月10日、大分で苦闘の同志を励ます反転攻勢の激闘の中で紡がれた。
大分平和会館の管理者室で、先生の口述を5人の青年が必死に書き取る。青年たちは、先生が県の代表メンバーとの懇談に向かった間、必死で清書に当たった。
懇談から帰った先生はすさまじい気迫で「原稿はどうなった!」。
詩が発表される予定の大分県青年部幹部会は午後7時開始の予定。時間がない。続々と参加者が集い、会合開始は1時間早められた。それでも先生は真剣勝負で推敲に当たり、直しの口述が終わった時、既に幹部会は始まっていた。
詩作は戦いであり、詩とはやむにやまれぬ魂の叫びであった。
青年とは
希望とは
真実とは
広宣流布という
友のための法戦を
貫きゆくことなのだ――
(長編詩をもとにした歌「青年よ広布の山を登れ」)
その法戦の旗は今、いよいよ、21世紀を生きゆく我らの腕に託された。
桂冠詩人の軌跡 ~池田大作「詩」世界~