2024.09.06
〈特集 師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年〉⑥=完 わが最終の事業は教育
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創価三代の教育の夢は世界へ未来へ果てしなく広がる
特集「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」の最終回は、「わが最終の事業は教育」。日本そして世界に創価教育の学びやを創立し、平和を守り、社会に貢献する人材の育成に尽くしてきた軌跡を追う。
1930年(昭和5年)、小学校校長だった牧口常三郎先生は『創価教育学体系』を著した。その編集・出版に奔走したのは戸田城聖先生であった。
世界では経済恐慌の嵐が吹き、日本では軍国主義の暴走が始まっていた時代である。
『体系』の奥付には、発行日の「11月18日」の横に、印刷日が「11月15日」と記されている。
奇しくも、創価教育の父は「11・18」に崇高な殉教を遂げられ、創価教育の大城を創立した池田大作先生は「11・15」に霊山へ旅立った。
先師と恩師の遺志を継ぎ、池田先生が築き上げた創価教育の連帯は、地球規模で大きく広がっている。
東京と関西にそれぞれ小学校から高校までの創価学園を創立。今や67カ国・地域の251大学と交流を結ぶ創価大学、女子教育の殿堂たる創価女子短期大学に続き、新世紀開幕の2001年には、アメリカ創価大学が開学した。
幼稚園は札幌に次いで、香港、シンガポール、マレーシア、韓国に誕生。ブラジル創価学園は幼稚園から高校までの一貫校に発展し、本年8月には、創価インターナショナルスクール・マレーシアの第1回入学式が行われた。
「大作、頼むよ」
創価教育の大城の建設――その夢は、苦境の中、師から弟子に託された。
50年(同25年)11月16日、都内の大学の学生食堂で戸田先生は池田先生に語った。
「大作、創価大学をつくろうな。私の健在のうちにできればいいが、だめかもしれない。そのときは大作、頼むよ。世界第一の大学にしようではないか」
戸田先生は3カ月前、事業が「業務停止命令」を受け、窮地に立たされていた。社員が次々と去る中、孤軍奮闘していたのが池田先生だった。
この日、22歳の若き池田先生は、恩師の言葉を深く心に刻んだ。学校の設立は、牧口先生の願いでもあった。
先師と恩師の熱願を胸に、池田先生は、幼稚園から大学に至る一貫教育の構想を人知れず練り上げていく。
第3代会長に就任する1カ月前の60年(同35年)4月5日には、香峯子夫人と共に東京・小平にある創価学園の建設候補地を視察。敷地の購入を決意している。
64年(同39年)6月30日には「世界の平和に寄与する大人材を、大指導者をつくり上げていきたい」と、創価大学の設立構想を正式に発表。やがて設立審議会が発足し、建設が本格的に始動した。
何のため
68年(同43年)、東京・創価学園が中高一貫の男子校としてスタートする。
71年(同46年)には創価大学が開学した。大学紛争に揺れる時代。行き詰まった大学界に希望の灯をともすため、「人間教育の府」の開学を2年早めた。
池田先生は設立資金を捻出するためにも、執筆活動に力を入れた。原稿を書き、働きに働いた。著作の印税等を資金に充てた。教育理念に共感する多くの人々の支えもあった。建設予定地の整地や清掃に汗した人、事業に参加したいと真心の寄付を申し出た人も多かった。
そうした無名の庶民の手によって創られた「民衆立の大学」であることを、先生は折あるごとに創大生に語った。
“いい大学に入り、いい会社に就職する”ことが幸福という風潮がある中で、「大学で学ぶのは、大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためである」との信念からだった。
創大開学に寄せて、先生は一対のブロンズ像を贈った。その台座には、こうある。
「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」
「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」
21世紀とその先へ
学園や大学を創立後、池田先生は生徒や学生たちの中に飛び込み、自らの姿を通して「人間教育」の範を示した。
ある時は、卓球やテニスなどを共にした。一緒に釣りをしたり、俳句を作ったりもした。西洋料理の会食会に招待し、テーブルマナーの基本を教えたこともあった。
「教育というのは良い刺激を与え続け、良い思い出をつくってあげることです」と教員に語っている。
成績不振の生徒や、途中で退学することになった生徒も、ずっと見守り続けた。その中からは大学教授など、使命の道で奮闘する友が数多く誕生している。
全国各地から生徒が集まる東京の創価学園では“夏休み前に地方出身者のための思い出づくりを”と提案。そうして始まったのが、伝統行事となる「栄光祭」だった。先生は24年連続で出席し、学園生と時間を共にした。
「みんなと一緒に見てもいいかな」
第2回が行われた69年(同44年)7月17日、会場のグラウンドに到着した池田先生は、真っすぐに生徒席へ向かった。近くに座る生徒に名前や出身地などを尋ね、優しく励ます。舞台で繰り広げられる民謡大会や創作劇などに、惜しみない拍手を送った。
先生は呼びかけた。
「21世紀の初めには、この1期生、2期生から、社長や重役、ジャーナリスト、あるいは、科学者、芸術家、医師など、あらゆる世界で、立派に活躍する人がたくさん出ていると、私は信じます」
そして21世紀最初の7月17日に、ここにいる全員で集い合おうと述べ、「私も、2001年を楽しみにして、諸君のために道を開き、陰ながら諸君を見守っていきます。それが、私の最大の喜びであるし、私の人生です」と。
成長し、勝って創立者のもとへ!――楽しい「思い出」は、学園生の大いなる「誓い」となった。
「戦争の世紀」から「平和の世紀」へ、教育に懸ける先生の目は、常に21世紀とその先の未来に向けられていた。
わが子以上に大切に
開学以降、池田先生が初めて創価大学を公式訪問したのは、学生たちの真心の招待を受けた第1回創大祭だった。
先生は模擬店などを巡り、創大生が懸命に作り上げた展示を観賞。「よく研究したね。大変だっただろう」。学生たちをねぎらいつつ、3時間以上かけて全てを見て回った。皆が、夜遅くまで準備に当たっていたことを知っていたのだ。
また、寮生が開催した「滝山祭」の第2回(1973年〈昭和48年〉7月)には、3日間の全日程でキャンパスを訪れ、学生たちを激励。最終日の盆踊り大会では、手の皮がむけるほど力強く太鼓を打ち続けた。
先生は常々、教職員に「わが子以上に、学生を大切にするんだよ」と語り、自らの一挙手一投足で「学生第一」の精神を示した。「世界で一番、学生を大事にした大学が、世界で一番の大学になる。それが方程式です」と。
同年10月の第3回創大祭。企業のトップや就職関係者ら約700人の来賓を招き、祝賀会が行われた。
「創立者の池田です。学生が就職活動で伺った折には、どうか、よろしくお願いします」。池田先生は一人一人に名刺を渡し、深々と頭を下げた。体調が優れぬ中、汗びっしょりになりながら、約2時間、体育館中を歩き回った。新設校である創大に進学してくれた1期生たちのために、自らが企業の代表に会って、創大生のことをお願いしようと決めていたのである。
そんな創立者の姿に触れ、1期生は奮起した。就職活動が始まり、会社訪問をしても指定校ではないという理由で断られることもあった。それでも、毅然としていた。
「私は結構です。しかし、私の後には、優秀な後輩たちが続いています。来年の後輩たちについては、どうかよろしくお願いします」
オイルショックによる不況で就職難となったが、1期生は名だたる企業から内定を勝ち取り、就職率100%を達成した。高い就職率の伝統は今も脈々と続いている。
地球規模で考える
海外平和旅を重ねる池田先生は、訪問先の絵はがきなどを学園生に贈り、世界市民の心を育んできた。
73年(同48年)5月、歴史学者トインビー博士との対談などのためにヨーロッパを訪れた先生は、パリでフランス人形を買い求め、「園子」と命名。この年に開校した創価女子学園に贈った。女子学園は82年(同57年)から関西創価学園となり、東京の学園と共に男女共学校として新出発した。
学園生は、創立者を通じて世界を身近に感じてきた。
先生が交友を結んだ、欧州統合の父クーデンホーフ=カレルギー伯爵、フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏、世界的絵本作家ブライアン・ワイルドスミス氏など、東西の学園には、5000人を超える海外の識者が訪れている。
正しい人生とは何か。先生は、識者の生涯や古今東西の偉人を紹介しながら、学園生や創大生に語った。
97年(平成9年)11月20日、錦秋の関西学園にゴルバチョフ元ソ連大統領夫妻が来訪。その際、先生はトルストイの寓話『若い皇帝』を紹介した。
――巨大な権力の座に就いた若き皇帝に、三つの声が呼びかける。
第一の声は“あなたの責任は、与えられた権力を維持していくことだけだ”。
第二の声は“自分の責任を上手に回避すればよい”。
最後に第三の声は言った。“「皇帝」としてではなく、「人間」としての責任を果たせ! 苦しむ民衆を救うために、行動せよ!”
そして、先生は訴えた。
「第三の『人間指導者』の道を選択した勇者こそ、ゴルバチョフ博士であると、私は断言したいのであります」
先生は随筆に記している。
「日本の小さな物差しではなく、地球規模のスケールで考え、手を打っていけるリーダーが躍り出なければならない。私が『君たちの舞台は世界だ』と語り、学園生や創大生に、世界の指導者や一流の文化人や芸術と触れ合う機会を数多く作ってきたのも、そのためである」
かけがえのない宝
「先生の夢は何ですか?」
2000年(同12年)2月28日、関西学園の卒業予定者との懇談で、女子生徒が尋ねた。
池田先生は「夢を考える暇がないくらい忙しいんだよ。世界中のことを考えているから」とユーモアを交えつつ、恩師の構想実現を夢として、一心不乱に駆けてきた人生を述懐。あふれる期待を込め、こう言葉を継いだ。
「皆さんが将来、名実ともに立派な博士となり、指導者になってもらいたい。それが最大の私の夢である」
先生は、学園生・創大生・短大生の卒業文集や署名簿を「私のかけがえのない宝」とし、手元で大切にしてきた。
同窓生の幸福勝利を祈り、励ましを送り続けてきた。
私は 永遠に 諸君と共にいる!
先生は詠んだ。
創価同窓の友の
活躍を知るとき
どれほど
胸が弾むことか
悲しい知らせを聞くとき
どれほど
胸を痛めることか
この思いは
創立者でなければ
絶対に わからない
私は 永遠に
諸君と共にいる!
私は 永遠に
諸君の味方である!
先生の心には、いつも創価教育の友がいた。そして同窓生の心に先生は生き続ける。
先生の夢は、創価教育のスクラムと共に、世界へ未来へ果てしなく広がっていく。