2024.10.04
〈特集 師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年〉③ 世界に続く励ましの道
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「妙法という平和の種を蒔く尊い一生を! 私もそうします」
池田大作先生の巨大な足跡を特集する「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」の第3回は、「世界に続く励ましの道」。創価の連帯がいかにして192カ国・地域へと広がったのか。その軌跡をたどる。
恩師の言葉を胸に
すでにその会場には、51カ国・地域の代表158人が集まっていた。
グアムの空港から程近い、白亜の国際貿易センタービルに池田先生ご夫妻が姿を現したのは、1975年(昭和50年)1月26日の午前11時過ぎである。SGI(創価学会インタナショナル)の発足となる「世界平和会議」が行われようとしていた。
先生は入り口に置かれていた署名簿の前へ。ペンを手に取り、氏名を記すと、国籍の欄にはこう書いた。「世界」――と。
万人の平等と尊厳を説いた仏法の眼から見れば、国や民族の違いなどない。池田先生の胸中には、恩師・戸田城聖先生が生前に示した「地球民族主義」という言葉が響いていたのである。
会議の席上、SGI会長に就任した池田先生は訴えた。
「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」
賛同と決意の大拍手が鳴り響く。参加者の誰もが知っていた。今この場に自分が妙法を持ち集った事実それ自体こそ、先生が第3代会長就任以来、各国に励ましの種を蒔いてきた証しであることを。
負けてはいけない
「世界広布」という文字が初めて、見出しとして聖教新聞紙上を大きく飾ったのは、60年(同35年)10月5日付1面だった。先生が羽田の東京国際空港から初の平和旅に出発した3日後のことである。
渡航がまだ珍しい時代。海外の会員数もわずか。“世界”の実感が乏しい当時の日本の同志が、どれほど胸を躍らせたか。国内で先生が巻き起こしてきたような折伏弘教の旋風が、いよいよ海外でも――そんなイメージを抱いた友もいたに違いない。
しかし先生が何よりも重視したのは、まず「話を聞く」ことだった。行く先々での座談会は主に、会員からの質問に耳を傾ける形で行われたのである。
ハワイ・ホノルルでの座談会で「日本に帰りたい」と言った、東北生まれの若い女性がいた。朝鮮戦争に従軍した米兵と結婚。夫の郷里であるハワイへ移り住む。だがそこに、夢見た生活はなかった。言葉の壁、経済苦、夫の暴力……。女性は「どうしていいのか、分からないんです」と肩を震わせて泣きじゃくる。会場には似たような境遇の女性がほかにもいて、涙を誘われるように嗚咽がもれた。
先生は大きく頷き、静かに語った。「毎日、苦しい思いをしてきたんですね。辛かったでしょう。……でも、あなたには御本尊があるではありませんか。信心というのは生き抜く力なんです」。さらに仏法の「宿命転換」の法理を通して真心の励ましを重ね、こう結んだのである。
「あなたが幸せになることは、あなた一人の問題にとどまらず、このハワイの全日本人女性を蘇生させていくことになるんです。だから、悲しみになんか負けてはいけません」
サンフランシスコにも同様の女性たちが。ここでも先生は話に耳を傾け、渾身の励ましを送った。そして「市民権を取得し、良き市民に」「自動車の運転免許を取る」「英語のマスター」という三つの指針を示したのである。
どこか遠くに理想を求めるのではない。現実社会に根を張り、今いる場所で信頼と幸福をつかむ生き方をと望んだのだ。
「あなた」が大切
ブラジルの座談会でも、先生は「自由に何でも聞いてください。私はそのために来たんです」と気さくに呼びかけた。
農業移民の壮年が「不作で借金を抱え、どうすればいいか……」と尋ねると、先生は反対に「肥料に問題は?」「土壌と品種との関係は?」と一つ一つ質問。「仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません」と、仏法者の在り方を懇切丁寧に伝えた。
先生がアメリカ、カナダ、ブラジルの9都市を巡る中で友に強調したのは、「布教に努めよう」「会員数を増やそう」といったことではない。「あなたが幸福になることが大切だ」「あなた自身が信仰を貫くことこそ大切なのだ」と訴え続けたのである。
平和旅は、生きる希望を失った友や、現実の課題と格闘する同志の心に“勇気の灯”を点じることから始まった。「それは、およそ世界の平和とはほど遠い、微細なことのように思えるかもしれない。しかし、平和の原点は、どこまでも人間にある。一人ひとりの人間の蘇生と歓喜なくして、真実の平和はない」(小説『新・人間革命』第1巻)
先生のこの信念と行動は、ほかの国や地域での激励行においても変わらなかった。
3カ月後の61年(同36年)1月28日から香港、スリランカ、インド、ミャンマー、タイ、カンボジアへ。さらに同年10月4日からは欧州のデンマーク、ドイツ、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリアを駆けた。
まだ学会員が一人もいない国でも、大地に染み込ませるように題目を胸中で唱え続けた。“やがて、地涌の菩薩が必ず出現するように!”と。
62年(同37年)1月には中東訪問、64年(同39年)には東欧・北欧へ。75年(同50年)のSGI発足までに、先生は36カ国・地域に「励ましの種」「広布の種」「平和の種」を蒔いていったのである。
嵐を越えて
いずこにも、広布が容易に伸展した所など一つもない。むしろ困難の連続であった。
太平洋戦争で日本の侵略に遭ったアジアでは、“日本の宗教”というだけで、偏見や誤解から非難の嵐が吹き荒れた。台湾では1963年(昭和38年)に学会組織への解散命令が出され、64年(同39年)には韓国政府が「布教禁止」措置を取り、学会は“反国家的な団体”との烙印を押されてしまう。
中南米各国では60~70年代に軍事政権が次々と樹立。集会が制限されるなど非常事態の中での活動が続き、池田先生の訪問もままならない。
先生は各国・各地のリーダーに伝言を贈り、手紙を書いた。来日する友がいると聞けば時間をこじ開け、懇談の機会を持ち、一期一会の思いで励まし続けた。
「焦らなくていい。私が付いているから大丈夫だ」と大きく包み込む時もあれば、青年にあえて「まず、5年間、退転せずに頑張りなさい。今は苦しみなさい。本当の師子にならなければ、広宣流布などできない!」と学会精神の真髄を打ち込むことも。一貫していたのは「この人を奮い立たせよう! この人を不幸にさせてなるものか!」との熱情である。
東西冷戦下にあって、先生は海外の同志に「政治体制に左右されてはならない」とのメッセージを繰り返し発信し続けた。81年(同56年)、まだ東西が分断されていたドイツで、SGIの存在理由を語っている。
「資本主義も行き詰まっている。社会主義も行き詰まっております。しかし、私どもは、それぞれの体制をうんぬんしようというのではない。どんな体制の社会であろうが、そこに厳として存在する一人一人の人間に光を当てることから、私たち仏法者の運動は始まります」
各国・各地で一人また一人と同志が立ち上がり、良き市民として社会貢献を重ねた。SGIへの共感と信頼は年々歳々、その水かさを増していく。池田先生のリーダーシップをたたえ、名誉市民証を贈る自治体や名誉学術称号を授与する大学が相次いだ。
87年(同62年)2月、先生はドミニカ共和国の国家勲章を受章。メンバーが集った会合で、その真情を伝えた。
“できるなら、この勲章のメダルを細かく分けて、一人一人に差し上げたい。皆さんは本当に苦労してきたのだから”――そして、こう語ったのである。「皆さん方が幸福になることが大事なんだよ。勲章をいただいたら、皆さんがこの国で学会活動しやすくなる。学会員が幸せになることが私の勲章だ」
新時代の山本伸一
学会破壊を画策した邪宗門の鉄鎖を断ち切り、「創価ルネサンス」の飛翔を開始した1993年(平成5年)――先生は北・南米やアジアの地を足かけ3カ月にわたり訪問する激務の中で、「限りある命の時間との、壮絶な闘争」と位置付けた執筆の戦いを開始する。同年8月6日に起稿した小説『新・人間革命』の連載である。
第1巻は主人公である山本伸一が、恩師・戸田城聖先生から託された「君は世界に征くんだ」との夢を胸に、広布旅へと出発する場面から幕を開ける。「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」と――。
小説は各国語に翻訳され、世界中の同志にとって“信心の成長の糧”となっていく。池田先生と直接の出会いを結んだことのない青年たちも、先生の平和闘争を学び、心で師匠と対話をしながら、「私が21世紀の山本伸一に!」と誓い、広布に駆けた。
連載の開始時、115カ国・地域だった創価の民衆の連帯は、192カ国・地域に。2018年(同30年)8月6日に全30巻の脱稿を経て、“新時代の山本伸一”の陣列はさらに拡大し、海外の同志は今や300万人に及ぶ広がりとなっている。
世界五大州から寄せられる創価の平和・文化・教育運動への称賛の声も、やむことがない。かつて弾圧にさらされた台湾SGIは行政院内政部から、顕著な社会貢献を果たした宗教団体として「宗教公益賞」を21回連続で受賞。韓国においても、各自治体・諸機関から池田先生ご夫妻への顕彰が相次いでいる。
16年(同28年)7月には、イタリア創価学会仏教協会とイタリア共和国政府との間で結んだインテーサ(宗教協約)が発効。また2023年、ドイツSGIが州政府から「公法社団法人」に認可され、「ドイツ創価学会」として新たに出発した。
――2023年9月、研修会で来日した44カ国・地域の青年をはじめ全世界の同志に、先生はメッセージで呼びかけた。
「限りなく伸びゆく世界の“山本伸一”たちと共々に、地球民族の宿命転換を」
先生がその生涯において蒔いた「妙法という平和の種」は、訪問した54カ国・地域だけにとどまらない。“分身の生命”たる不二の宝友たちとの師弟共戦によって、まさに名実共に全世界に蒔かれ、地涌の人華を咲かせている。