2024.10.04
〈特集 師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年〉④ 人類の宿命転換への挑戦
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文明を超え壁をとかした人間主義の対話の旅路
池田大作先生の巨大な足跡を6回にわたって特集する「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」。第4回は「人類の宿命転換への挑戦」と題し、戦火の青春を歩んだ先生が戸田先生の不戦の松明を継ぎ、世界に平和と対話の行動を起こした軌跡を追う。
戦争の世紀を断じて不戦の世紀に
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」
小説『人間革命』第1巻の「はじめに」の言葉は、同小説と続編の『新・人間革命』を貫く主題であり、同時に、池田先生が自らの人生を懸けた挑戦の宣言でもある。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」。先生は1964年(昭和39年)12月2日、沖縄の地で『人間革命』を書き起こした。沖縄は先の大戦で凄惨な地上戦の舞台となり、最も民衆が苦しんだ地であったからだ。
そして、若き日の池田先生もまた、その戦争で苦しんだ青年の一人だった。
戦火の青春
1928年(昭和3年)、東京の現・大田区に生まれた先生は「日本中が異常なまでに、戦争の動向に関心を払わされた時代」(『私の履歴書』)に少年期を過ごした。
9歳で日中戦争が勃発。14歳を目前に太平洋戦争が始まる。4人の兄は次々と兵役に取られた。強制疎開で家を追われ、移った家も空襲で焼かれた。敗戦後には長兄の戦死公報を受け取り、慟哭する母の背中を見た。自身の体は肺病に侵され、生命の内にも外にも、常に死の影がつきまとっていた。
「私は、戦争を憎んだ。民衆を戦争へと駆り立てた、指導者を憎んだ」
池田大作先生の足跡 信念と行動 平和への熱き思い
17歳の夏に敗戦。多くの青年と同様、「こんな歴史を二度と繰り返さぬために、自分は何をすべきか」を先生は問うた。そんな中で、一人の壮年と出会う。47年(昭和22年)8月14日の夜であった――。
誘われて出席した創価学会の座談会で、その人、戸田城聖先生は「立正安国論」を講義していた。
「正しい人生とは」「真の愛国者とは」「天皇制について」。三つの質問にも、簡潔で明快な答えが返ってくる。しかも、あの戦争で軍部に抗し、投獄された人だという。“この人なら信用できる”。池田先生は10日後に入信し、戸田門下生となった。
立正安国論に「すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱るべきものか」(新44・全31)と。信仰の道への出発は、世界平和への秘めたる一歩ともなったのである。
社会への宣言
池田先生は30歳になる目前、過去と未来の10年ごとの歩みを日記に書き残した。
十歳まで……平凡な漁師(海苔製造業)の少年時代
二十歳まで……自我の目覚め、病魔との闘い
三十歳まで……仏法の研鑚と実践。病魔の打破への闘い
四十歳まで……教学の完成と実践の完成
五十歳まで……社会への宣言
六十歳……日本の広布の基盤完成
医師からは「30歳まで生きられない」と言われた体。この時点では、60歳より先は記していない。
――68年(同43年)9月8日。第3代会長就任から8年、40歳を迎えていた先生は、世界に向けて大きく「社会への宣言」を放った。第11回学生部総会で発表した「日中国交正常化提言」である。戸田先生が「原水爆禁止宣言」を行ってから満11年が、この日だった。
冷戦の激化、中国の文化大革命の影響で、日中関係は冷え切っていた。過去には、両国友好の復元に努めた政治家が刺殺される事件もあった。厳しい社会情勢の中、なぜ命の危険を冒して提言したのか。
「私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である」(小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章)。それが先生の真情だった。
「光明日報」の劉徳有記者は、提言を受け、いち早く中国に打電。外交の全権を担っていた周恩来総理のもとにも、その報は届いた。
反発、警戒、あるいは脅迫――提言は内外に負の反応を呼び起こしたが、一方で、中国文学者の竹内好氏が「光りはあったのだ」と評し、政界の重鎮・松村謙三氏が「百万の味方を得た」と語るなど、両国関係の打開を願う人々からは大きな支持が寄せられた。
72年(同47年)9月に国交正常化が実現する過程で、公明党が橋渡し役となったのも、党創立者である先生の提言への中国側の評価、とりわけ周総理の信頼があったからである。
池田先生の逝去にあたって中国外務省が「中国人民が信頼し尊敬する古き良き友人」「先生が築かれた『金の橋』が永遠に後世へ続いていくことを念願している」(毛寧報道官)とコメントしたことには、こうした半世紀以上にわたる歴史の背景がある。
池田先生は74年(同49年)5月30日、初めて中国の地を踏んだ。まだ直行便がない時代。英国領だった香港から列車で境界まで行き、鉄橋を歩いて中国に渡った。
行程は約2週間。ある時、一人の少女に聞かれた。
「おじさんは、何をしに中国に来たのですか?」
先生は言った。「あなたに会いに来たのです!」
池田先生は、世界を平和と共存の時代へと動かす挑戦を続けながら、その視線は常に、庶民の一人一人に向けられていた。
友誼のバトンを
2度目の訪中の機会はその年のうちに訪れた。
周総理と池田先生の会見が実現したのは12月5日。訪問最後の夜である。
総理は当時、全身をがんに侵され、病床にいた。医師や周囲も反対する中、総理はそれを退けて、会見に臨んでいた。
総理は、ゆっくり歩み寄り、先生の手を握った。
「どうしてもお会いしたいと思っていました」
「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどうしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことが、私にはとてもうれしい」「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」
総理から託された友好の志を受けて、先生は国交正常化後の第1号となる国費留学生を、自ら身元保証人となって創価大学に受け入れるなど、青年交流、教育・文化交流に心血を注いでいった。
池田大作先生の足跡 周恩来氏
世界的な歴史学者
「2人で有意義に意見交換できれば幸いです」
日中国交正常化提言を発表した翌年、一通の書簡が池田先生のもとに届いた。差出人はアーノルド・J・トインビー博士。20世紀を代表する歴史学の巨人である。対談は1972年(昭和47年)5月、イギリスの博士の自宅で実現した。
当時、ベトナム戦争が泥沼化。核兵器使用の脅威も高まっていた。この年、ローマクラブのリポート「成長の限界」では「100年以内に地球が成長の限界に達する」と示され、世界に衝撃を与えた。
博士は、現代文明の危機を乗り越える道を示す高等宗教として、以前から仏教に強い関心を寄せ、“生きた仏教”の指導者として先生に注目したのである。
対談はこの時と、翌73年(同48年)5月に、年をまたいで約40時間に及び、対談集『21世紀への対話』に結実した。現在までに31言語で刊行され、いわば「人類の教科書」になっている。
トインビー博士「私たちの語らいは後世のため」
73年の対談の最終日、イギリスのテレビは、ソ連の首脳と西ドイツ首相の会見を、大きく報じていた。
それを見ながら博士は言った。「私たちの対談は地味かもしれません。しかし、私たちの語らいは、後世の人類のためのものです。このような対話こそが、永遠の平和の道をつくるのです」
対談を終える際には、こうも語っている。「人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください。ロシア人とも、アメリカ人とも、中国人とも」
さらに、人を介して、一枚の紙片を先生に託した。そこには「可能ならば、お会いしていただければ」と、米国の微生物学者デュボス博士や、ローマクラブの創立者ペッチェイ博士などの名前が記してあった。
先生はこれらの人々をはじめ、世界の識者と21世紀を展望する語らいを繰り広げながら、言葉だけでなく自らの足で平和の橋を架けていった。
池田大作先生の足跡 アーノルド・J・トインビー博士
「人間」に会いに行く
74年(同49年)9月8日、5月の初訪中に続いて、先生はソ連を初訪問する。
「鉄のカーテン」で世界を二つに分断していた、社会主義陣営の“盟主”。その国に行くことに対して、日中提言と同様に、「宗教否定の国に行くのか」等と、強い反発があった。
先生の答えは「そこに、人間がいるからです」。
モスクワ大学のホフロフ総長、ノーベル文学賞受賞者のショーロホフ氏といった著名人だけでなく、宿舎の鍵当番の婦人、釣りをしていた老人と孫、モスクワ大学の学生――市井の人々や青年・学生に語りかけ、思い出を刻んだ。あたかも、凍てついた心の大地をとかすように――。
滞在の最終日、クレムリンで会見したコスイギン首相に「あなたの根本的なイデオロギーは何ですか」と問われると、先生は即答した。
「平和主義、文化主義、教育主義です。その根底は人間主義です」
「その原則を高く評価します。この思想を私たちソ連も実現すべきです」と首相。
今度は先生が問うた。「ソ連は中国を攻めますか」
当時、中ソ対立も、米ソ対立と同様に激しさを増していた。
首相は「攻撃するつもりはありません」。
「それを伝えてもいいですか」と聞くと「結構です」と。
この発言は、3カ月後の先生2度目の訪中の際、中国首脳へ伝えられた。「この情報を周総理は非常に重視した」(中国・南開大学周恩来研究センター所長を務めた孔繁豊氏)とされる。
翌75年(同50年)1月、先生は米国でキッシンジャー国務長官と会談。米中ソの3カ国を巡り、平和と核戦争回避のための民間外交を展開していったのである。
池田大作先生の足跡 ヘンリー・A・キッシンジャー
新思考の指導者と
70年代に本格的に開始された先生の平和行動が、さらに大きく開花していくのは、79年(同54年)4月24日、第3代会長を辞任し、名誉会長となってからである。
既に75年(同50年)の1月26日にSGI(創価学会インタナショナル)会長となっていた先生は、82年(同57年)6月、第2回国連軍縮特別総会に寄せ、核兵器廃絶を訴える提言を発表。翌83年(同58年)の1月には1・26「SGIの日」を記念し、「平和と軍縮への新たな提言」を発表する。
以後、この記念提言の発表は昨年まで続いた。
89年(平成元年)11月、ベルリンの壁が崩壊すると、翌年末に明らかになった宗門の謀略を見下ろしながら、先生の平和建設は、文明間、宗教間に対話の橋を架け、よりスケールを大きくしていった。
80年代から90年代にかけて会見した国家元首・指導者には、統一ドイツのヴァイツゼッカー大統領、南アフリカのマンデラ大統領、キューバのカストロ議長、インドのラジブ・ガンジー首相、シンガポールのリー・クアンユー首相、マレーシアのマハティール首相らがいる。
またアメリカ公民権運動の母ローザ・パークス氏、音楽家のユーディー・メニューイン氏、科学者のライナス・ポーリング博士、経済学者のガルブレイス博士らと交友を結んだ。
とりわけ、池田先生の逝去の際、内外のメディアで大きく報じられたのが、ソ連元大統領のミハイル・ゴルバチョフ氏との友情である。
ゴルバチョフ氏とは、90年(同2年)7月27日、モスクワのクレムリンで初会見。
氏は疲弊する社会の立て直しを図る「ペレストロイカ(改革)」を断行。前年12月、マルタでの米ソ首脳会談で冷戦終結を宣言し、ソ連の初代大統領に就任していた。
先生は開口一番、「きょうは、大統領と“けんか”をしにきました。火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう! 人類のため、日ソのために!」と。
大統領は、思わぬ一言に、にっこり笑って応じた。
「わかりました。やりましょう!」
語らいは白熱し、ペレストロイカの現状や意義、青年への期待などを巡って、1時間以上に及んだ。
会見で大統領は語った。「ペレストロイカの『新思考』も、池田会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」
さらに大統領は翌年春の訪日の意向を明言し、日本でもこの発言が、その夜のトップニュースとして報じられた。
約束通り、翌91年(同3年)の4月、ソ連の国家元首として初の訪日を果たした大統領は、過密スケジュールの合間を縫って、先生と再会。
大統領辞任後も、家族ぐるみの交流は続き、対談集『20世紀の精神の教訓』を発刊。計10度会談した。創価大学には、周恩来総理夫妻との友情を記念する「周桜」「周夫婦桜」と共に、ゴルバチョフ氏夫妻が先生ご夫妻と植樹した「ゴルバチョフ夫婦桜」が咲き誇っている。
池田大作先生の足跡 ミハイル・ゴルバチョフ氏
生も歓喜 死も歓喜
指導者や識者との語らいとともに、池田先生が力を注いだのが、大学や学術機関での講演だった。
なぜか。「人類は、大学において一致できる。融合できる。学問は国家を超え、体制を超え、民族を超えるからだ」と先生は記している。
アメリカ屈指の名門・ハーバード大学では2度講演した。91年(同3年)9月の初講演が「ソフト・パワーの時代と哲学」をテーマとしたのに対し、93年(同5年)9月の2度目の講演は「21世紀文明と大乗仏教」と題し、仏法の生命観、生死観を真正面から論じた。
戦争など現代文明の混迷の根っこには、死を避け、死を忘れた人間の傲慢さがあり、大乗仏教が説く「生も歓喜、死も歓喜」の哲理に触れながら、生命尊厳と「開かれた対話」をもとにした人類文明の建設を展望した。
約40分の講演を終えると、会場を深い感嘆のため息と大拍手が満たした。
以後も先生は、モスクワ大学(2度目)、イタリアのボローニャ大学、米コロンビア大学、キューバのハバナ大学、インドのラジブ・ガンジー現代問題研究所などで、人類の宿命転換に向けた、壮大な人間主義のビジョンを提示し続けていった。
池田大作先生の足跡 21世紀文明と大乗仏教
永遠に平和の道を
先生は70歳を迎えた98年(同10年)1月、随筆に記した。
「ここに、六十歳以降の、わが人生の歩みと推測を記せば、たとえば、次の如くなる哉。
七十歳まで……新しき人間主義の哲理を確立
八十歳まで……世界広布の基盤完成なる哉
このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」
今、核兵器の問題、民族対立、気候危機など、古くて新しい課題が我々の前に立ちはだかっている。
だが、その解決のための方途と原理は、池田先生の声と対話と行動の中に全て示されている。あとは、後継の青年のアクション――行動に託されている。